第4話 裁縫箱の底

朝、目を覚ますと、家の中にはまだ夜の匂いが残っていた。
障子の向こうは明るくなっているはずなのに、私の部屋には薄い灰色の光しか入ってこない。山の朝は東京より早い。鳥の声も、庭先を掃く箒の音も聞こえていい時間だった。けれど、柊家は音を失ったままだった。
昨夜、家の奥で聞いた足音を思い出した。
一度。
間を置いて、もう一度。
あれから、私は眠りに落ちるまで何度も部屋の入口を見た。戸は閉まっていた。窓も閉まっていた。なのに、布団へ横になるたび、廊下の板が沈む気配が近づいてくるように感じた。足音はしなかった。ただ、誰かが音を立てないように歩いている。そのことだけが、耳の奥から離れなかった。
廊下へ出る前に、私は入口の戸を見た。次に窓を見た。いつもの癖だった。
敷居の手前で、足を止める。
家の中には、朝の冷気が溜まっていた。素足を板へ置くと、冷たさが薄い刃のように足裏へ入ってくる。私は音の鳴る板を避け、仏間へ向かった。
父の姿はなかった。
仏間の灯は消えていたが、香炉には昨夜の線香の灰が残っている。灰は中央から崩れておらず、縁の近くへ片寄っていた。誰かが触れたようにも見えたし、夜のあいだに煙が一方向へ引かれた跡にも見えた。
遺影の前に座り、手を合わせる。
祖母の顔を見ると、胸の奥に遅れて痛みが来た。昨日まで、私は祖母を思い出すとき、梅干しを載せた白米や、手の甲に浮いた細い血管ばかりを思い浮かべていた。けれど今朝は、その記憶のすべてに別の影が重なった。
祖母は何を知っていたのだろう。
何を、私に言わなかったのだろう。
私は遺影から目を逸らし、仏間の隅に置かれた裁縫箱へ手を伸ばした。
昨日、多恵おばさんは「透子が持って帰るといい」と言った。けれど、父が押し入れの話をしたとき、箱を取り上げてしまった。その後、いつの間にか仏間の隅へ戻されていたらしい。蓋の上には、昨夜の買い物メモが置かれていた。
私は紙を取り上げた。
醤油。豆腐。白米。線香。
最後の「香」の文字を指でなぞる。紙は乾いているのに、指先へ湿り気が残ったように感じた。
裁縫箱の蓋を開ける。
中身は昨夜と変わらない。折れた針。赤い糸。紺色の糸。指ぬき。小さな鋏。祖母が使い込んだ道具は、死んだ人の手から離れたあとも、まだ誰かに使われることを待っているようだった。
私は底に敷かれた布を持ち上げた。
その下に、薄い板がある。
昨日は気づかなかった。板の端に爪をかけると、わずかに浮いた。接着が剥がれているのではない。何度も開け閉めされたために、木の端が擦れていた。
私は息を止めた。
板を外すと、底の空間に布包みが一つ、押し込まれていた。灰色の木綿布をほどく。中から出てきたのは、手のひらに収まる小さな帳面と、黄ばんだ封筒だった。
帳面の表紙は革張りで、角が丸く磨り減っている。表には何も書かれていない。封筒の口は糊で閉じられておらず、紙の端が何度も触られたように波打っていた。
その二つを畳へ置いたとき、仏間の奥で、かすかな音がした。
爪で木を撫でるような音だった。
私は振り返った。
押し入れの襖は閉じている。下の隙間も暗い。けれど、襖の向こう側から冷気が細く流れていた。線香の匂いもする。昨夜のように重くはない。ただ、誰かが古い衣服を着たまま、暗い場所でじっと座っているような匂いだった。
私は帳面を膝へ置き、台所の勝手口まで運んだ。
戸を少し開けると、湿った朝の空気が入ってきた。庭の草には露が残っている。柿の葉の先から水滴が落ち、土の上で小さく弾けた。外は明るいのに、家の中へ入った風は冷たかった。夜がまだ、梁のあいだに残っている。
私は帳面を開いた。
最初の頁には、米や味噌、灯油の買い入れが記されていた。祖母の文字は整っている。日付も金額も乱れていない。けれど数頁めくると、家計の記録の間に、来客の名や村の行事が混ざりはじめた。
八月三日。三輪さん、夕刻。
八月五日。裏口。雨。
八月七日。戸を閉める。
短い言葉だった。
誰が来たのかではなく、どこから来たのか。何を話したのかではなく、どの戸を閉めたのか。祖母は出来事そのものではなく、その周囲に残った音や動作を書いていた。
頁の端に、小さな記号があった。
二本の線を横に並べ、その下へ短い線を一本引いた形。草履の鼻緒と編み目を簡単に描いたようにも見える。
その記号の脇に、祖母はこう書いていた。
入れるな。迎えるな。戻すな。
私は文字を読み終えても、すぐには頁をめくれなかった。
何を入れてはいけないのか。
誰を迎えてはいけないのか。
そして、何をどこへ戻してはいけないのか。
勝手口から入った風が、紙の角を震わせた。帳面を押さえようとした指の下で、墨の濃い文字がわずかに滲んで見えた。
さらに頁をめくる。
同じ名前が、何度も現れた。
