第8話 迎えの間の息

夜が更けると、家の音は一つずつ薄くなった。
夕食のあと、父は仏間の襖を閉め、重治さんは濃い茶を飲み終えると、使い古した草履をきちんと揃えて土間へ下りた。多恵おばさんは、封書と帳面を灰色の風呂敷に包みながら、今夜はもう休みなさいと言った。
私は頷いた。
けれど、眠るつもりはなかった。
手帳の間には、祖母の便箋と、白石縁の名が書かれた紙片が挟まっている。
返してもらうまで、私は帰れない。
その一文が、目を閉じるたび浮かんだ。何を返してもらうのか。帳面か、手紙か、写真か。それとも、白石縁がこの家にいたという事実そのものか。
隣の部屋から、父が戸締まりを確かめる音が聞こえた。
玄関の鍵。
勝手口の掛け金。
廊下の奥の障子。
ひとつずつ、決まった順番で音がする。鍵を回す音が三度続いたところで、私は布団から起き上がった。
部屋の入口を見る。次に窓を見る。
どちらも閉まっている。
それでも、廊下の向こうから湿った木の匂いが流れてきた。線香の煙が、閉じた戸の隙間を通っているようだった。
私は手帳を懐へ入れ、部屋を出た。
廊下の板は冷たかった。昼間の熱はすっかり抜けている。足音を殺そうとすると、かえって自分の呼吸ばかりが耳についた。遠くで犬が一度だけ吠えた。返事はなかった。蝉も、蛙も、もう鳴いていない。
家の外より、家の中の方が静かだった。
縁側へ続く障子の前で、私は一度だけ息を止めた。指先を襟元へ触れ、それから障子へ伸ばす。紙の向こうに、庭の裸電球がぼんやり滲んでいた。
開ける。
湿った夜気が顔にまとわりついた。
板へ足を置いた瞬間、冷たさが素足の指の間へ入り込んだ。縁側の灯りは、庭の濡れた石と柿の木の幹だけを黄色く照らしている。光の外は黒く、葉の重なりも、軒下の柱も、どこまでが物で、どこからが闇なのか分からない。
私は縁側の端に座り、手帳を開いた。
祖母の便箋を取り出す。
白石さんへ。
家の者が謝ることは、家を開くことではない。
祖母は、謝ることさえ恐れていたのだろうか。謝れば戻ってくるものがある。戻ってきたものを、また外へ出すことはできない。だから戸を閉め、名前を削り、紙を隠し、私には冷たい水を飲ませた。
それでも祖母は書いた。
消した跡まで残した。
紙を折り直したとき、庭の方から音がした。
乾いた擦過音だった。
草履の裏が、濡れた石を撫でる音に似ている。
ひとつ。
少し間を置いて、もうひとつ。
私は顔を上げた。
庭の暗がりには何も見えない。裸電球の光が届くところにも、人影はなかった。けれど音は、柿の木の方から縁側へ近づいてくる。
さっ。
さっ。
足音ではない。誰かが歩く速度を、わざと落としているような音だった。
逃げるべきだと思った。けれど、体は耳の方へ傾いていた。怖さより先に、確かめなければならないという感覚があった。
障子の向こうに、影が現れた。
一つだった。
仏間の灯を背にしているため、輪郭しか見えない。肩の高さ、頭の形、手の位置。人間に見えるが、家の者ならもっと早く戸を開ける。そこにいることを知らせる咳払いや、名前を呼ぶ声があるはずだった。
影は黙っていた。
背後の仏間で、父の声がした。
「透子。そこを開けるな」
低い声だった。
命令というより、懇願に近かった。父が私に頼むことは少ない。頼むときも、戸を閉めてくれ、茶を持ってきてくれ、明日の朝は早いから起きていろ、と用事の形にする。理由もなく止める声を聞いたのは、初めてだった。
「誰かいる」
「いない」
「いるよ」
「古い家の影だ」
「影は草履の音を立てない」
返事がなかった。
私は障子を開けた。
夜気がもう一度、家の中へ流れ込んだ。
縁側の端に、白石縁が立っていた。
濡れた髪が頬に張りついている。着物の裾には雨をくぐったような湿り気があり、肌からは冷たい木と土の匂いがした。それなのに、草履の鼻緒は乾いていた。足元の編み目も乱れていない。
白石縁は私の顔を見た。
女にも男にも見える顔だった。年齢の輪郭さえ、灯りの加減で定まらない。ただ、目だけが静かだった。恨んでいる人間の目というより、長いあいだ恨みを腐らせないように見張ってきた人の目だった。
私は息を止めた。
白石縁は何も言わない。
私も、すぐには言葉が出なかった。怖い。けれど、その怖さの奥に、奇妙な親しさがあった。祖母が家の奥で音を聞いたときに見せた顔。父が草履を見たときに隠そうとした呼吸。多恵おばさんが紙の角を揃えながら、何かを待っていた指先。
この人は、そのすべての向こう側にいる。
「これを、知っていますか」
私は便箋を差し出した。
