第1話 線香と蝉のあいだ

玄関の引き戸を開けたとき、蝉の声が途切れた。
外では、山の斜面を埋めるように鳴いていた。車を降りてから門まで歩くあいだも、頭上から降ってくる声に耳を塞ぎたくなるほどだったのに、戸をまたいだ瞬間、そのすべてが厚い木の向こうへ吸い込まれた。
代わりに聞こえたのは、私のサンダルが三和土に触れる音と、どこか奥で水の滴る音だった。
一つ。
間を置いて、もう一つ。
私は無意識に足元を見た。三和土には、親族の靴が何足も並んでいた。黒い革靴、薄い布のスリッパ、叔母の白いサンダル。どれも脱いだ人間の向きに合わせて、つま先がばらばらに外を向いている。その中で、祖母が生きていたころから使っていた木の下駄だけが、壁に沿ってきちんと揃えられていた。
祖母は履物の向きを気にする人だった。
「帰る人の足を、家の中へ向けておくんじゃないよ」
幼い私が脱ぎ散らかした靴を直していると、祖母はいつもそう言った。叱るときの声ではなかった。靴の向きを直す手つきのほうが、よほど厳しかった。
「じゃあ、どっちに向けるの」
「自分で帰れる向きに」
意味が分からず、私は笑った。祖母も笑ったような気がする。ただし、その笑いは口元だけだった。
「おかえり、真尋」
父の宗一が廊下の奥から歩いてきた。五十二歳になった父は、東京で会うときより小さく見えた。古い家の柱や鴨居が背後にあると、身体の輪郭まで家の一部になる。白いシャツの肩には線香の灰が付いていた。
「ただいま。遅くなってごめん」
「遅くはない。予定どおりだ。荷物はそこに置け。親戚はもう来てるから、挨拶だけしてくれ」
「うん」
「それから、着替えたら仏間に来い。婆さんに顔を見せてやれ」
父はそこまで言って、私の後ろへ視線を送った。誰かが立っているのかと思って振り返ったが、玄関の外には午後の光と、黒く湿った庭石しかなかった。
父は何も言わず、私のスーツケースを持ち上げた。昔から、重いものを私に持たせない。その気遣いだけは、祖母が亡くなったあとも変わらなかった。
廊下へ入ると、素足に床板の冷たさが伝わった。夏の昼なのに、家の中だけが季節から取り残されている。板の一枚目は乾いた音を立て、二枚目は低く沈み、三枚目は鳴らなかった。私はまた数えた。
一、二、三。
祖母の部屋の前を通ると、四枚目がかすかに軋んだ。
そこだけ、誰かが今も立っているような音だった。
仏間では、叔母たちが遺影の前に座布団を並べていた。黒い服の肩がいくつも重なり、白い襟元だけが線香の煙の中に浮いている。畳の上には法要のための供物が置かれ、果物の甘い匂いと、古木に染みついた湿り気が混じっていた。
正面の遺影の中で、祖母は少しだけ目を細めている。
私が子どものころに見ていた祖母は、いつもこの顔をしていた。何かを知っていて、それをすぐには教えない顔。私が泣いても、まず手を洗わせ、靴を揃えさせ、最後に膝へ乗せてくれた。
「真尋ちゃん、東京は暑かったでしょう」
叔母の美和子が、座布団を整えながら言った。
「こっちのほうが涼しいかと思ったんですけど、駅に着いたら東京と変わらなくて」
「山だから夜は冷えるよ。窓を開けたまま寝ないほうがいい」
「虫が入るから?」
私が笑うと、美和子は一度こちらを見てから、仏間の障子へ目を移した。
「虫だけなら、まだいいんだけどね」
言い終える前に、台所から父の声が飛んできた。
「美和子、茶はあと何人分だ。座布団が一枚足りないぞ」
「今やるわよ」
「今じゃ遅い。和尚さんが来る前に揃えとけ」
「分かってるって言ってるでしょう」
「分かってるなら返事をするなり動くなりしてくれ」
父の声は、家の隅まで届くように大きかった。けれど怒っているときの声とは少し違う。怒りを声にしているのではなく、何か別の音を押しつぶすために声を張っている。
