第2話 灯りの下の草履

夕飯の片づけが終わるころには、蝉の声は途切れていた。
昼間、あれほど家の外を満たしていた音が消えると、黒瀬家は急に大きくなった。柱の一本一本、襖の隙間、廊下の奥にある使われていない部屋まで、音のないぶんだけ輪郭を持ちはじめる。
私は洗った湯呑みを布巾で拭き、棚へ戻した。父が何度も位置を直していた湯呑みだった。口を揃え、取っ手の向きを同じにして並べる。そこまで整えても、棚の端に一つぶんの空きが残った。
「それ、仏間へ持っていってくれ」
父が背中越しに言った。
「まだ使う人いる?」
「いない。けど、そこへ置いとけ」
父は台所の勝手口を見ていた。閉じた戸の向こうに、裏庭がある。庭のさらに奥に、古い井戸がある。
私は湯呑みを持ったまま、父の横顔を見た。
「お父さん」
「何だ」
「昼に言ってたでしょう。家の外へ出るなって」
父の手が、流し台の縁で止まった。
「言ったな」
「草履のこと、誰か知ってるの?」
父はすぐには返事をしなかった。水道から落ちた雫が、金属の底で小さく弾ける。ひとつ。間を置いて、もうひとつ。その間隔が、玄関で聞いた水音と同じだった。
「知らん」
「でも、嫌がらせだって言った」
「昔から、盆前になると変なものを置いていく奴がいる。草履だったり、紙切れだったり、木札だったりな。村の悪ふざけだ」
「誰の悪ふざけ?」
「だから知らんと言ってるだろう」
声が強くなった。だが、父は私を見なかった。見れば嘘が形になるとでも思っているように、流しの排水口だけを見ていた。
「嫌がらせなら、どうして触るなって言うの」
「触ったら余計に面倒になるからだ」
「何が面倒なの」
「真尋、おまえは今日来たばかりで、何も知らない。法要の日に余計なことを起こしたくないんだ。親戚もいる。村の人間も出入りする。そういうときに、昔のことを蒸し返すような真似をしたら、婆さんの七回忌が台無しになる」
「昔のことって、何?」
父はようやく私を見た。
その目には怒りより疲れがあった。私を責めているのではなく、問いを受けるたびに何かを支えているような顔だった。けれど、支えているものが何なのかは言わない。
「おまえには関係ない」
「祖母ちゃんの法要なのに?」
「だから関係ないと言ってるんだ。死んだ人間のことを、いつまでも掘ったって仕方がない。婆さんはもう七年も前に死んだ。今日、ちゃんと送った。それで終わりだ」
「終わった人のために、どうして草履を置くの」
父の眉が動いた。
私は言葉を続けた。
「祖母ちゃんは、草履の向きを気にしてた。帰る人の足を家の中へ向けちゃいけないって言ってた。死者送りのときも、草履を二つ置いて、布で包んで、ずっと向きを確かめてた。あれは誰のためのものだったの」
「子どものころの記憶を、都合よく繋げるな」
「都合よくしてるのは私じゃないよ。何も言わないのは、みんなでしょう」
「みんなって誰だ。叔母たちか。村の連中か。俺か」
「分からないから聞いてるの」
「聞いてどうする。知ったら、おまえは東京へ帰れるのか。何もなかった顔をして、また自分の生活へ戻れるのか」
父の声は大きくなっていた。けれど最後のところで掠れた。
「俺はな、おまえにこの家の重さを持たせたくないんだ。婆さんが何をしていたかなんて、知らなくていい。家には、外へ出さないほうがいいことがある。誰かが悪かったとか、誰かが正しかったとか、そういう簡単な話じゃない。村には村の都合があって、家には家の都合があって、その間で誰かが黙るしかないこともある」
「黙った人は、何も悪くないの?」
「そうは言ってない」
「でも、そういうことにしたいんでしょう」
父の拳が、流し台の縁を叩いた。鈍い音が、台所の壁に吸われる。
「俺だって、好きで黙ってるわけじゃない」
「じゃあ、誰に言われたの」
「……」
「祖母ちゃん?」
父は答えなかった。
その沈黙は、祖母の名前を肯定するには長すぎた。否定するには短すぎた。私は湯呑みを置いた。置いた場所が少しずれたので、指先でゆっくり直した。
