6話 夜明け前の縁側

夜が更けると、家の中の音は変わった。

夕食のあと、父は仏間の襖を閉め、重治さんは土間へ下りた。多恵おばさんは、封筒と帳面を風呂敷に包み直しながら、今夜はもう休みなさいと私に言った。けれど、眠れるはずがなかった。

手帳の間には、祖母の便箋と、白石縁の名が書かれた紙片が挟まっている。

返してもらうまで、私は帰れない。

その一文が、閉じた目の裏に浮かび続けた。誰が何を返すのか。祖母が奪ったのか。父が奪ったのか。それとも、家族全員が見ないふりをした何かなのか。

隣の部屋から、父が戸締まりを確かめる音が聞こえた。玄関の鍵。勝手口の掛け金。廊下の奥の障子。ひとつずつ、同じ順番で確かめている。

鍵を回す音が三度続いたところで、私は布団から起き上がった。

部屋の入口を見る。次に窓を見る。

どちらも閉まっている。

それでも、廊下の向こうから湿った木の匂いが流れてきた。線香の煙が、閉じた戸の隙間を通っているようだった。

私は手帳を懐へ入れ、部屋を出た。

廊下の板は冷たかった。昼間の熱はすっかり抜けている。足音を殺そうとすると、かえって自分の呼吸ばかりが耳についた。遠くで犬が一度だけ吠えた。続く声はない。蝉も、蛙も、もう鳴いていなかった。

家の外より、家の中の方が静かだった。

縁側へ続く障子の前で、私は一度だけ息を止めた。指先を襟元へ触れ、それから障子へ伸ばす。紙の向こうに、庭の裸電球がぼんやり滲んでいた。

開ける。

湿った夜気が、顔にまとわりついた。

板に足を置いた瞬間、冷たさが素足の指の間へ入り込んだ。縁側の灯りは、庭の濡れた石と柿の木の幹だけを黄色く照らしている。光の外は黒く、葉の重なりも、軒下の柱も、どこまでが物でどこからが闇なのか分からなかった。

私は縁側の端に座り、手帳を開いた。

祖母の便箋を取り出す。夜気のせいか、紙は昼より柔らかく感じられた。白石さんへ、と書かれた三文字を親指で押さえる。

家の者が謝ることは、家を開くことではない。

祖母は、謝ることさえ恐れていたのだろうか。謝れば、許されるどころか、戻ってくるものがあると知っていた。戻ってきたものをまた外へ出すことはできない。だから戸を閉め、名前を削り、紙を隠し、私には冷たい水を飲ませた。

それでも、祖母は書いた。

消した跡まで残した。

私が紙を折り直したとき、庭の方から音がした。

乾いた擦過音だった。

草履の裏が板ではなく、濡れた石を撫でる音に似ていた。

ひとつ。

少し間を置いて、もうひとつ。

私は顔を上げた。

庭の暗がりには、何も見えない。裸電球の光が届くところにも、人影はなかった。けれど音は、柿の木の方から縁側へ近づいてくる。

さっ。

さっ。

足音ではない。誰かが、歩く速度をわざと落としているような音だった。

私は立ち上がらなかった。逃げるべきだと思うのに、体は耳の方へ傾いていた。怖さより先に、確かめなければならないという感覚があった。

障子の向こうに、影が現れた。

一つだった。

仏間の灯りを背にしているため、輪郭しか見えない。肩の高さ、頭の形、手の位置。人間に見えるが、家の者ならもっと早く戸を開ける。そこにいることを知らせる咳払いや、名前を呼ぶ声があるはずだった。

影は黙っていた。

私は手帳を握りしめ、障子へ手を伸ばした。

指が桟に触れる。

その瞬間、背後の仏間で、父の声がした。

「透子。そこを開けるな」

低い声だった。

命令というより、懇願に近かった。父が私に頼むことは少ない。頼むときも、用事の形にして渡す。戸を閉めてくれ、茶を持ってきてくれ、明日の朝は早いから起きていろ。こんなふうに、理由もなく止める声を聞いたのは初めてだった。

「誰かいる」

「いない」

「いるよ」

「古い家の影だ」

「影は草履の音を立てない」

返事がなかった。

私は障子を開けた。

夜気がもう一度、家の中へ流れ込んだ。

縁側の端に、白石縁が立っていた。

濡れた髪が頬に張りついている。着物の裾には雨をくぐったような湿り気があり、肌からは冷たい木と土の匂いがした。それなのに、草履の鼻緒は乾いていた。足元の編み目も乱れていない。

白石縁は、私の顔を見た。

女にも男にも見える顔だった。年齢の輪郭さえ、灯りの加減で定まらない。ただ、目だけが静かだった。恨んでいる人間の目というより、長い間、恨みを恨みのまま腐らせないように見張ってきた人の目だった。