叔母は口を閉じ、座布団を抱えたまま立ち上がった。私の横を通り過ぎるとき、袖が腕に触れた。汗ばんだ布地の向こうで、叔母の身体が小さく震えていた。
法要が始まるまで、私は台所と仏間を何度も往復した。湯呑みを運び、皿を下げ、座布団の位置を直す。作業をしていると、家の構造が少しずつ手の中に戻ってくる。台所の勝手口、納戸の引き戸、仏間脇の細い廊下。祖母の部屋へ続く角だけ、今も使われていないように見えた。
その角には、古い障子が一枚立てかけてあった。紙は黄ばんでいるのに、取っ手の部分だけが新しく見える。誰かが最近触れたのだろうか。
私は指を伸ばしかけた。
「真尋」
父が背後から呼んだ。
振り向くと、父は廊下の途中に立っていた。手には黒い数珠がある。私が見ているのに気づくと、父はそれを懐へしまった。
「そこは後でいい。今は仏間へ」
「うん」
「何か気になるのか」
「障子、外しておくのかなと思って」
「使わない部屋だ。触らなくていい」
「祖母ちゃんの部屋?」
「……違う」
返事が早かった。
そのあとに来るはずの沈黙を、父は咳払いで切った。
「婆さんの部屋はもう片づけた。おまえが東京へ戻る前に、必要なものがあれば見ておけ。勝手に持ち出すなよ」
「持ち出すって、何を?」
「何って、古いものはいろいろあるだろう。帳面とか、薬箱とか。家のものだからな」
父はそう言って、私の肩を軽く叩いた。慰めるときの手つきだった。だが、私が何かを尋ねる前に、もう仏間のほうへ歩き出していた。
手を合わせると、線香の煙が目に染みた。
私は数珠を取り出した。祖母からもらった小さな数珠だった。珠を一つずつ指で送りながら、頭の中で数えた。ひとつ、ふたつ、みっつ。四つ目に触れたとき、珠の表面が妙に熱いことに気づいた。
熱いというより、内部から温度が滲んでくるようだった。
私は指を離した。
「どうしたの」
美和子が小声で尋ねた。
「この数珠、少し熱くない?」
「え?」
叔母は私の手元を見たが、触れようとはしなかった。数珠の房が、線香の煙の流れとは反対に、ほんのわずか揺れている。
「暑いからじゃない。仏間は風がこもるし」
「そうかな」
「そうよ。おばあちゃんの数珠でしょう。ずっと箱に入っていたから、手の熱が移ったのよ」
説明としては正しかった。けれど叔母は、言いながら自分の数珠を袖の中へ隠した。

父が遺影の前に座った。
「始めるぞ」
親族が一斉に姿勢を正した。畳が鳴り、衣服が擦れ、誰かの膝が座布団を押した。その小さな音の重なりが、家の中に沈んでいく。
読経が始まると、外の蝉がまた聞こえた。声は遠く、障子一枚の向こうにあるというより、深い水の底から響いてくるようだった。線香の煙がまっすぐ立ち上り、途中で細くほどけていく。その向こうに、遺影の祖母の顔がある。
幼いころの記憶が、煙の中で形を取り始めた。
夜だった。私は祖母の膝に乗せられ、仏間の隅で眠気と戦っていた。祖母は目の前に草履を二つ置き、鼻緒を布で包んでいた。白い布の端を折り、結び目を確かめる指先。低く唱える声。仏間の灯りに照らされた、乾いた手の甲。
「これは誰の?」
眠そうな私は訊いた。
祖母は答えなかった。
「帰る人の?」
しばらくしてから、祖母は私の髪を撫でた。
「帰れない人のものも、揃えておくんだよ」
その言葉を思い出した途端、胸の中央に冷たいものが落ちた。記憶の中の祖母は、私を安心させるために膝を貸してくれていた。けれどその夜、祖母が見ていたのは私ではなかったのかもしれない。
読経が終わり、親族の誰かが息を吐いた。
父はすぐに立ち上がった。
「これで一段落だ。夕飯まで少し休んでくれ。真尋は台所を手伝ってくれるか」
「うん」
私は数珠をしまった。四つ目の珠だけが、まだ掌の中で熱を持っていた。
台所へ向かう途中、廊下の奥で床板が鳴った。