父がそれを見た。
「婆さんに似てきたな」
「どこが」
「物の向きを気にするところだ」
「祖母ちゃんの真似をしてるつもりはない」
「そういうところもだ。自分では気づかないうちに、あの人のやり方を受け継ぐ」
父はそこで言葉を切った。言ってはいけないことを口にしたようだった。
「何を受け継いだの、私は」
「真尋」
「家を守るやり方? 誰かを追い出して、何もなかったことにするやり方?」
父の顔から血の気が引いた。
七年前という言葉を、私はまだ口にしていない。なのに父は、それを聞いた人の顔をした。
「誰に聞いた」
「誰にも。だから聞いてる」
「それは、昔の村の揉め事だ」
「誰が揉めたの」
「もういい」
「よくない」
私は自分でも驚くほど静かに言った。
「草履が置かれている。父さんは触るなと言う。誰のものかと聞くと、昔からの嫌がらせだと言う。でも、誰が置いたのかは知らない。祖母ちゃんの数珠は熱を持つし、廊下では誰もいないのに足音がする。私が何も知らないからって、全部気のせいにしないで」
父は目を伏せた。
「足音なんて、古い家なら鳴る」
「私の足音のあとに、別の音がする」
「床板が響いてるだけだ」
「じゃあ、見てくればいい」
父は動かなかった。
そのことが、答えのように思えた。
勝手口の外で、何かが擦れた。
草の葉か、木の枝かもしれない。けれど父は反射的に戸へ振り返った。耳を澄ますように首を傾け、すぐに視線を落とす。私はその動きを見逃さなかった。
「井戸のほう?」
「知らん」
「今の音、聞こえたでしょう」
「風だ」
「風なんて吹いてないよ」
父は口を開いたが、結局何も言わなかった。代わりに勝手口へ歩き、戸締まりを確かめた。金具を二度、三度と押す。最後に鍵を掛けると、鍵束を握ったまま振り返った。
「今日はもう寝ろ。縁側にも近づくな。草履は朝になれば俺が片づける」
「どこへ?」
「捨てる」
「誰のものかも分からないのに?」
「だからだ」
「捨てたら終わるの?」
父の指が鍵束の中で震えた。

「終わるようにするんだ」
その言葉を残して、父は台所を出ていった。
私は一人になった。冷蔵庫の低い唸りと、壁時計の針が進む音だけが残った。祖母の家では、夜になると時計の音がやけに近く聞こえる。東京の部屋では、冷蔵庫も時計も生活の背景に沈んでいた。ここではどんな音も、何かを知らせるために鳴っているようだった。
湯呑みを仏間へ運ぶため、私は廊下へ出た。
蝉の声は完全に消えていた。代わりに、遠くの沢から水の流れる音がしている。廊下の床板は、私の体重を覚えているらしい。歩けば、昼と同じ場所が鳴った。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
祖母の部屋の前で、四枚目が軋む。
そのあとに、もう一つ鳴った。
私が踏んでいない板だった。
足を止めると、音も止まった。
私はすぐに振り返らなかった。振り返れば、何もないことを確認しなければならない。何もないものを見て安心するために、何かを探すことになる。その作業が、ひどく嫌だった。
仏間の障子越しに、縁側の灯りが細長く滲んでいる。
私は湯呑みを卓に置き、障子の前へ立った。灯りの位置を確かめるためだった。昼間、父が草履を見ないふりをしていたことが、まだ胸に残っていた。自分の目で見たものまで、父の声に合わせて曖昧にすることはできなかった。
障子を少し開ける。
外は、夜の手前の色をしていた。
庭の黒い輪郭と畳の内側を分けるように、縁側の灯りが落ちている。光の届く範囲だけが、薄い水の底のように浮かんでいた。
その中央に、草履があった。
左右ぴたりと揃っている。
昼間見たときと同じ位置だった。誰かが動かした形跡はない。それなのに、昼より近くに見えた。縁側の端に置かれているだけなのに、家の中へ一歩踏み込んだところにあるように感じる。
私はしゃがみ込んだ。
