第3話 縁側の草履

食事が終わるころには、庭の蝉も鳴きやんでいた。
昼間の熱を抱えたままの屋根や石が、夜気の中でゆっくり冷えていく。台所では母と叔母たちが食器を重ねていた。水道から流れる水の音、茶碗の触れ合う音、誰かが低く笑う声。そのどれもが、襖を一枚隔てただけで遠い場所から届くように聞こえた。
仏間には、父と叔父たちが残っていた。煙草の煙が障子の隙間から廊下へ流れ、線香の匂いと混じっている。七回忌の席で交わされる話は、祖母の病気のことから、畑の水路の補修、近所の家の息子が戻ってきたという話へ移り、最後には誰もが知っている昔話になった。
祖母が若いころは気が強かった。
料理の味つけにうるさかった。
冬でも縁側を開けて、風を入れたがった。
私は座敷の隅で湯呑みを両手に包みながら、その話を聞いていた。どの話にも祖母の姿はあった。けれど、私が覚えている祖母は、話の中に出てくる人よりずっと静かだった。
何かを言いかけて、やめる。
誰かが声を荒げると、食器を片づける。
廊下の奥で音がすると、私の肩へ手を置く。
そういう小さな動作ばかりが、祖母の輪郭として残っている。
「透子、そこにいると煙が行くよ」
父が言った。
「うん」
「部屋へ戻ってもいい。明日も早い」
「まだ寝ない」
「そうか」
父はそれ以上、私を見なかった。湯呑みを持ち上げ、冷めた茶を一口飲む。煙草の灰が長く伸びているのに、灰皿へ落とそうともしない。私はその灰の先を見ながら、父が今夜一度も祖母の名前を口にしていないことに気づいた。
七回忌なのに。
代わりに、父は何度も仏壇の灯を見ていた。火が揺れるたび、何かを数えるように目を細める。灯明台の油を確かめ、香炉の灰を整え、遺影の額が少し傾いていると指で直した。
整えているというより、乱れを見つけるたびに手を伸ばしているようだった。
私は立ち上がった。
「縁側に出る」
「蚊がいるぞ」
「煙草の煙よりはいい」
父は返事をしなかった。私が廊下へ出ると、背中に視線が残った。振り返らなくても分かった。父はまだ私を見ている。
廊下の板は、昼間の熱をすっかり失っていた。
裸足で歩くと、冷たさが足の裏から膝の辺りまで細く上がってくる。私は一歩ごとに、板の鳴る場所を避けた。古い家では、同じ廊下でも音のする板としない板がある。子どものころ、祖母に教えられた。廊下の中央にある三枚目は踏まないこと。夜は、音が遠くまで行くから。
その癖が今も残っている。
縁側へ続く障子の前で、私は一度だけ息を止めた。祖母の部屋へ入る前にも、いつもそうしていた。敷居の向こうの空気を確かめるように。
障子を開ける。
夜が家の中へ流れ込んできた。
湿った風が頬を撫で、髪の間へ入り込む。庭の土は昼の雨を含んでいるらしく、青い草と濡れた木の匂いがした。縁側の板へ足を置くと、冷気が直接、素足の指の間へ刺さってくる。
外は暗かった。
縁側の端にある裸電球だけが、庭の一部を黄色く照らしている。光の外側では、柿の木の葉が重なり、黒い塊になっていた。風が吹くたび、葉の裏が白く返る。そのたびに、誰かの手が木の陰で動いているように見えた。
私は縁側に腰を下ろした。
遠くで蛙が鳴いた。すぐに別の場所から返事があり、それも途切れた。集落の家々には明かりが残っているはずなのに、人の声は聞こえない。夏の夜は、蝉が止むと一気に音を失う。昔から知っていたことなのに、今夜の静けさは、何かを待っているように感じられた。
仏間から、線香の匂いが流れてきた。
白い煙が、障子の隙間を抜けて縁側まで伸びている。煙は風に散らず、低いところを這うように板の上を進んでいた。私は手を伸ばしかけて、やめた。指先に触れる前から、その煙の重さが分かる気がした。
そのときだった。
裸電球の明かりの端に、見知らぬ草履があった。
二足。
玄関から縁側へ上がるための沓脱ぎ石の脇ではない。縁側の中央、庭へ下りるための踏み石から少し離れた場所に、並べて置かれている。
泥がついていなかった。
鼻緒も、編み込まれた藁の表面も乾いている。外から歩いてきた履物なら、庭の湿った土がどこかに付くはずだった。けれど、草履は新しいわけでもないのに、土の気配だけをきれいに欠いていた。
私はすぐには近づかなかった。
まず位置を見た。