私は息を止めた。

白石縁は何も言わない。

私も、すぐには言葉が出なかった。怖い。けれど、その怖さの奥に、奇妙な親しさがあった。祖母が家の奥で音を聞いたときに見せた顔。父が草履を見たときに隠そうとした呼吸。多恵おばさんが紙の角を揃えながら、何かを待っていた指先。

この人は、そのすべての向こう側にいる。

白石縁の視線が、私の胸元へ落ちた。手帳を見ているのだと思った。

「これを、知っていますか」

私は便箋を出した。

白石縁は紙を見たが、手を伸ばさなかった。代わりに、縁側の床へ視線を移した。

あの夜から置かれている二足の草履。

二足は、室内へ上がる向きに揃えられている。庭へ下りる者の履物ではない。これから家の中へ入る人間のために、足を差し入れやすく並べられている。

「この草履は、あなたのものですか」

白石縁は答えなかった。

仏間の方で、父が立ち上がる音がした。

「透子、戻りなさい」

「父さんは、この人を知っている」

「知らない」

白石縁の口元が、ほんの少しだけ動いた。

笑ったのかもしれない。けれど、笑い声はなかった。

「知っている人は、知らないと言う前に、相手の顔を見ません」

声は低く、丁寧だった。

その丁寧さが、父の声より冷たく感じられた。

父が縁側へ出てきた。白いシャツの袖は乱れていない。髪も整っている。けれど、右手は袖の中で強く握られていた。

「白石さん」

父が名前を呼んだ。

それだけで、家の中の空気が変わった。

白石縁は、ようやく父を見た。

「お久しぶりです、恒一さん」

「どうしてここへ来た」

「呼ばれたからです」

「誰が呼んだ」

「あなたのお母さまです」

「母はもう死んだ」

「存じています」

白石縁は一歩も動かなかった。

「だから、来られました」

父の顔色が変わった。怒りではなかった。言葉を返そうとして、返せる言葉がない人の顔だった。

「ここは、あなたが来ていい場所じゃない」

「そうでしょうか。私は以前、何度もこちらへ伺っていました。呼ばれたときには座敷へ通され、食事もいただきました。おばあさまは私に、裏口ではなく縁側から入るように言った。あなたはそれを知っているはずです」

「昔の話だ」

「ええ。あなたにとっては」

白石縁の声が少し低くなった。

「私にとっては、昨日の夜まで続いていました。目を閉じると、あの日の戸の音がする。雨の中へ出されて、履物を置いていくしかなかったときの音です。草履を脱いだのは私です。けれど、置いたのは私ではありません。あなたのお母さまが、縁側へ揃えました。帰る人間に履物を返すのではなく、もう一度ここへ戻る人間のために、家の内側へ向けて」

「そんなことは知らない」

「知っているでしょう」

白石縁は父を急かさなかった。急かさず、父が言葉を選び終わるまで待っていた。その待ち方が、かえって逃げ道をなくしていく。

「あなたは、私の布袋を取り上げた。中に入っていた手紙も、写真も、帳面の写しも。家に関わるものを持ち出すなと言った。持ち出せば村の恥になる、家の名前が傷つく、そう繰り返した。私は何度も返してほしいと言った。けれど、あなたは戸を閉めた」

「それは、家を守るためだった」

「家を守るためなら、誰かのものを奪ってもいいのですか」

「あなたにも事情があった」

「事情があったから、説明をしなかった?」

「白石さん」

「事情があったから、名前を帳面から削った? 事情があったから、私が来たことをなかったことにした? 事情があったから、母親に私を追い出させて、自分は玄関の内側に立っていた?」

父の呼吸が乱れた。

私は父の横顔を見ていた。ここまで言われても、父は目を逸らさなかった。けれど、手のひらを膝へ押しつけている。何かを壊さないように、身体全体で押さえているようだった。

「私は、あなたを傷つけるつもりはなかった」

「つもりの話をしているのではありません」

白石縁は、足元の草履を見た。

「傷つけた事実の話をしています」

線香の匂いが濃くなった。

仏間から流れた白い煙が、縁側の板を這っている。風はないのに、煙は白石縁の足元へ集まり、草履の鼻緒へまとわりついた。

白石縁は煙を見下ろした。

「これを見ても、まだ偶然だと言いますか」

父は答えなかった。

私は便箋を握った。

「返してもらうまで、帰れないと書いてあります。何を返してほしいんですか」

白石縁は、今度は私を見た。

「あなたのおばあさまが、最後まで返さなかったものです」

「それは、何ですか」

「名前です」

胸の奥で、何かが冷たく沈んだ。

「名前?」

「私がここへ来ていたこと。ここで何をされたか。誰が見ていて、誰が戸を閉めたか。その全部を、私の名前と一緒に返してもらうのです。白石縁という人間が、この家に一度も存在しなかったことにされないように」

