5話 昔のことだ

煙は、帳面の端に触れたところで消えた。

紙が焦げたわけではない。白い筋が細くほどけ、墨のにおいだけを残して、どこかへ吸い込まれていった。私は帳面を閉じることができなかった。指先が表紙の革に触れているのに、力が入らない。

押し入れの襖は、まだ閉まっている。

その向こうに何かがいるのか、いるように見せられているだけなのか、私には判断がつかなかった。ただ、襖の下に溜まった暗がりだけが、家のほかの場所より濃かった。

「朝から騒がしいと思ったら、煙まで出しやがる」

三輪重治が、土間から仏間へ上がった。上がり框に足をかける前に、玄関の草履を一足ずつ見た。向きが少しずれていたらしく、鼻緒をつまんで平行に直す。

「重治さん、これは線香の煙です」

父が言った。

「線香は仏壇から出るもんだ。押し入れから出てくる線香があるなら、そいつは仏さんじゃねえ」

「古い家ですから。隙間を通っただけでしょう」

「隙間を通る煙にも、行き先くらいある。こいつは帳面を選んで触った」

重治は私の手元を見た。私は帳面を胸の前へ引き寄せた。守ろうとしたのか、見られるのが怖かったのか、自分でも分からない。

父が座敷へ向かった。

「透子、その帳面を貸しなさい」

「嫌」

思ったより早く声が出た。

父は足を止めた。いつもなら、ここで少し笑う。私の頑固さを子どもの癇癪のように扱い、別の用事を持ち出して話を終わらせる。けれど今朝は笑わなかった。

「古い紙だ。湿気を吸っている。扱いを間違えると破れる」

「破れたら困るのは、紙だけじゃないでしょう」

「そういう言い方をするな」

「どういう言い方なら、父さんは聞くの」

重治が鼻で笑った。

「聞く気のねえやつに、聞かせる言い方なんぞあるか」

「重治さん、黙っていてください」

「黙ってきたから、こうなっとる」

父は重治を見た。声を荒げてはいない。それでも、仏間に残った線香の煙が一瞬だけ横へ流れた。父が怒っているとき、声より先に家の中の細かなものが乱れる。湯呑みの位置、障子の閉まり方、呼吸の間隔。私はその変化を、子どものころから見てきた。

父は怒鳴らない。

怒鳴らない代わりに、相手が自分から口を閉じるまで、静かな顔をして待つ。

そのやり方が、今日は通じなかった。

「重治さん。これは家の話です」

「家の話だから、家の中だけで終わらせるなと言っとる」

「あなたが知っているのは、村で流れた噂でしょう」

「噂なら、あんたの母親は帳面に名前を残さなかっただろうな」

父の手が袖の中で固く握られた。

私は帳面の頁を開いた。白石縁の名前が、何度も書かれ、重ねられ、削られている。消された箇所の周囲には、祖母の筆圧の癖が残っていた。行末で強く押す癖。迷ったときだけ、文字の間隔が狭くなる癖。書き直したあと、必ず紙の端を指で撫でる癖。

祖母は名前を消した。

消したのに、消えたことまで残した。

「父さん」

私は頁から目を上げた。

「白石縁さんは、何をした人なの」

「何も」

「何もしていない人の名前を、どうして消すの」

「家に出入りしていた。それだけだ」

「それだけなら、どうして草履だけを残して帰ったの」

父は答えなかった。

障子の外で、庭の木から水滴が落ちた。朝の露がまだ残っているらしい。ひとつ、ふたつ。音は小さいのに、家の中では妙に遠くまで響いた。

父は台所へ歩いていった。

「茶を淹れる」

「話の途中だよ」

「喉が渇いているだろう」

「私は大丈夫」

「私は淹れる」

急須を取りに行く父の背中を、私は追った。廊下へ出ると、素足の下の板が場所ごとに違う冷たさを返してくる。仏間の前は湿っていて、台所へ近づくほど木の匂いが強くなる。朝の光は庭から差しているのに、家の奥へ進むにつれて薄くなった。