白石縁。
最初の記載は、来客の欄にあった。日付の横に、普通の客と同じように書かれている。次の頁では名前の上から別の墨が重ねられていた。その次では、文字が消されている。消し方は乱暴ではなかった。刃物で削ったのではなく、硬い爪先か、乾いた布で何度も擦ったように紙の表面が荒れている。
私は名前の上へ指を置いた。
白石縁。
知らない名前のはずだった。
それなのに、口に出す前から、喉の奥が狭くなった。昨夜、縁側で父に尋ねたときのことが戻ってくる。父は答えなかった。知らないと言いながら、名前を聞いた瞬間に、家の奥を見た。
私はその視線の先を確かめるように、帳面を持ったまま仏間へ戻った。
父は廊下の端で、古い座布団を干していた。いつ起きたのか分からない。白いシャツの袖をまくり、座布団の糸のほつれを指でつまんでいる。
「早いな」
父は私の手元を見ずに言った。
「父さんも」
「朝は家の手入れをする時間だ」
「おばあちゃんの裁縫箱から、帳面が出てきた」
父の手が止まった。
「そうか」
「見てもいい?」
「見ているじゃないか」
「そういう意味じゃない」
父は座布団を裏返し、縁を手のひらで撫でた。汚れを落とすためではない。話を続ける前に、何かを整えたかったのだと思う。
「母さんは、昔から書きものが好きだった。買い物のことでも、仏壇のことでも、何でも残しておく癖があった」
「白石縁の名前も?」
父は私を見なかった。
「その名前が、書いてあったのか」
「知っているんだね」
「聞いたことがあるだけだ」
「どこで?」
「母さんからだ」
「何を聞いたの」
父は座布団を抱えたまま、廊下の先にある窓を見た。庭では、朝の光が濡れた葉を白くしている。父の横顔は穏やかだったが、口元だけがわずかに固まっていた。
「昔、家に出入りしていた人だ」
「それだけ?」
「それ以上、知る必要はない」
「私が決めることじゃないの」
「家のことは、家の人間が決める」
「白石縁さんも、この家の人間だったの?」
父は答えなかった。
私は帳面を開いたまま、父の前へ一歩近づいた。
「名前が消されている。何度も書かれて、何度も消されている。来客の記録に残す必要がない人なら、最初から書かなければよかったでしょう。書いたのは、忘れたくなかったからじゃないの」
「母さんが何を考えていたかは、母さんにしか分からない」
「分からないことにしておけば、何でも終わるね」
「透子」
「昨夜もそうだった。白石縁の名前を聞いたら、父さんは答えなかった。草履を片づけようとした。押し入れのことを聞いたら、古い布団だと言った。どれも、見つかったものを別の場所へ移しているだけじゃない」
「家を守るには、そうするしかない時もある」
「何から守るの」
「家族からだ」
父の声は低かった。
「家族を、家の外にあるものから守る。昔の人間関係や、村の噂や、誰かの恨みから守る。それが家を継ぐ人間の仕事だ」
「そのために、誰かを家の外へ出したの?」
「話を広げるな」
「広げているんじゃない。父さんが狭くしているから、見えなくなっているだけだよ」
父は座布団を床へ置いた。置く向きまで揃えようとしたが、指先がずれた。すぐに直そうとして、さらに角が曲がる。
「白石縁は、家の者じゃない」
「でも、出入りしていた」
「そういう人間は、昔はいくらでもいた」
「出入りしていた人を、追い出した?」
「追い出したんじゃない。来なくなっただけだ」
「草履だけを残して?」
父の顔から、血の気が少し引いた。
私は自分の声が震えていないことに驚いた。怖い。父の顔を見ていると、昨夜から続いているものが、単なる怪異ではなく、父の記憶に結びついているのが分かる。けれど恐怖は、私を黙らせるより、細部を見せた。
父の右手の親指が、座布団の縫い目を何度も押している。
「誰から聞いた」
「草履が教えた」
「馬鹿なことを言うな」
「なら、帳面が教えた」
「帳面は何も教えない。書いた人間が、書いたことだけを残す。そこから先は読む人間の勝手な想像だ」
「おばあちゃんは、白石縁さんの名前を消した。消した跡まで残した。これは想像じゃないよ」
「母さんは家を守ろうとした」
「だから?」
「だから、もういいだろう」
「何がいいの」
「母さんは死んだ。七回忌も済ませる。死んだ人間をいつまでも裁くな」
「裁いているんじゃない。知りたいだけ」
「知ってどうする」
「知らないまま、祖母を優しい人だったと言い続けるよりはいい」
父は顔を上げた。
「母さんは優しい人だった」
「そうだと思っている」
「なら、それでいいじゃないか」
「よくない」
私は本心を言う前に、一度だけ息を止めた。
「優しい人が、誰かを傷つけることはある。怖くて見なかったことにすることもある。祖母がそうだったなら、私はそのことまで含めて覚えたい。優しかったところだけ残して、他の部分を消すのは、祖母を弔うことじゃないと思う」