白石縁は紙を見たが、手を伸ばさなかった。代わりに、縁側の床へ視線を移した。
あの夜から置かれている二足の草履。
「この草履は、あなたのものですか」
白石縁は答えなかった。
仏間の方で、父が立ち上がった。
「透子、戻りなさい」
「父さんは、この人を知っている」
「知らない」
白石縁の口元が、ほんの少しだけ動いた。笑ったのかもしれない。けれど、笑い声はなかった。
「知っている人は、知らないと言う前に、相手の顔を見ません」
声は低く、丁寧だった。
その丁寧さが、父の声より冷たく感じられた。
父が縁側へ出てきた。白いシャツの袖は乱れていない。髪も整っている。けれど、右手は袖の中で強く握られていた。
「白石さん」
父が名前を呼んだ。
それだけで、家の中の空気が変わった。
「お久しぶりです、恒一さん」
「どうしてここへ来た」
「呼ばれたからです」
「誰が呼んだ」
「あなたのお母さまです」
「母はもう死んだ」
「存じています」
白石縁は一歩も動かなかった。
「だから、来られました」
父の顔色が変わった。怒りではない。言葉を返そうとして、返せる言葉がない人の顔だった。
「ここは、あなたが来ていい場所じゃない」
「そうでしょうか。私は以前、何度もこちらへ伺っていました。呼ばれたときには座敷へ通され、食事もいただきました。おばあさまは私に、裏口ではなく縁側から入るように言った。あなたはそれを知っているはずです」
「昔の話だ」
「ええ。あなたにとっては」
白石縁の声が少し低くなった。
「私にとっては、昨日の夜まで続いていました。目を閉じると、あの日の戸の音がする。雨の中へ出されて、履物を置いていくしかなかったときの音です。草履を脱いだのは私です。けれど、置いたのは私ではありません。あなたのお母さまが、縁側へ揃えました。帰る人間に履物を返すのではなく、もう一度ここへ戻る人間のために、家の内側へ向けて」
「そんなことは知らない」
「知っているでしょう」
白石縁は父を急かさなかった。相手が言葉を選び終わるまで待つ。その待ち方が、かえって逃げ道をなくしていく。
「あなたは、私の布袋を取り上げた。中に入っていた手紙も、写真も、帳面の写しも。家に関わるものを持ち出すなと言った。持ち出せば村の恥になる、家の名前が傷つく、そう繰り返した。私は何度も返してほしいと言った。けれど、あなたは戸を閉めた」
「それは、家を守るためだった」
「家を守るためなら、誰かのものを奪ってもいいのですか」
「あなたにも事情があった」
「事情があったから、説明をしなかった?」
「白石さん」
「事情があったから、名前を帳面から削った? 事情があったから、私が来たことをなかったことにした? 事情があったから、母親に私を追い出させて、自分は玄関の内側に立っていた?」
父の呼吸が乱れた。
私は父の横顔を見ていた。ここまで言われても、父は目を逸らさなかった。けれど、手のひらを膝へ押しつけている。何かを壊さないように、身体全体で押さえているようだった。
「私は、あなたを傷つけるつもりはなかった」
「つもりの話をしているのではありません」
白石縁は足元の草履を見た。
「傷つけた事実の話をしています」
線香の匂いが濃くなった。
仏間から流れた白い煙が、縁側の板を這っている。風はないのに、煙は白石縁の足元へ集まり、草履の鼻緒へまとわりついた。
「これを見ても、まだ偶然だと言いますか」
白石縁が言った。
父は答えなかった。
「返してもらうまで、帰れないと書いてあります」
私は便箋を握り直した。
「何を返してほしいんですか」
白石縁は、今度は私を見た。
「あなたのおばあさまが、最後まで返さなかったものです」
「それは、何ですか」
「名前です」
胸の奥で、何かが冷たく沈んだ。
「名前?」
「私がここへ来ていたこと。ここで何をされたか。誰が見ていて、誰が戸を閉めたか。その全部を、私の名前と一緒に返してもらうのです。白石縁という人間が、この家に一度も存在しなかったことにされないように」
その言葉は、怪異の告白には聞こえなかった。長く奪われていた人間が、自分の輪郭を取り戻そうとしている声だった。
「ここへ来れば、全部戻ると思っているのか」
父が言った。
「戻るとは言っていません」
「家族はもう、あのときの人間じゃない」
「そうですね」
「母も死んだ。あの夜のことを知っている者も、ほとんど残っていない」
「だから、あなたが覚えている」
白石縁は父の目を見た。
「忘れたことにしているだけで、覚えている」
父は黙った。
白石縁は、縁側に置かれた二足の草履へ手を伸ばした。触れる前に、ほんの一瞬だけ間を置く。それから右の草履を指先で少しずらした。
