7話 帳面の継ぎ目

足音が迎えの間の前で止まってから、私はどれほどそこに座り込んでいたのか分からない。

縁側の板はもう冷え切っていて、尻の下から伝わる冷たさが、背骨を伝って首の後ろまで届いていた。父は箒を持ったまま、動かなかった。多恵おばさんも同じだった。三人とも、迎えの間の襖が再び動き出すのを待つように、息を潜めていた。

けれど、それきり何も起こらなかった。

線香の匂いは薄れ、やがて庭の草いきれと混じっていつもの夜の匂いに戻った。裸電球の灯だけが、変わらず草履の二足を照らし続けていた。誰も草履に触れなかった。触れれば、また何かが動き出すのを知っているかのように。

空が白みはじめる頃、私たちはそれぞれの部屋へ戻った。私は眠らなかった。眠れるはずがなかった。手帳に挟んだ祖母の便箋と、白石縁の名が書かれた紙片を、何度も開いては閉じた。

朝、台所から水を使う音が聞こえてきたとき、私は仏間へ向かった。

多恵おばさんはすでに座っていた。畳の上に、灰色の風呂敷が広げられ、その上に古い封書が扇のように並べられている。紙は湿気を吸って、指先で触れると少しだけ柔らかい。多恵おばさんが封を一通ずつ切るたび、墨のにおいが古い桐箱の匂いと混じって立ちのぼった。

「透子、そこに座りなさい」

多恵おばさんは顔を上げずに言った。眼鏡の奥の目は赤く腫れていた。眠っていないのは、彼女も同じらしかった。

私は帳面と、昨夜のうちに手帳から取り出しておいた鍵、そして布巾に包まれていた折り畳みのメモを、多恵おばさんの前へ並べた。裁縫箱の底に隠されていたものたちだ。どれも大げさな秘密を隠すには頼りないほど小さかった。けれど、こうして並べると、妙な重さを帯びて畳の上に沈んでいくように見えた。

「これが全部?」

「多分」

「多分じゃ困るね。全部だと言い切れるくらい、探しなさい」

多恵おばさんの声は、いつもより硬かった。私は頷き、封書の束の中から、旧家の帳面と字の似た一通を選び出した。

多恵おばさんは老眼鏡の位置を直し、帳面と封書を並べて見比べはじめた。祖母の筆跡は几帳面で、行の終わりをやや強く押す癖がある。それは家計簿でも、法要の段取りを書いた頁でも変わらなかった。けれど白石縁の名が記された箇所だけ、その癖の力の入り方が違っていた。

「ここ」

多恵おばさんが指先で、削られた跡をなぞった。

「見てごらん。他の文字より、行末の押し込みが強い。それに、擦った痕が真っ直ぐじゃない。何度も、少しずつ角度を変えて擦っている」

「それが、何を意味するの」

「一度で消せなかったんだよ」

多恵おばさんは私を見た。

「一度、名前を書いて、消そうとして、途中でやめた。また書いて、また消そうとした。姉さんは、消したかったんじゃない。消せなかったんだ。消せないものを、消したふりだけしていた」

私は指先でその箇所に触れた。紙の繊維が毛羽立って、荒れている。祖母の指がここを何度も往復した証だった。息を殺した痕、というのが、私にはいちばんしっくりくる言い方だった。声を上げて泣くことも、誰かに打ち明けることもできず、ただ紙の上でだけ、その名前を消そうとしてはやめる、その動作を繰り返していた誰かの姿が、擦れた繊維の中に閉じ込められている。

封書の中には、追い出された夜の前後に交わされたらしい短い文がいくつか挟まっていた。日付だけが記され、来訪者の名は伏せられている。ただ、日付の書き方に不自然な癖があった。八月七日と書くべきところを、七月三十八日、というふうに、実際には存在しない日付でぼかして記している箇所がいくつもあった。

「これ、わざとずらしてるよね」

「そうだね。誰かに読まれても、日付を辿って何があったか分からないようにしてある」

「誰に読まれることを、祖母は恐れていたの」

「さあ」

多恵おばさんは、それ以上は言わなかった。ただ、封書の角を指先でぴたりと合わせ直した。揃っていないものを見ると、話の途中でも直さずにいられない、彼女の癖だった。

台所の方から足音がして、恒一が入ってきた。手には盆があり、湯呑みが三つ載っている。父はそれを畳の上に置く前に、帳面へは一度も目を向けなかった。

急須を取りに行き、湯を沸かし、茶葉を量り、湯呑みを三つ並べる。その一連の動作は、いつもと寸分違わなかった。動作の正確さそのものが、何かに抗っているように見えた。

「父さん」

私が声をかけても、父は湯呑みの位置を直す手を止めなかった。三つの湯呑みの間隔を、定規で測ったように均等にする。

「古いものだ」

ようやく、そう言った。

帳面にも、封書にも、まだ一度も触れていないのに。

「見てもいないのに、どうして古いって分かるの」

「見なくても、分かることはある」

「見たくないだけじゃないの」

父は答えなかった。急須の蓋を指で押さえ、注ぎ口の向きを揃える。私はその手元を見ていた。指先が、ほんの少し震えていた。怒っているのではない。見つかってしまったものを、どこへ押し戻せばいいのか分からずに、指先だけが迷い続けているようだった。