父は長く黙った。
廊下の窓から風が入り、帳面の頁が勝手にめくれた。白石縁の名前が記された頁で止まる。
墨の下に、別の文字が透けていた。
私は帳面を持ち上げ、光にかざした。削られた箇所の裏側から、紙を強く押しつけた跡が浮かんでいる。文字は読めない。ただ、二つの丸い点と、その下に引かれた短い線だけが見えた。
草履の記号だった。
父はそれを見て、視線を逸らした。
「その帳面は多恵さんに渡せ」
「どうして」
「古い紙は扱いが難しい。透子が持っていると、破れる」
「破れるのは紙だけ?」
父は答えなかった。
そのとき、玄関の方から声がした。
「朝っぱらから、戸を閉め切って何を揉めとる」
三輪重治だった。
重治は杖を使わず、片手に竹の籠を下げて立っていた。日に焼けた顔に深い皺が刻まれ、もう片方の手には、使い古した草履入れが握られている。玄関へ入る前に、土間の隅、上がり框、廊下の奥を順番に見た。
「重治さん、朝から何の用ですか」
父の声がわずかに硬くなる。
「仏さんに手ぇ合わせに来た。七回忌だろうが。村の者が誰も来んと思うなよ」
「法要は昨日で終わりました」
「弔いは日付で片づくもんじゃねえ」
重治はそう言いながら、籠を土間へ置いた。中には茄子と胡瓜、それから濃い茶の入った水筒があった。私の手の帳面に気づくと、鼻で小さく笑う。
「ほう。とうとう出したか」
父が振り返った。
「何を知っているんです」
私が尋ねると、重治はすぐには答えなかった。玄関脇の草履を見て、左右の向きを揃え直す。それから、ようやくこちらを見る。
「知ってることは少ねえ。少ねえが、知らん顔をしてきた時間は長い」
重治は土間に立ったまま、仏間の奥を見た。
「その紙に、草履の印があるか」
「あります」
「なら、家の外で開くな。家の中で読め。印が付いたものは、外へ持ち出すと話が散る」
「どういう意味ですか」
「意味を聞く前に、見たものを言え。名前はあったか」
「白石縁」
重治の目が細くなった。
「そうか」
「知っているんですね」
「知っているとも」
重治は茶の水筒を撫でながら言った。
「白石さんは、この家へ何度も来ていた。用事があって来ていたんじゃねえ。呼ばれて来ていた。呼んだのは、あんたの婆さんだ」
父が低く言った。
「重治さん、余計なことを」
「余計かどうかは、もう透子が決めることだ。あんたが決める時分は過ぎた」
「村の人間が家のことに口を挟まないでください」
「村の人間だから口を挟むんだ。あの夜、誰も止めなかった。あんたの家の戸が閉まる音を、村じゅうが聞いた。聞いて、聞かなかったことにした。だから今さら、家の中だけの話だと言われても困る」
父の手が、袖の中で握りしめられた。
私は帳面を閉じた。重治の言葉は荒かったが、父の言い訳よりずっと現実の形をしていた。家は閉じていた。けれど、その戸の外には村があり、村は家の戸が閉まる音を聞いていた。
「白石縁さんは、何をされたんですか」
私が訊くと、重治は視線を落とした。
「そこまで書いてあるか」
「まだ分かりません」
「なら、急ぐな。帳面には順番がある。名前の前に日付があり、日付の前に草履の印がある。印が出た夜は、誰かを迎えた夜じゃねえ。家の中の者が、外へ出す相手を決めた夜だ」
父が言った。
「それは昔の作法です。今の人間には関係ない」
「作法を使って追い出したのなら、関係ある。作法は、やったことを正しく見せるために使われる。正しく見せたからって、正しくなるわけじゃねえ」
重治の声は、思ったより静かだった。
「透子。草履が縁側に揃っていたのは、誰かが来た印じゃない。あの家が、もう一度同じことをする用意をしている印だ。何を迎えるかは、まだ分からん。だが、迎える側が誰かだけは分かる」
「誰ですか」
重治は私を見た。
「黙ってきた者だ」
その言葉のあと、仏間の奥で畳が鳴った。
一度。
誰も動かなかった。
続いて、押し入れの向こうから、湿った足の裏が畳を擦る音がした。仏間の入口へ向かっている。重治は音の方向へ顔を向け、父はその場から動かなかった。
帳面の最後の頁が、風もないのにめくれた。
白石縁の名前が削られた頁の下に、まだ読んでいなかった一行が現れた。
迎えの間。戸を閉めたあと、草履だけ残る。
私はその文字を見つめた。
重治が、低く息を吐いた。
「まだ終わっとらん」
仏間の灯は消えている。
それなのに、押し入れの襖の下から、白い煙が細く流れ出してきた。煙は床を這い、私の足元まで来て、帳面の端へ触れた。
紙から、線香の匂いがした。
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