9話 白石縁の来訪

その音は、迎えの間の前で止まった。

私は縁側に座ったまま、しばらく動けなかった。足音が消えたあとも、家のどこかに重さが残っている。床板や畳が、踏まれた記憶を手放せずにいるようだった。

父は仏間の入口に立ち、多恵おばさんは帳面を胸に抱えている。誰も、迎えの間を見ようとしない。見れば、次に何をしなければならないのか決まってしまうからだと思った。

庭の裸電球が、風もないのに揺れた。

縁側に置かれた二足の草履の影が伸び、障子の下まで届く。影の先で、何かが一度だけ身じろぎした。

父が、かすれた声で言った。

「透子、部屋へ戻れ」

「戻ったら、何が変わるの」

「何も変わらない。だから戻れ」

「変わらないなら、ここにいても同じでしょう」

「おまえには関係ない」

「関係がないようにしてきたんでしょう」

父は口を閉じた。いつものように、返事の代わりに戸や畳へ視線を逃がそうとした。けれど、今夜は逃がす先がなかった。家中の建具が、父の知っている逃げ道をすべて塞いでいるように見えた。

多恵おばさんが、帳面の表紙を撫でた。

「恒一。もう、透子を外へ出すことはできないよ」

「何を言っている」

「この子はもう、見てしまった。聞いてしまった。知らなかった頃には戻れない」

「だからこそ、これ以上は見せるな」

「見せるんじゃない。あんたたちが隠していたものが、向こうから出てきているんだよ」

その言葉を合図にしたように、仏間の灯が傾いた。

炎は消えなかった。ただ、火の先だけが、閉じた迎えの間の襖へ向いた。

障子の向こうに影が立った。

最初は、庭の木が映ったのだと思った。けれど影は動かなかった。揺れる灯りの中でも輪郭を崩さず、頭、肩、腕の位置が人の形を保っている。

私は立ち上がった。

素足が冷たい板から離れる。足の裏に、湿った感触が残っていた。見ると、床に黒い跡が二つある。誰かの裸足の跡のようだった。

父が私の腕を掴んだ。

「開けるな」

「まだ、何も開けていない」

「そこへ行くな」

「誰がいるの」

「誰もいない」

「なら、手を離して」

父の指がわずかに緩んだ。その隙に、私は障子へ近づいた。

影の向こうから、草履を脱ぐ音がした。

片方。

少し間を置いて、もう片方。

乾いた音だった。けれど、そのあとに続いたのは、濡れた足の裏が板へ触れるような音だった。誰かが草履を脱ぎ、裸足で縁側へ上がった。

私は障子の桟に指をかけた。

「透子」

父の声が背中へ落ちた。

「その人を家へ入れるな」

「家へ入れるなって、もう入っているんじゃないの」

「違う」

「何が違うの」

「入っているのは、人じゃない」

私は振り返った。

父の顔には、怯えと怒りが同時に浮かんでいた。怒りは、恐怖を隠すために使われている。けれど、隠しきれないものが目の奥に溜まっていた。

「じゃあ、父さんは何を恐れているの」

「白石縁だ」

父は言った。

名前を口にした瞬間、障子の向こうで影が少し動いた。

私は息を止め、障子を開けた。

夜気が家の中へ流れ込んできた。湿った木と土の匂い。その奥に、長くしまわれた衣服のような冷たい匂いがある。

縁側の端に、白石縁が立っていた。

濡れた髪が頬に張りついている。着物の裾は雨を含んだように重く、足元には水滴が落ちていた。けれど、白石縁の草履だけは乾いていた。鼻緒も編み目も乱れていない。

白石縁は、家の中へ入る前に一度だけ足を止めた。

そして、自分の草履を丁寧に揃えた。

乱れたものを整える所作は、この家の誰より静かだった。父が道具や履物を揃えるときには、そこに焦りが混じる。多恵おばさんが紙の角を合わせるときには、崩れた記憶を押さえ込もうとする力がある。