一枚。
私の足は止まった。
少し遅れて、もう一度。
二枚目。
振り返ったが、誰もいなかった。仏間では親族が話し始めている。父の声、叔母の返事、湯呑みを置く音。日常の音は戻っているのに、廊下の奥だけが別の時間に取り残されていた。
「真尋、どうした」
父が仏間からこちらを見ていた。
「今、誰か歩かなかった?」
「誰が歩くんだ。みんなここにいる」
「でも、音が」
「古い家だから鳴る。おまえは昔から、音を気にしすぎるんだ」
父は笑おうとした。うまく笑えていなかった。
「東京で一人暮らししてると、静かな音に慣れないんだろ。片づけを済ませて、今日は早く寝ろ」
「父さん」
「何だ」
私は問いかけを選んだ。七年前という言葉は、まだ口に出していない。けれど父の声の中には、私がまだ何も訊いていないのに、先回りして塞ごうとする固さがあった。
「祖母ちゃんがしていた死者送りって、どういうものだったの」
父の手が、湯呑みの横で止まった。
仏間の空気が、ほんの少し薄くなる。
「子どもが気にするようなことじゃない」
「もう子どもじゃないよ」
「そういう話じゃない。昔の家には昔のやり方があった。それだけだ」
「それだけなら、どうして誰も話さないの」
父は私を見た。長い沈黙だった。私はその沈黙が終わるまで待った。父は、私がこうして待つことを昔から嫌っていた。答えを急かさず、相手が自分から言葉を出すまで動かない。祖母に教わったのかもしれない。
「真尋」
ようやく父が言った。
「婆さんは、家の中で引き受けるものを引き受けていた。村の人間が困ったときに、誰かがやらなきゃならなかった。おまえがそれを知る必要はない。知ったところで、何も楽にはならない」
「楽になりたいから聞いてるんじゃない」
「じゃあ何のためだ」
「分からない。でも、分からないまま祖母ちゃんを見送るのが嫌なの」
父は視線を遺影へ移した。
「見送っただろう。今日、みんなで手を合わせた」
「それは祖母ちゃんのため? それとも家のため?」
父の顔から、わずかに血の色が引いた。
「言っていいことと悪いことがある」
「じゃあ、悪いことって何? 誰が決めるの」
「真尋!」
声が仏間の壁にぶつかり、線香の灰が細く落ちた。
父は自分の声に驚いたように口を閉じた。怒鳴ったあと、いつもならすぐに何かを言い足す。だが今度は、言い足す言葉が見つからないらしかった。
やがて父は、疲れた人のように息を吐いた。
「おまえを巻き込みたくないんだ」
その言葉だけは、嘘ではなかった。
だから余計に、私は返事ができなかった。父は私を守ろうとしている。たぶん、本当に。けれど守るという言葉の内側で、誰かが長いあいだ外へ出られずにいる気がした。
「……夕飯の支度、するね」
私はそれだけ言って、台所へ戻った。
背後で父が何かを言いかけた。けれど声にはならなかった。
夕方が近づくにつれ、蝉の声は少しずつ遠のいた。代わりに、家の中の音がはっきりしていく。包丁がまな板を打つ音。水道の細い流れ。誰かが廊下を歩くたびに鳴る床板。そのどれもが、同じ家の中で起きているはずなのに、場所によって違う響きを持っていた。
私は冷たい麦茶を少しずつ飲み、窓の外を見た。
庭の向こう、裏手の木立の間に、古い井戸の屋根が見えた。祖母が亡くなってから、誰も近づかなくなった場所だ。屋根の端に取りつけられた小さな木札が、風もないのに揺れている。
一度、二度。
そのたび、家の中のどこかで床板が鳴った。
私はグラスを置き、指先で親指の爪を撫でた。
まだ何も起きていない。
そう思おうとしたが、家の中には、私の知らない誰かのために空けられた場所がある。閉じた障子の向こう、祖母の遺品の底、父が言葉を飲み込んだ沈黙の中に。
その場所だけが、私の帰りを待っていた。
← 横にスクロールして読み進められます