「恒一」

多恵おばさんが言った。

「あんたも、もう座りなさい」

「茶を淹れています」

「淹れ終わったなら、座りなさい」

父はしばらく動かなかった。やがて、湯呑みの位置をもう一度だけ確かめてから、畳の端に膝をついた。座るというより、座らされる形だった。

多恵おばさんは帳面を開き、白石縁の名があった頁を父の前へ滑らせた。

「姉さんが、あの夜、白石さんに何を言わなかったか。それを、今日は言葉にする」

「何を根拠に」

「根拠なんて、いらないよ。私はあの夜、台所にいた。あんたは玄関にいた。姉さんは迎えの間の戸を閉めていた。三人とも、違う場所で、同じことをしていたんだ。聞こえないふりを」

父の喉が、小さく動いた。

「多恵さん。今さら、それを言って何になる」

「何にもならないかもしれない。でも、言わなければ、透子は姉さんを優しい人だったとしか覚えられない。優しい人が、なぜあの夜だけ台所で水を流し続けたのか、なぜ迎えの間の戸を自分の手で閉めたのか、誰も透子に説明しないまま終わる」

父は目を伏せた。私はその横顔を見ていた。父が黙り込むとき、いつもならそこで話は終わる。誰も追わず、誰も追及せず、家の中の空気だけがひとつ重くなって、それで一日が過ぎていく。

けれど今朝は、多恵おばさんが引かなかった。

「姉さんは、白石さんに謝らなかった。謝ろうとした夜もあったはずだよ。でも、謝れば戸を開けることになる。開ければ、戻ってくるものがある。姉さんはそれを知っていた。だから、謝る代わりに、戸を閉めた。閉めて、二度と開けないと決めた。それが、姉さんの選んだ償い方だったんだよ」

「償いになっていない」

私は思わず言った。

「戸を閉めることは、償いじゃない。ただ、先延ばしにしただけでしょう」

「そうだね」

多恵おばさんは、驚くほどあっさり頷いた。

「償いにはなっていない。姉さんは、最後まで償わなかった。止められなかったんじゃない。償う機会が、何度もあったのに、そのたびに戸を閉める方を選んだ。それだけのことだよ」

その言葉は、断罪でも弁護でもなかった。言い訳の余地を残さない代わりに、責め立てる勢いもない。ただ、事実の形だけがそこに置かれていた。私はそれを、そのまま受け取るしかなかった。

父は何も言わなかった。膝の上で組んだ指の先が、白くなっていた。

多恵おばさんは帳面を私の方へ押し出した。

「これ以上は、私が言葉にするより、あんたが自分で読んだほうがいい」

私は帳面を受け取り、最後の頁まで指でめくっていった。数字と日付が並ぶ間に、時折、短い言葉が挟まっている。戸を閉める。裏口。雨。そのどれもが、出来事そのものではなく、出来事の周りに残った音や仕草を書き留めたものだった。

最後の頁に、それまでとは違う筆致の走り書きがあった。

迎えの間。

それだけだった。日付もない。前後の文脈もない。ただ、その二文字だけが、頁の真ん中に小さく記されている。そして、文字の右端に、細い記号が添えられていた。二本の線を並べ、その下に短い一本を引いた形。草履の鼻緒と編み目を、簡単に描いたような記号だった。

私は息を止めた。

同じ記号を、以前にも見た。来客の日付の脇に、祖母が繰り返し書きつけていた記号だ。入れるな、迎えるな、戻すな、という言葉と並んで。

この記号は、印だった。

誰かをその場所へ導くための、あるいは、その場所から誰も出さないための、祖母だけの符牒だった。

「多恵おばさん」

私は帳面を胸の高さに掲げた。

「これ、迎えの間の場所を示してるんだよね」

「そうだろうね」

「祖母は、最後までこの記号を使い続けていた。私たちが知らないうちに、ずっと」

多恵おばさんは頷いた。眼鏡を外し、レンズを布で拭いながら、視線をわずかに逸らした。

「姉さんは、書くことでしか、それを抱えていられなかったんだと思う。誰にも話さず、誰にも見せず、ただ紙の上にだけ、自分が何を封じたかを残しておいた」

父が、初めて帳面へ視線を落とした。迎えの間の文字を見て、何かを言いかけて、また口を閉じた。

仏間の奥で、押し入れの襖がわずかに軋んだ。

風はなかった。それでも、木と木がこすれる乾いた音が、確かに聞こえた。線香の匂いが、また少しずつ重くなりはじめていた。

私は帳面を閉じずに、その記号をもう一度見つめた。

この印の先にあるものを、開けるかどうか。

その問いだけが、朝の光の中で、静かに輪郭を持ちはじめていた。

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帳面の継ぎ目 - 帰れぬ草履 - 誰でも作家life