その言葉は、怪異の告白には聞こえなかった。むしろ、長く奪われていた人間が、自分の輪郭を取り戻そうとしている声だった。

父が低く言った。

「ここへ来れば、全部戻ると思っているのか」

「戻るとは言っていません」

「家族はもう、あのときの人間じゃない」

「そうですね」

「母も死んだ。あの夜のことを知っている者も、ほとんど残っていない」

「だから、あなたが覚えている」

白石縁は父の目を見た。

「忘れたことにしているだけで、覚えている」

父は黙った。

白石縁は、縁側に置かれた二足の草履へ手を伸ばした。触れる前に、ほんの一瞬だけ間を置く。それから右の草履を指先で少しずらした。

乾いた音がした。

その音を聞いた途端、父の肩が跳ねた。

「やめろ」

初めて、父がはっきりと拒んだ。

白石縁は手を止めた。

「この向きでした」

「何が」

「あの夜、私がここへ座らされたときの向きです。草履は庭へ向いていた。私は何度も履こうとした。でも、鼻緒を切られていた。足を入れられなかった」

私は草履を見た。白い糸が巻かれていた鼻緒の根元。その糸は補修ではなく、切れたものを結び直した跡だった。

「誰が切ったの」

父は答えなかった。

白石縁が私を見た。

「あなたのお父さまです」

「違う」

父の声が重なった。

「切ったのは、私じゃない」

「では、誰ですか」

父は白石縁を睨んだ。穏やかな顔を保とうとしていたが、目の奥に恐怖と怒りが混じっていた。

「母が……」

そこで言葉が途切れた。

仏間の奥で、灯が揺れた。

多恵おばさんの足音が近づいてくる。彼女は廊下の端で立ち止まり、白石縁を見た。顔から血の気が引いたが、逃げなかった。

「白石さん」

多恵おばさんが言った。

「お久しぶりです」

「多恵さんは、あの夜、台所にいましたね」

「いたよ」

「水を流していた」

「そうだね」

「私が何度、名前を呼んだか覚えていますか」

多恵おばさんは答えなかった。紙の角を揃えるように、両手の指を重ねる。

「覚えています」

やっと、そう言った。

「忘れたことにしていただけです」

白石縁は頷いた。

「なら、今夜は忘れないでください」

庭の暗がりで、裸足の足音がした。

さっ、さっ、と湿った音が縁側へ近づいてくる。けれど、白石縁は振り返らない。父も、多恵おばさんも、音の方へ目を向けた。

私は違った。

白石縁の足元を見た。

草履を履いていない。

濡れた板の上に、裸足の跡が二つ残っていた。けれど白石縁は、私たちの前へ来るまで一度も草履を脱いでいない。着物の裾から落ちた水なのか、誰かが庭から上がった跡なのか、判断できなかった。

白石縁は、縁側の奥を見た。

その視線の先には、仏間と、閉じた襖がある。

「迎えの間は、まだ開けていないのですね」

父の顔が強張った。

「何の話だ」

「おばあさまは、あそこへ私のものを入れた。私から取り上げたものを、誰にも見つからないように。帳面も、写真も、手紙も。名前まで、あの部屋へ押し込めた」

「違う」

「なら、開けてください」

父は動かなかった。

多恵おばさんが目を伏せる。

「恒一」

「開けたら、家が終わる」

「終わらせるのは、家じゃないよ」

白石縁が静かに言った。

「終わらせるのは、家のために人を消しても許されるという考えです」

仏間の奥で、襖が小さく震えた。

誰も触れていない。

白い煙が敷居の下から流れ出し、私の足元を横切った。線香の匂いに、濡れた衣服の匂いが混じる。私はその匂いを吸い込み、胸の奥が締めつけられるのを感じた。

白石縁は私に視線を戻した。

「あなたは、開けますか」

答えようとした。

けれど、言葉が出なかった。

私は父を見た。父は戸を閉める人だった。多恵おばさんは、閉められた戸の向こうで聞こえないふりをした人だった。そして白石縁は、閉じた戸の前に立ち続けた人だった。

私はまだ、家族の側にいる。

それでも、もう家族の沈黙をそのまま受け継ぐことはできなかった。

「まだ、開けるとは言えません」

私は言った。

「でも、閉めるとも言いません」

白石縁の目が、ほんのわずかに細くなった。

「それで十分です。今夜は」

白石縁は、右の草履を元の位置へ戻した。鼻緒の先を室内へ向け、左の草履と平行に揃える。その所作は丁寧で、迷いがなかった。

「この家に入ったのは、私ではありません」

白石縁が言った。

「私を入れたままにしたものが、ここにいるのです」

その言葉のあと、白石縁の姿が障子の影に重なった。

私は目を逸らさなかった。

影が薄くなる。湿った匂いだけが残る。次の瞬間、障子の向こうには誰もいなかった。

庭にも、縁側の端にも、白石縁はいない。

ただ、草履だけが二足、室内へ向けて揃っていた。

そして家の奥から、裸足の足音が聞こえた。

一歩。

間を置いて、もう一歩。

その音は、迎えの間の前で止まった。

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夜明け前の縁側 - 帰れぬ草履 - 誰でも作家life