父は流しの脇に置かれた薬缶を持ち上げ、火にかけた。蓋が小さく鳴る。

「父さん」

「そこに座れ」

「座らない」

「立ったままだと疲れる」

「疲れたかどうかは、私が決める」

父は返事をせず、茶筒を開けた。茶葉を急須へ入れる手つきは、いつもと変わらない。匙の先で二度すくい、三度目は少しだけ減らす。湯を注ぐ前に、急須の蓋を押さえる。

何も変わっていないように見せるための手順だった。

私は流し台の脇に置かれた古い布巾を見た。祖母が使っていたものと似た、薄く黄ばんだ布だった。端の縫い目が一か所だけほつれている。私は指を伸ばしかけて、止めた。

「白石縁さんは、家に何をしに来ていたの」

「さっき言っただろう。出入りしていただけだ」

「出入りには理由があるよ」

「人にはそれぞれ事情がある」

「白石さんの事情は?」

「知らない」

「本当に?」

父は湯を注いだ。急須の中で茶葉が開く音がした。温かい匂いが立ちのぼり、線香の残り香と混じる。私はその組み合わせが嫌だった。茶と線香は、祖母の家ではいつも一緒にあった。誰かが死んだあとも、誰かが何も言わないときも、同じ匂いがしていた。

「本当に知らない」

父は湯呑みを三つ、座敷の低い卓へ運んだ。

私はその後ろを歩いた。父は途中で何度も立ち止まり、廊下の端に寄った座布団を直し、障子の桟を指で撫で、玄関の戸締まりを確かめた。どれも必要のない作業だった。けれど、父にとっては必要だった。話が崩れそうになると、物を整えることで自分の立つ場所を作る。

座敷へ戻ると、多恵おばさんが封書の束を抱えて入ってきた。

封書は古い灰色の風呂敷に包まれていた。多恵は卓の上を一度見回し、父が置いた湯呑みの位置を直してから、風呂敷をほどいた。封書を年代順に並べる。紙の厚さ、封の形、宛名の書き方まで見ているらしかった。

「それ、どこから」

父が訊いた。

「お母さんの部屋」

「勝手に持ち出したのか」

「遺品を整理しているだけだよ。あんたが触らないから、私が触っている」

「多恵さん」

「何」

「今日は、もういいでしょう」

「何が?」

多恵は眼鏡を外し、レンズを布で拭いた。返事を急がない。父が言葉を重ねるのを待っている。

「法要のあとだ。透子も疲れている。昔の話をして、家の中をかき回す必要はない」

「必要があるかどうかを決めるのは、かき回されたものの側だよ」

「何を言っている」

「家の中に置いたものは、家の人間だけのものじゃない。誰かの名前を消したなら、その名前を持っていた人にも関係がある」

「白石縁は、家族じゃない」

多恵は封書の一通を手に取った。

「家族じゃない人なら、何をしてもいいのかい」

「そういう話ではない」

「じゃあ、どういう話なの」

「昔のことだ」

父が言った。

声は低く、平坦だった。昨日までなら、その言葉を聞いて私は一歩引いていたかもしれない。昔のことなら、今の私には関係がない。死んだ祖母を悪く言う必要もない。父が話したくないなら、それでいい。家族には、家族にしか分からない重さがある。

そう思って、東京へ戻ってきた。

けれど、昨夜から草履がある。

家の中から聞こえる足音がある。

線香の煙が、仏壇ではなく押し入れから流れてくる。

「昔のことって、いつから昔になるの」

私は父に聞いた。

「七年前? 三十年前? 誰かが忘れた時? それとも、誰かが死んだ時?」

「透子」

「白石さんがまだ生きているなら、昔のことじゃない。死んでいたとしても、されたことが消えるわけじゃない。祖母が亡くなったからって、祖母が知っていたことまで一緒に埋める理由にはならないでしょう」

「おまえは何も分かっていない」

「分からないようにしてきたのは、父さんたちだよ」

「家には、外から見えない事情がある」

「見えない事情で誰かを追い出したの?」

「追い出したんじゃない」

「草履だけを残して?」

「白石は、自分から出ていった」

「どうして」

「そうするしかなかったんだろう」

「誰がそうさせたの」

父は湯呑みへ手を伸ばしたが、飲まなかった。熱い茶の表面で、細い湯気が揺れている。父の顔に重なって、別の顔が見えた気がした。若いころの父。まだ家を継ぐ前で、祖母の隣に立ち、何かを運び、何かを閉じていた人。