二足の間隔は、私の手のひらより少し広い。鼻緒は室内へ向けられている。庭へ出るためではない。誰かがこれから家へ上がるために、足を差し込みやすい向きに揃えられている。
背中が冷えた。
庭から風が入ったのではない。板の上に置かれた草履を見ているだけなのに、皮膚の内側へ冷たいものが触れた。
私は膝をつき、草履との距離を測るように手を伸ばした。触れる直前で指を止める。編み目の一本一本が見えた。左右の草履はよく似ているが、右の方だけ、鼻緒の根元に白い糸が巻かれている。
見覚えがあった。
祖母の納戸に、同じような草履があった気がする。子どものころ、庭で遊んでいた私がそれを履こうとすると、祖母は急に声を荒げた。
「それは駄目」
珍しく、強い声だった。
私は驚いて手を離した。祖母はすぐに私の手を取り、何もなかったように笑った。
「透子の足には大きすぎるからね。転んだら危ないよ」
その草履が誰のものだったのか、私は聞かなかった。聞かないことに慣れていた。
背後で、板が鳴った。
ひとつ。
私は振り返らずに、音の位置だけを確かめた。廊下の途中。私から三歩ほど離れた場所。人が立っているなら、板の沈み方がもう少し深くなるはずだった。けれど音は、誰かが足を置いたというより、そこにあるはずのない重さが一度だけ触れたように響いた。
続く音を待った。
何も聞こえない。
私はゆっくり振り返った。
廊下には誰もいなかった。開け放った障子の向こうに仏間の灯が見え、父の影が壁に揺れている。父はまだ座っているらしい。叔父たちの話し声が低く続いていた。
私は草履へ視線を戻した。
さっきより近くにあるように見えた。
実際には動いていない。裸電球の光が少し揺れ、影の位置が変わっただけだ。そう思おうとしたが、草履の片方に付いた白い糸が、先ほどよりはっきり見えた。
そのとき、背後から父の声がした。
「誰か来たのか」
声は低かった。
問いかけの形をしているのに、確認するための声ではなかった。答えを聞く前に、違うと決めたい声だった。
私は草履から目を離さずに答えた。
「来た気配はないよ」
「じゃあ、誰が置いた」
「それを聞いてる」
「親戚の誰かが、外へ出たんだろう」
「食事のあと、みんな台所か仏間にいた。私は見ていた」
「ずっと見ていたわけじゃない」
「でも、誰かが庭から入ってきた音はしなかった」
父は縁側へ出てきた。
足音が二つ続いた。父は家の傷んだ場所を知っているから、音の出る板を避けて歩く。けれど今夜は、わざと音を立てているように聞こえた。私に、後ろに誰もいないと知らせるためかもしれない。
父は私の隣に立ち、草履を見下ろした。
顔色は変わらなかった。
ただ、右手が袖の中で握られた。手のひらを押しつぶすような、いつもの癖だった。
「誰のだろうね」
「知らない」
「知らない草履が家にあるのは、おかしいだろう」
「だから聞いている」
「明日、親戚に確認すればいい。誰かの間違いかもしれない」
「間違いなら、玄関に置くよ」
「縁側へ出た人が、そのまま置いただけだ」
「鼻緒の向きまで揃えて?」
「几帳面な人もいる」
「お父さんみたいに?」
父は答えなかった。
私は草履の前でしゃがんだまま、父の顔を見上げた。父は私の目ではなく、草履の編み目を見ている。その視線には、驚きよりも記憶を探る色があった。
「これ、昔から家にあったもの?」
「そんなものは知らない」
「今、見てから答えたよね」
「見れば分かることもある」
「分かったことは?」
「透子」
「誰の草履なの」
父はゆっくり息を吐いた。
「人のものだろう」
「名前を聞いているの」
「知らないと言っている」
「白石縁という人は?」
その名を口にした瞬間、仏間の話し声が止まった。
台所から水の流れる音だけが聞こえる。父は私を見なかった。草履からも目を逸らし、庭の暗がりへ顔を向けた。まるで、私の声が家の中の誰かへ届かないようにするためだった。
「どこでその名前を聞いた」
「まだ聞いていない。だから聞いている」
「透子」
「帳面に書いてあったの?」
自分でも、なぜその名前が口から出たのか分からなかった。裁縫箱の底にあったメモ。祖母の強い筆圧。押し入れの下から流れてきた線香の煙。どれも白石縁という名と直接つながってはいない。
けれど父の沈黙が、名前の輪郭をはっきりさせた。
「誰から聞いた」
「お父さんがそういう顔をしたから」
「顔で人の名前を決めつけるな」