白石縁の手つきには、焦りも力みもなかった。

ただ、長いあいだ待ち続けた者だけが持つ静けさがあった。

「お久しぶりです、恒一さん」

白石縁は、父を見た。

父は答えなかった。

「おばあさまの七回忌に伺いました。遅くなって申し訳ありません」

丁寧な言い方だった。けれど、その言葉の一つ一つが、父の足元へ置かれる石のように聞こえた。

父がようやく口を開いた。

「ここへ来る理由はない」

「理由ならあります」

「もう終わったことだ」

「終わったと決めたのは、誰ですか」

「家族だ」

「家族という言葉は便利ですね。何人かが同じ黙り方をすれば、別の人間をいなかったことにできる」

父の右手が袖の中で握られた。

白石縁は、私と多恵おばさんへ視線を移した。私の手帳、帳面、便箋。視線は一つずつ確かめるように止まり、最後に縁側の草履へ戻った。

「それを、読んだのですね」

「少しだけ」

私は便箋を胸元から出した。

「これは祖母の字です。白石さんへ、と書いてある。何を返してもらうまで帰れない、とも」

白石縁は便箋を見つめた。手を伸ばしはしなかった。

「あなたのおばあさまは、手紙を書くのが遅い人でした」

「遅い?」

「何度も書き始め、何度も破り、最後には短い言葉しか残せない。謝る言葉を探しているうちに、相手の時間だけが過ぎていく。そういう人でした」

声は穏やかだった。

「でも、あの人は優しかった」

父が言った。

白石縁は父を見た。

「ええ。優しかったです。だから、よく覚えています」

「なら、母を責めるな」

「責めているのではありません。覚えているのです」

「同じことだろう」

「違います。責めるなら、もっと簡単でした。悪人だったと言えばいい。私を傷つけたから、冷たい人だったと言えばいい。でも、おばあさまは私に飯を食べさせ、雨の日には乾いた着物を貸し、私が眠るまで灯りを消さなかった。その手で、最後には戸を閉めたのです」

父が目を逸らした。

「何があったかは、もう誰も覚えていない」

「あなたは覚えています」

「昔のことだ」

「そうやって、あなたは何度も私を外へ出した」

白石縁は一歩、家の中へ入った。

足音はしなかった。

それなのに、畳がゆっくり沈んだ。

「私は、この家へ来ていた。呼ばれて来ていた。おばあさまは、私が持っていた記録を必要としていた。村の境界のこと、土地の名義のこと、先代が交わした手紙のこと。私はそれを渡した。見返りを求めたわけではありません。ただ、約束を守ってほしかった」

「その約束は、家を壊すものだった」

「家を壊すと決めたのは、あなたたちです。私が持っていたのは、家が何をしてきたかを示す記録だった。土地を奪われた人たちの名前。柊家が都合よく書き換えた境界。祖父の代から続いていた、村の者を黙らせるための借金の記録。あなたたちはそれを取り上げ、私を泥棒にした」

多恵おばさんが目を閉じた。

父は低く言った。

「家を守るためだった」

「家を守るためなら、盗んだものを盗まれた側から奪い返してもいいのですか」

「村の外へ出れば、全員が困った」

「困るのは、名前を書き換えた側でしょう」

「家がなくなれば、何も残らない」

「残らないのは、家ではなく、あなたたちが作った都合のいい順番です」

白石縁は声を荒げなかった。

そのために、父の返す言葉だけが大きく聞こえた。

「おまえは何も分かっていない。ここで暮らす人間には、逃げられない事情がある。土地を捨てて、村を捨てて、名前を変えて生きられる人間ばかりじゃない。家を残さなければ、親も子も食えなかった。俺は、その責任を引き受けた。誰かを嫌われ役にしなければならないなら、俺がなればいいと思った。母さんが止められないなら、俺が終わらせるしかなかった。おまえに恨まれるくらいで、この家の者が生きていけるなら、それでいいと思ったんだ」