草履は古かった。表面の編み目には細かな土が入り、鼻緒は何度も結び直されている。泥は乾いているが、踵のあたりだけ色が濃い。水を含んだ土を踏んだあと、乾く前に誰かが歩き続けたような跡だった。
鼻緒の結び目に、見覚えのある縫い方があった。
祖母の裁縫箱で見た、細く詰まった縫い目。表からは目立たないのに、裏側へ回ると糸が何度も重ねられている。私は指を伸ばしかけた。
「触るなと言っただろう」
背後から父の声がした。
私は振り返った。父は廊下に立っていた。いつからそこにいたのか分からない。手には黒い数珠が握られている。
「この縫い方、祖母ちゃんのものだよ」
「古い草履なら、似たような直し方になる」
「そうかな」
「そうだ」
「父さんは、これを誰のものだと思ってるの」
父は縁側の草履ではなく、私の足元を見ていた。
「誰のものでもない」
「そんな言い方、できる?」
「できる。家の中にあるものは、持ち主が分からなくても片づけなきゃならん」
「人も?」
父の呼吸が止まった。
私は草履へ目を戻した。
「人も、家の中に置けなくなったら、持ち主が分からないものにするの?」
父はしばらく何も言わなかった。仏間の線香が、障子の隙間から細く流れてくる。煙は草履の上でほどけ、灯りの中へ消えた。
「真尋。おまえが考えているようなことじゃない」
「私が何を考えているか、父さんに分かるの?」
「分かる。おまえは今、誰かがこの家に戻ってきたと思っている」
その言葉を聞いた瞬間、背中が冷えた。
父は言い過ぎたと思ったのか、唇を結んだ。
「誰が戻るの」
「戻る人間なんかいない」
「七年前にいなくなった人も?」
父の目が初めて、まっすぐ私を見た。
その視線の奥に、恐怖があった。私に対する恐怖ではない。名前を持って戻ってくるものへの恐怖だった。
「その名前を、家の中で口にするな」
「誰の名前?」
父は答えなかった。
そのとき、庭のほうから小さな音がした。
乾いた土を踏む音。
ひとつ。
少し遅れて、もうひとつ。
私は息を止めた。父も動かなかった。
音は庭の奥から、縁側へ近づいてきた。草を擦る音ではない。裸足でも、靴でもない。硬いものが土を踏み、底の薄い履物がわずかに地面へ吸いつく音だった。
ひとつ。
また、ひとつ。
父の手の中で、数珠の珠が擦れた。
「戸を閉めろ」
低い声だった。
「誰かいるの?」
「閉めろ、真尋」
「父さんは見ないの」
「見るな」
音が、縁側の下で止まった。
庭と家の境目に、何かが立っている気配があった。視界には入らない。けれど灯りの外にある暗さが、ただの暗闇ではなくなっていた。そこからこちらを見ているものがある。
私は障子の桟を握った。木は湿っていて、掌に冷たい。
「草履を置いたのは、誰?」
自分でも、なぜそんなことを訊いたのか分からない。
父が私の腕を掴んだ。力が強い。子どものころ、車道へ飛び出しかけた私を止めたときと同じ手だった。守るための手つきだった。けれど今は、その手が私の視線まで押し戻そうとしている。
「今は聞くな」
「いつなら聞いていいの」
「朝になったら、何もかも片づける」
「また?」
父の指が緩んだ。
「何を片づけたの」
音はもうしなかった。
静けさだけが戻っていた。戻ったというより、音のあった場所を隠すように、静けさが厚くなっている。
私は父の手を振りほどいた。障子を閉めようとしたが、その前に草履が目に入った。
昼間は乾いていた表面に、細い水滴が浮かんでいる。
雨は降っていない。
水滴は鼻緒の根元から踵へ向かって、ゆっくりと流れていた。泥のついた跡が濃くなり、縁側の板に小さな黒い点を落とす。
ひとつ。
ふたつ。
その滴る音が、玄関で聞いた水音と同じ間隔で響いた。
父はそれを見て、数珠を握りしめた。珠の一つが、障子越しにも分かるほど赤く熱を帯びている。
私は草履から目を離せなかった。
その向きは、外へ向いている。
帰るためではなく、家の中へ入るための向きだった。
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