その顔は、私の知らない父だった。

「白石さんは、何を奪われたの」

多恵の指が止まった。

父は私を見た。

「誰から聞いた」

「帳面に書いてあることから考えた」

「帳面にそんなことは書いていない」

「書いていないから、考えたの」

「勝手な想像だ」

「だったら違うと言って」

父は目を逸らした。

私はその瞬間、答えを得たような気がした。父は何も知らないのではない。知っていることの輪郭が、私に伝わらないように、言葉の角を削っている。

多恵が封書を卓の中央へ置いた。

「これを見なさい」

封筒の表には宛名がなかった。裏にも差出人の名前はない。封の部分だけが何度も開かれた跡を残している。多恵は指先で紙の角を揃えてから、私へ差し出した。

「開けていいの?」

「もう、開けてはいけない理由はない」

「多恵さん」

父の声が沈んだ。

「姉さんがこれを残した意味を、まだ考えていないんですか」

「考えたよ。だから、透子に渡す」

「母さんが見せなかったものを?」

「見せなかったんじゃない。見せられなかったんだよ」

「同じことです」

「違う」

多恵は封書から目を離さなかった。

「見せないというのは、見せる力があるのに選ばないこと。見せられないというのは、自分で戸を開けられないこと。姉さんはずっと、その戸の前に立っていた。開ける鍵を持っていたのに、自分の手で回せなかった」

「だから、私に回させるんですか」

「そうじゃない。あんたが回すかどうかを、自分で決められるようにするんだよ」

封筒の中には、薄い便箋が一枚だけ入っていた。

紙には、祖母の筆跡で短い文章が書かれている。文字は乱れていない。けれど、行と行の間が不自然に広かった。書き手が一行書くごとに、長く手を止めたような空白だった。

私は読み始めた。

白石さんへ。

その三文字のあとに、長い空白がある。

家の者が謝ることは、家を開くことではない。家を開けば、戻ってくるものがある。戻ってきたものを、また外へ出すことはできない。

そこまで読んだところで、父が手を伸ばした。

私は便箋を引いた。

「続きがある」

「もういい」

「父さんは、これを知っていたの?」

「知らない」

「じゃあ、なぜ止めるの」

「母さんは病気だった。死ぬ前の人間は、まともな判断ができないことがある」

「祖母を病人にして、書いたことまで消すの?」

「そういう意味じゃない」

「じゃあ、どういう意味?」

父は椅子を使わず、畳の上に座った。いつもなら膝を崩さず、姿勢を正したままいるのに、今日は背中が少し丸くなっていた。

「家を守ることは、誰か一人の正しさでできるものじゃない。暮らしがある。土地がある。先祖から預かったものがある。ひとつの揉め事で全部を壊したら、残された者はどうなる。母さんはそれを考えたんだ」

「考えて、白石さんを外へ出した」

「白石にも事情があった」

「どんな事情」

「家の中に入れられない事情だ」

「それは、誰が決めたの」

「家の者だ」

「白石さんには決めさせなかったの?」

父は黙った。

多恵が、便箋の端を見つめながら言った。

「白石さんは、あの家に入る資格がなかったんじゃない。入れると困る人間がいたんだよ」

「誰が困ったの」

「恒一」

多恵は父の名を呼んだ。

「もう、自分を守るために母さんを使うのはやめなさい。姉さんは家を守った。けれど、あんたも守ったんだ。白石さんが持っていたものを、あんたたちが取り上げたあとで、家に残った証拠を消した。帳面から名前を削ったのは姉さんかもしれない。でも、削るように言ったのは、あんただろう」

「違う」

初めて、父の声がはっきり揺れた。

「違う。あのときは、そうするしかなかった」

「それを、私は聞いている」

私が言うと、父は目を閉じた。

しばらく、誰も話さなかった。

庭の向こうで、蝉が一匹だけ鳴いた。声は途中で途切れ、残った余韻が木々の間に沈んでいく。仏間の香炉から、線香の煙がまた流れ出した。今度は低くではなく、卓の高さまで上がっている。白い煙が便箋の上を横切り、祖母の文字を一瞬だけ隠した。

父がその煙を見た。

「昔のことだ」

もう一度、父は言った。

けれど今度の声は、私に向けられたものではなかった。自分自身へ言い聞かせる声だった。

「白石縁は、昔のことだ。あの人が何を持ってきたか、何を言ったか、なぜ家に入れられなくなったか。全部、昔のことだ。今さら掘り返しても、誰も戻らない。母さんも、白石も、あの夜にいた人間も、もう昔の人間だ」