白石縁は、父の言葉が終わるまで待った。

父の呼吸が戻るまで、何も言わなかった。

「それで、家は残りましたか」

父の顔が歪んだ。

「残った」

「では、なぜあなたは毎晩、戸締まりを確かめるのです」

父は答えなかった。

「なぜ草履を見ると、手を袖の中で握るのです。なぜ線香の匂いが濃くなるたびに、仏間の灯を直すのです。なぜ迎えの間の襖を、誰もいないのに閉め直すのです」

「黙れ」

父の声が、初めて荒れた。

家の奥で灯が揺れ、香炉の煙が一斉に低く流れた。

白石縁は怯まなかった。

「私は、あなたに怒鳴ってほしかったわけではありません。あの夜も、怒鳴ってくれればまだよかった。怒鳴り声なら、私にも返せた。けれどあなたは、静かな声で説明を終わらせた。家のためだ。仕方がない。もう来るな。そう言って、私の言葉を一つも残さなかった」

「おまえの言葉は、残す必要がなかった」

父の言葉に、多恵おばさんが顔を上げた。

「恒一」

白石縁は、多恵おばさんを見なかった。

「今の言葉を、もう一度言ってください」

父の唇が震えた。

「白石さん、もう十分だ」

「十分かどうかを決めるのは、私です」

「家族を苦しめたいのか」

「苦しめているのは私ではありません。記憶です。あなたたちが捨てたはずのものが、まだ家の中にあるだけです」

その瞬間、迎えの間の襖が、内側から一度だけ叩かれた。

どん、と低い音がした。

白石縁は振り返った。

「開けてください」

父は動かなかった。

「恒一さん。あの中に、私の布袋があります。手紙の写しも、写真も、帳面も。私の名前が書かれたものを、あなたのお母さまはあそこへ入れた。家の中から私を消すために」

「違う」

「なら、開けてください」

「開ければ、戻せない」

「戻さなくていい」

多恵おばさんが言った。

父が振り返る。

「多恵さん」

「もう、戻す場所なんてないんだよ。閉じた戸の向こうへ押し込んだものは、時間が経てば消えると思っていた。でも、消えたのは文字の方だけだった。残ったものは、ずっとここで息をしていた」

多恵おばさんは、帳面を私へ渡した。

「透子。あんたが決めなさい」

「私が?」

「この家の者が決めるなら、また同じことになる。だから、家の者でありながら、家だけの人間ではないあんたが決めるんだよ」

父が首を振った。

「透子に背負わせるな。これは俺たちの問題だ」

「そう言って、誰にも渡さなかったから、七年も経って草履が戻ってきたんでしょう」

私は父を見た。

「父さんが守ってきたものを、全部壊したいわけじゃない。おばあちゃんが私にくれた裁縫箱も、縁側で食べたご飯も、家の梁の形も、なくしたくない。でも、それらを残すために、白石さんをいなかったことにするのは違う」

「透子」

「家を守るって、戸を閉めることじゃないよ。中で何が起きたかを、外へ出せるようにしておくことだと思う。誰かを追い出して、名前を消して、それでも残った家を守ったと言うなら、私はその家を受け継ぎたくない」

言い終えたあと、胸の内側が空になったようだった。

怖かった。父の顔を見るのも、祖母の遺影を振り返るのも怖い。それでも、言葉にしたものはもう戻せなかった。

白石縁が私を見た。

「あなたは、私を家へ迎え入れますか」

問いは静かだった。

けれど、答えを間違えれば、また別の戸を閉めることになる。

「分かりません」

私は言った。

「あなたがここへ戻る権利を、私が決めることもできません。私が謝っても、あなたが失った時間は戻らない。でも、追い出すことだけはしない。名前を消すこともしない。ここで何があったかを、私の知っている範囲で残します」