乾いた音がした。
その音を聞いた途端、父の肩が跳ねた。
「やめろ」
初めて、父がはっきりと拒んだ。
白石縁は手を止めた。
「この向きでした」
「何が」
「あの夜、私がここへ座らされたときの向きです。草履は庭へ向いていた。私は何度も履こうとした。でも、鼻緒を切られていた。足を入れられなかった」
私は草履を見た。白い糸が巻かれていた鼻緒の根元。その糸は補修ではなく、切れたものを結び直した跡だった。
「誰が切ったの」
父は答えなかった。
白石縁が私を見た。
「あなたのお父さまです」
「違う」
父の声が重なった。
「切ったのは、私じゃない」
「では、誰ですか」
父は白石縁を睨んだ。穏やかな顔を保とうとしていたが、目の奥に恐怖と怒りが混じっていた。
「母が……」
そこで言葉が途切れた。
仏間の奥で、灯が揺れた。
多恵おばさんの足音が近づいてくる。彼女は廊下の端で立ち止まり、白石縁を見た。顔から血の気が引いたが、逃げなかった。
「白石さん」
「お久しぶりです、多恵さん」
「覚えているんだね」
「忘れたことにしていただけです」
「私は、あの夜、止めなかった」
「ええ」
「台所で水を流していた。あなたの声が聞こえていたのに、聞こえないふりをした」
「ええ」
「でも、あんたが何を持っていたのかまでは知らない。姉さんと恒一が何を奪ったのかも、正確には知らない」
「知らないまま、戸の外へ置いた」
白石縁の声音は穏やかだった。
「知らないことは、何もしていないことにはなりません。見て、聞いて、止めなかった。それだけで、人は誰かの孤独を完成させられる」
多恵おばさんの指が、宙で紙の角を揃えるように動いた。けれど、そこには紙がなかった。
「なら、今夜は忘れないでください」
白石縁はそう言った。
庭の暗がりで、裸足の足音がした。
さっ、さっ、と湿った音が縁側へ近づいてくる。けれど、白石縁は振り返らない。父も、多恵おばさんも、音の方へ目を向けた。
私は白石縁の足元を見た。
草履を履いていない。
濡れた板の上に、裸足の跡が二つ残っていた。けれど白石縁は、私たちの前へ来るまで一度も草履を脱いでいない。着物の裾から落ちた水なのか、誰かが庭から上がった跡なのか、判断できなかった。
白石縁は、縁側の奥を見た。
その先には仏間と、閉じた襖がある。
「迎えの間は、まだ開けていないのですね」
父の顔が強張った。
「何の話だ」
「おばあさまは、あそこへ私のものを入れた。私から取り上げたものを、誰にも見つからないように。帳面も、写真も、手紙も。名前まで、あの部屋へ押し込めた」
「違う」
「なら、開けてください」
父は動かなかった。
多恵おばさんが目を伏せる。
「恒一」
「開けたら、家が終わる」
「終わらせるのは、家じゃないよ」
白石縁が静かに言った。
「終わらせるのは、家のために人を消しても許されるという考えです」
仏間の奥で、襖が小さく震えた。
誰も触れていない。
白い煙が敷居の下から流れ出し、私の足元を横切った。線香の匂いに、濡れた衣服の匂いが混じる。私はその匂いを吸い込み、胸の奥が締めつけられるのを感じた。
白石縁は私に視線を戻した。
「あなたは、開けますか」
答えようとした。
けれど、言葉が出なかった。
私は父を見た。父は戸を閉める人だった。多恵おばさんは、閉められた戸の向こうで聞こえないふりをした人だった。そして白石縁は、閉じた戸の前に立ち続けた人だった。
私はまだ、家族の側にいる。
それでも、もう家族の沈黙をそのまま受け継ぐことはできなかった。
「まだ、開けるとは言えません」
私は言った。
「でも、閉めるとも言いません」
白石縁の目が、ほんのわずかに細くなった。
「それで十分です。今夜は」
白石縁は右の草履を元の位置へ戻した。鼻緒の先を室内へ向け、左の草履と平行に揃える。その所作は丁寧で、迷いがなかった。
「この家に入ったのは、私ではありません」
白石縁が言った。
「私を入れたままにしたものが、ここにいるのです」
その言葉のあと、白石縁の姿が障子の影に重なった。
私は目を逸らさなかった。
影が薄くなる。湿った匂いだけが残る。次の瞬間、障子の向こうには誰もいなかった。
庭にも、縁側の端にも、白石縁はいない。
ただ、草履だけが二足、室内へ向けて揃っていた。
そして家の奥から、裸足の足音が聞こえた。
一歩。
間を置いて、もう一歩。
その音は、迎えの間の前で止まった。
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