「じゃあ、違うと言って」
「何が」
「白石縁という人を知らない、と」
父は返事をしなかった。
その沈黙は、仏間で多恵が黙ったときとは違っていた。多恵の沈黙には、紙の折り目のような迷いがあった。何をどの順番で渡すか、傷つけずに済む言葉があるかを探している沈黙だった。
父の沈黙は、戸だった。
向こう側へ行かせないために、固く閉じる沈黙。
「父さん」
仏間から叔父の声がした。
「何でもない」
父はすぐに答えた。続けて、私へ顔を向ける。
「今の話は、ここですることじゃない」
「どこでするの」
「明日だ」
「明日になれば話せる?」
「落ち着いてからだ」
「落ち着くのを待っていたら、何年経つの」
「七回忌の夜に、死んだ人間の名前を出して、家の中を騒がせたいのか」
「死んだ人なの?」
父の口元がわずかに動いた。
否定するには遅く、肯定するには短い動きだった。
「白石縁は、死んだの?」
「知らない」
「知っている顔をしている」
「おまえは何も知らないから、そう見えるだけだ」
「何も知らないままにしているのは、私じゃない」
声が少し震えた。怒りなのか、怖さなのか、自分でも判別できない。縁側の板が冷たく、膝から下の感覚が薄れていた。私は指先を擦った。爪の先が皮膚を掻く。
父はそれを見ていた。
「家には、知らなくていいことがある」
「それは、誰かが傷ついたことも?」
「そういう言い方をするな」
「どういう言い方ならいいの。昔のことだから仕方ない、とか。家を守るためだった、とか。祖母は優しい人だったから、きっと理由があった、とか」
父の顔が初めてこちらを向いた。
「母さんのことを、何も知らないおまえが言うな」
「何も知らないようにされたんだよ」
「おまえを守るためだ」
「守ったのは私? それとも、家のほう?」
父は黙った。
縁側の灯が、ふいに大きく揺れた。風はない。庭の葉も動いていない。それなのに、黄色い光だけが横へ押され、草履の影が畳の上まで伸びた。
影は二足分ではなかった。
草履の間に、裸足の足跡のような黒い染みが一つ、伸びていた。
私は息を止めた。
父も見たはずだった。けれど、父はすぐに踵を返し、縁側の端に置いてあった箒を手に取った。
「こんなところに置くから、誰かが引っかける」
父は草履へ手を伸ばした。
「触らないで」
私が言うと、父の手が止まった。
「何を怖がっている」
「怖がってない」
「なら、片づけるだけだ」
「どこへ?」
「玄関だ」
「玄関へ持っていくの?」
「置き場所が違うからな」
「誰かが家へ上がる向きにしてあるのに?」
父は箒を持ったまま、草履を見下ろしていた。表情は穏やかだったが、手のひらが震えている。
「履物は、玄関にあるものだ」
「じゃあ、どうしてここにあるの」
「誰かが間違えた」
「誰が」
「知らない」
「またそれ?」
父は箒の柄を握り直した。
「透子。家の中には、片づけたほうがいいものがある。見つけたからといって、全部を手に取る必要はない。触らずに、元の場所へ戻すことも大事なんだ」
「元の場所って、ここじゃないの」
「違う」
「違わないよ」
私は草履の鼻緒を見た。室内へ向けられた二足の先が、まっすぐ父の背中を指している。いや、父ではない。家の奥、仏間のさらに向こうにある、閉じた押し入れの方角だった。
草履は外から誰かを迎えるのではない。
すでに家の中にいる何かを、ここへ導くために揃えられている。
そう思った瞬間、仏間から多恵の声がした。
「恒一。触らないで」
父が振り返る。
多恵は廊下の端に立っていた。いつからそこにいたのか分からない。手には何も持っていない。眼鏡の奥の目が、草履ではなく、父の手元を見ていた。
「多恵さんまで、何を言っている」
「それは、玄関へ持っていくものじゃないよ」
「じゃあ、ここに置いておくのか」
「今夜はね」
「誰かが転ぶ」
「誰も転ばない」
「そんなことは分からないだろう」
「分かるよ。これを踏む人は、この家にはいないから」
父は箒を下ろした。
私は多恵を見た。多恵は私の視線に気づいていたが、すぐにはこちらを見なかった。代わりに縁側へ上がり、草履の脇へ膝をつく。指先で右の鼻緒を直した。ほんの少し、向きを変える。
今度は鼻緒の先が、庭ではなく仏間へ向いた。
「どうして知っているの」
私が聞くと、多恵は草履から手を離した。
「知っているわけじゃない」