「それは、受け入れるということですか」

「受け入れるのではなく、見なかったことにしないということです」

白石縁は、長いあいだ私を見ていた。

やがて、ほんのわずかに頭を下げた。

「それなら、最初の一歩としては十分です」

白石縁は縁側の草履へ手を伸ばした。

右の一足を、今度は室内ではなく、庭へ向けて置き直す。左の草履も同じ向きに揃えた。二足の鼻緒が、暗い庭の方を向く。

「この草履は、迎えるためのものではありません」

白石縁は言った。

「帰れなかった者が、帰る方向を思い出すためのものです」

その言葉とともに、仏間の灯が大きく揺れた。

線香の煙が、迎えの間の襖の下から流れ出す。白い煙は私たちの足元を這い、庭へ向けられた草履の間を抜けていった。

襖が、ゆっくり開いた。

父が息を呑む。

中は小さな部屋だった。祖霊を迎えるために使われていたのだろう。低い棚と、古い灯明台。壁際には、灰色の布袋や封書の束、折れた写真立てが積まれている。その中央に、片方の鼻緒が切れた草履が置かれていた。

草履の脇には、白い布袋があった。

私はそれを見た。

白石縁の視線も、そこへ向いた。

けれど、白石縁は部屋へ入らなかった。

「それを、あなたが持っていってください」

私が言うと、白石縁は首を横に振った。

「私のものを、あなたが持つ必要はありません」

「でも、ここにあったことを証明する人が必要です」

「証明は、あなた一人でしなくていい」

白石縁は父と多恵おばさんを見た。

「この家にいた人たちが、見たことをそれぞれの言葉で残せばいい」

父はうつむいた。長い沈黙のあと、迎えの間の敷居へ手を置いた。

「俺が、書く」

声は小さかった。

「白石さんのものを取り上げたこと。母さんに消させたこと。俺が戸の外に立っていたこと。全部、書く。書いて、村にも渡す」

白石縁は答えなかった。

多恵おばさんが、父の隣へ座った。

「私も書くよ。台所で水を流していたこと。聞こえないふりをしたこと。止められたかもしれないのに、止めなかったこと」

白石縁は目を伏せた。

その表情に、初めて疲れが見えた。怨みを抱えて立っていた人の顔ではなく、長く重いものを抱えて、ようやく床へ置く場所を探している人の顔だった。

「それで、返したことになりますか」

父が尋ねた。

「いいえ」

白石縁は静かに答えた。

「返すことはできません。失われた時間も、消された名前も、返せるものではない。ただ、返せないと知った上で、それでも返そうとすることはできます」

白石縁の姿が、少しずつ薄くなっていく。

庭の夜気がその輪郭をほどいているのか、私の目が慣れてきたのか分からなかった。湿った匂いだけが残り、白い煙がその場所を横切る。

「透子」

白石縁が、最後に私を呼んだ。

「あなたのおばあさまは、あなたに冷たい水を飲ませていたでしょう」

「知っているんですか」

「知っています。あの人は、言葉を飲み込ませるためではなく、言葉を選ぶ時間を渡すために水を出していました」

胸の奥が痛んだ。

「祖母は、あなたに謝りたかったのでしょうか」

「何度も」

「でも、謝らなかった」

「はい」

「どうして」

「謝れば、あなたのような人に真実を渡さなければならなくなるからです。あの人は最後まで、自分の弱さを誰かに引き受けさせるのが怖かった」

白石縁の声が、遠くなる。

「だから、あなたが引き受ける必要はありません。ただ、見つけたものを、見つけたままにしておいてください。きれいに並べ直しすぎないように」

白石縁の姿が消えた。

庭には誰もいない。

ただ、二足の草履だけが、外へ向けて揃えられていた。

私は迎えの間へ入り、白い布袋を手に取った。布は冷たく湿っていたが、その中には祖母の家の匂いとは違う、長く歩いた人の衣服と土の匂いが残っていた。

父は何も言わず、灯明台へ油を足した。

多恵おばさんは封書を一通ずつ拾い、今度は年代順ではなく、書かれた順番に並べ直している。

家の外で、蝉が一匹だけ鳴いた。

すぐに止んだ。

私は縁側へ戻り、草履の向きを確かめた。鼻緒は庭の暗がりを向いている。迎え入れるためではない。帰る者が、帰る方向を見失わないための向きだった。

線香の煙が、夜風に揺れている。

白い煙は今度こそ、縁側から外へ流れていった。

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白石縁の来訪 - 帰れぬ草履 - 誰でも作家life