10話 灯りの下に立つ人

封じ座敷を出ると、廊下の空気は変わっていた。

湿った土の匂いは薄れ、代わりに線香の匂いが強くなっている。仏間の障子越しに、灯りが橙色に滲んでいた。時刻からすれば、まだ誰かが起きて灯りを点けているはずのない時間だった。

日記を胸に抱えたまま、私は廊下を進んだ。父は後ろから来なかった。振り返ると、封じ座敷の戸口に立ったまま、動けずにいる。膝に手を置き、頭を垂れている姿は、家長ではなく、ただの疲れた男に見えた。

「父さん」

呼んでも、返事はなかった。

私は一人で仏間へ向かった。

障子を開けると、数珠がすべて、鈍い熱を持っていた。昨夜まで一本だけだったものが、今夜はどれも同じように温かい。指先で触れると、じんとした痺れが手首まで上ってくる。祖母が使っていたときの熱と同じかどうか、私には分からない。ただ、これまでとは違う何かが、家の隅々まで満ちているのは分かった。

縁側の障子は、開いたままだった。

外の暗さの中に、灯りが一つだけ点いている。

その下に、草履があった。

昨夜のものとは違う。鼻緒の色が濃く、泥のつき方も新しい。左右ぴたりと揃えられ、爪先はまっすぐ庭の奥、裏井戸の方角を向いていた。

そして、その草履の脇に、人が立っていた。

私は息を止めた。

灯りは弱く、顔の輪郭までは見えない。だが、背の高さも、肩の傾げ方も、人のものだった。動かず、こちらを見ているのかどうかも分からない。ただ、立っている、という事実だけが、庭の暗がりから静かに押し出されてくる。

「透さん」

声に出してから、自分が名前を呼んだことに驚いた。確かめる術もないのに、その名前しか浮かばなかった。

影は答えなかった。

かわりに、片足を持ち上げ、縁側の板の上へ乗せた。板は軋まなかった。人が乗ったなら鳴るはずの重さが、そこにはないように思えた。

「父さんは、あなたのことを話してくれた」

私は日記を強く胸に押しつけた。

「祖母ちゃんが、あなたの草履を直していたことも。井戸の夜のことも」

影は、もう一歩、縁側の内側へ入った。

顔がようやく灯りの端に届く。年齢は父より若く見えたが、目の下の窪みと、乾いた頬の削げ方は、長い時間、誰にも顔を見せずに生きてきた人間のものだった。

「戻る場所を、探していた」

低い声だった。怒りも、悲しみも、その声には表れていない。ただ、七年分の重さだけが、言葉の底に沈んでいる。

「布は、まだあるか」

私は無言で、日記の間に挟んだ古布を示した。

透の視線がそこへ落ちる。指先が微かに動いた。何かを掴もうとして、途中で止まる仕草だった。

「その布を、婆さんは何度も直した。俺が擦り切れさせるたび、何も言わずに直した。何のために直しているのか、一度も聞かなかった」

「聞けばよかったのに」

「聞けば、答えが返ってくる前に、俺はここにいられなくなると思った」

その言葉に、私は何も返せなかった。

透は縁側の草履を見下ろし、爪先の向きを、指先でほんの少し整えた。すでに揃っていたものを、さらに揃え直すその仕草に、七年間、彼が何を繰り返してきたのかが滲んでいた。

「宗一は、まだ隠すつもりか」

「分からない。でも、私はもう隠さない」

透の目が、初めて私を正面から見た。

「おまえは、婆さんに似ている」

「祖母ちゃんに?」

「見ようとするところが」

その言葉は、褒め言葉なのか、警告なのか、私には判じられなかった。

背後で、廊下の床板が鳴った。

父が来る足音だった。急いではいない。だが、逃げてもいない、重い歩き方だった。

透の視線が、私の肩越しに父へ向いた。

灯りの下で、草履の向きが、また一つ変わった。

外へ、ではない。

家の内側へ。

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