「でも、驚かなかった」
「驚くより先に、思い出したんだよ」
「何を」
「昔も、同じように置かれたことがある」
父が息を吸った。
「多恵さん」
「七回忌の夜だったよ」
「やめてくれ」
「三十年以上前の話だ。もう誰も覚えていないと思っていた。でも、物の置き方は覚えている。人は忘れたふりができるけれど、手つきまでは消えない」
多恵は草履の編み目に触れた。
「この草履は、誰かが帰ってきた印じゃない。帰れなかった人が、もう一度ここへ来るための印だよ」
「迷信だ」
父の声が荒くなった。
大きな声ではなかった。それでも、仏間の灯が震えるほど、抑え込まれた怒りが混じっていた。
「そんなものを透子に聞かせるな。七回忌の夜に、家を不安にさせるような話をするな」
「不安なのは話のせいじゃない」
多恵は父を見た。
「恒一。あんたはこの草履を見て、誰のものか分かった。透子が名前を出す前から、分かっていたんだろう」
「知らないと言った」
「知っている人間の言い方だったよ」
「母さんの七回忌だ。ここで家族を責め合うつもりか」
「責めるのは、あんたたちがずっと閉めてきた戸だよ。私たちはその戸の前に立っているだけだ」
「多恵さん」
「白石さんを追い出した夜、あんたは玄関にいた。私は台所にいた。姉さんは迎えの間の戸を閉めた。誰も手を出していないと言いたいかもしれない。でも、誰も止めなかった。誰も名前を呼ばなかった。あの人の草履を縁側に残したまま、戸を閉めた。それで十分だったんだよ」
父は何も言わなかった。
私は草履を見た。
編み目の間に泥はない。けれど、その乾いた清潔さが、ひどく残酷に見えた。外へ出された人間が、家の中に何も持ち出せなかったということ。履物さえ、置いていかなければならなかったということ。
「白石縁は、何をされたの」
私が尋ねると、父はようやく私を見た。
その顔には怒りも、いつもの穏やかさもなかった。長いあいだ使われていなかった部屋の戸を、内側から押さえている人の顔だった。
「透子。今夜は、もう寝なさい」
「答えて」
「明日、話す」
「明日になれば、また片づけるでしょう」
「子どもが口を挟むことじゃない」
「私は子どもじゃない」
「家のことだ」
「だから聞いている」
父は私の肩口へ視線を落とした。目を合わせないまま、低く言った。
「家を守るには、誰かが嫌われる役を引き受けなければならないことがある」
「その役を引き受けたのは、誰?」
「私だ」
「白石縁を追い出したのも?」
「家族を守るためだった」
「祖母を守るため?」
「この家を守るためだ」
「じゃあ、白石縁は?」
父は答えなかった。
「白石縁は、守らなくてよかったの?」
その言葉のあと、庭の奥で何かが擦れた。
草の間を、裸足で歩くような音だった。
さっ、さっ、と湿った足の裏が土を押す。庭から縁側へ近づいてくる。私は音の方向を見た。裸電球の届かない暗がりに、人の姿はない。柿の葉が重なっているだけだった。
父は箒を握り直した。
多恵は息を止めている。
足音が、庭石のところで止まった。
次に、縁側の下で板が軋んだ。
一枚。
すぐそばで、もう一枚。
私は立ち上がれなかった。冷たい板が素足に張りついている。線香の匂いが急に濃くなり、湿った布を口元へ押し当てられたように息が苦しくなった。
障子の向こう、仏間の灯が細く揺れた。
白い煙が、今度は仏間からではなく、庭の暗がりから流れてきた。風に乗った煙ではない。地面すれすれを這い、縁側の板を撫で、置かれた草履の間へ入り込んでいく。
草履の鼻緒が、かすかに擦れた。
誰も触れていない。
それでも二足は、ほんの少しだけ前へ進んだ。
家の中へ上がるために。
父が呟いた。
「帰ってきたのか」
その声を聞いて、私は初めて分かった。
父は草履の持ち主を知らないのではない。
帰ってくることを、ずっと恐れていたのだ。
廊下の奥で、湿った裸足の足音がした。
今度は庭ではなかった。
家の中からだった。
一歩。
間を置いて、もう一歩。
誰かが、すでに上がっている。
私は草履を見つめた。二足は縁側にきれいに揃ったまま、家の奥へ向けられていた。
迎え入れるために。
あるいは、家の中にいる者を、外へ出さないために。
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