「草履は、今ここにある」

「誰かの悪戯だ」

「足音も?」

「家鳴りだ」

「線香の煙は?」

「風だ」

「じゃあ、父さんの顔は?」

父は私を見た。

「何がだ」

「草履を見たときの顔。白石さんの名前を聞いたときの顔。迎えの間の方を見ている顔。全部、家鳴りや風で説明できるの」

父の唇がわずかに開いた。

言葉は出てこなかった。

多恵が便箋を取り、裏返した。裏には何も書かれていないように見えたが、紙の中央だけが少し膨らんでいた。多恵は封筒の内側へ指を入れ、薄い紙片を引き出した。

「まだある」

紙片には、祖母の文字ではない筆跡が残っていた。

白石縁。

名前の下に、短い一文がある。

返してもらうまで、私は帰れない。

私はその文字を読んだあと、しばらく息ができなかった。

「これは、誰の字?」

「白石さんだと思う」

多恵が答えた。

「どうして分かるの」

「姉さんの字ではない。恒一の字でもない。帳面の余白に残っていた、別の筆圧と同じだよ」

「何を返してもらうの」

「それは、まだ分からない」

多恵は紙片を畳み、封筒へ戻そうとした。

そのとき、仏間の奥で、裸足の足音がした。

畳を擦る、湿った音。

一歩。

間を置いて、もう一歩。

音は押し入れの中からではなく、襖のすぐ外から聞こえた。誰かが閉じた戸の向こうで、こちらを待っている。

父は立ち上がった。

「戸を閉める」

「閉めないで」

私が言った。

「透子」

「もう閉めないで」

「何を言っている」

「閉めてきたから、今こうなっている」

父は襖へ向かっていた。けれど、途中で止まった。手を伸ばせば届く距離にあるのに、襖の取っ手へ触れない。肩が上下している。父の呼吸を、私は初めて近くで聞いた。穏やかに見せるための息ではなかった。逃げ道を探す人間の、浅く途切れた呼吸だった。

「透子。家には、開けてはいけない戸がある」

「誰が決めたの」

「昔から決まっている」

「祖母が決めたの?」

「母さんだけじゃない」

「白石さんを追い出した人たちが決めたの?」

父は振り返らなかった。

「白石縁さんは、この家で何を失ったの」

「知らない」

「また、昔のことだって言うの」

「そうだ」

「私はもう、その言葉を信じない」

言ったあと、胸の奥が大きく鳴った。怒鳴ったわけではない。声も震えていなかった。それでも、家のどこかに届いた感覚があった。

襖の向こうで、何かが指先で木を撫でた。

すう、と長い音がした。

父の手が、取っ手から離れた。

多恵は便箋と紙片を、私の手帳の間へ挟んだ。東京で使っていた古びた手帳に、祖母の文字と、白石縁の名前が重なる。

「持っていなさい」

「でも、重治さんは家の外へ持ち出すなと」

「外へ逃がすなと言ったんだよ。読む人間が持つのは、持ち出すのとは違う」

「多恵おばさんは、何を知っているの」

多恵はすぐに答えなかった。

いつものように紙の角を揃えようとして、途中で手を止めた。封筒の端は曲がったままだった。

「私は、知っていた。白石さんが来ていたことも、あの夜に何が起きたかも。全部じゃない。でも、見ていた。見ていたのに、止めなかった」

「どうして」

「怖かったからだよ」

多恵の声は静かだった。

「姉さんが怖かった。恒一が若くて、家を継ぐことに必死だったのも怖かった。村の人間が、誰も口を挟まないことも怖かった。白石さんが戸の外で何度も自分の名前を呼んだのに、私は台所で皿を洗っていた。水を流して、聞こえないふりをした。皿を割らないように気をつけながら、人を一人、外へ置き去りにしたんだよ」

「白石さんは、何をされたの」

「それを知るために、迎えの間を開ける必要がある」

父が振り返った。

「多恵さん」

「もう止めないよ」

「開ければ、戻せなくなる」

「戻さなくていい」

「家が壊れる」

「壊れたのは、ずっと前だよ」

多恵は父を見た。眼鏡を外した目は、思っていたより赤かった。

「家が壊れるのが怖いんじゃない。家が壊れたとき、誰の上に建っていたのか見えるのが怖いんだろう」

父は何も言わなかった。

襖の下から、白い煙がにじんだ。

煙は畳を這い、父の足元を通り過ぎ、私の手帳へ近づいた。私は手帳を握りしめた。紙の内側から、祖母の家の匂いがした。古い木。硬い白米。濡れた布。線香。

そして、知らない人の衣服に染みついたような、冷たい夜の匂い。

襖の向こうで、草履を脱ぐ音がした。

片方。

少し間を置いて、もう片方。

誰かが、迎えの間の中で履物を揃えた。

父はその音を聞いて、ゆっくりと後ずさった。

私は手帳を胸に押し当てた。

「昔のことだ」と父が言った声は、もうどこにも届かなかった。家の奥で、湿った裸足の足音がこちらへ向かっていた。

← 横にスクロールして読み進められます

昔のことだ - 帰れぬ草履 - 誰でも作家life