第2話 仏間の温度

玄関の戸を開けると、家の中から冷たい空気が流れてきた。
外はまだ夏の夕方だった。車を降りたときには、庭の柿の葉が西日に照らされ、蝉の声も途切れずに聞こえていた。それなのに、土間へ一歩入っただけで、足の裏から冷えが上がってくる。湿った木の匂いと、長く閉め切った押し入れのような空気が、裸足の指の間にまとわりついた。
「靴、そこへ置け」
父は私のキャリーケースを上がり框の脇へ寄せながら言った。
「分かってる」
「揃えてな」
「子どもじゃないんだから」
そう返したものの、私は靴の向きを直した。つま先を外へ向け、左右の間隔を手のひら一枚分にする。祖母がいつもそうしていた。家に上がるときも、帰るときも、履物を乱したままにしておくと、次に出ていく人が迷うのだと教えられた。
父はその様子を見ていたが、何も言わなかった。代わりに、玄関脇の戸締まりを確かめた。鍵を回し、いったん手を離し、それからもう一度、同じ動作を繰り返す。
「誰か来てるの?」
「多恵おばさんが先に来ている。ほかはまだだ」
「三輪さんは?」
「法要には来る。今は畑じゃないか」
父はそこで口を閉じた。
家に着くまで聞こえなかったものが、家の中へ入ると急に聞こえはじめた。柱の中で木が縮む音。どこか遠くで、水滴が一つ落ちる音。台所から漂う茶葉の匂い。そのどれも、幼いころから知っている音と匂いだったが、重なり方だけが違っていた。
仏間の襖は半分開いていた。
中へ入ると、最初に目に入ったのは祖母の遺影だった。写真の中の祖母は、少し口元を緩めている。笑っているようにも、何かを言いかけているようにも見える表情だった。私はその前で立ち止まり、遺影の額縁に積もった細かな埃を見た。
七回忌の灯が、遺影の前で小さく燃えていた。
火はまっすぐではなかった。芯の先が何度も左右へ揺れ、そのたびに影が祖母の頬を横切る。遺影の中の顔が、笑っているのか、目を伏せているのか分からなくなる。
「まず手を合わせろ」
父が背後から言った。
「うん」
私は仏壇の前に座った。畳には、昼間の湿気がまだ残っていた。膝をつくと、衣服越しにじわりと冷たさが伝わってくる。
香炉の中へ線香を立てる。火を消した瞬間、白い煙が細く上がった。けれど、途中で流れが止まった。煙は仏壇の前に低く滞り、薄い布のように私の顔へ寄ってくる。鼻の奥が重くなった。線香の匂いに、濡れた土と古い畳の臭いが混じっている。
私は目を閉じた。
祖母の声を思い出そうとした。けれど、浮かんだのは声ではなく、梅干しの酸っぱさだった。縁側で食べた白米の硬い粒。祖母の膝に置かれた小さな裁縫箱。針山に並んだ赤や青の糸。何かを尋ねたとき、祖母がすぐには答えず、先に湯呑みへ冷たい水を注いでくれたこと。
水を飲ませることで、祖母は私を黙らせたのではなかった。
私が何を聞こうとしているのか、言葉になるまで待っていたのだと思う。
目を開けると、仏間の隅で多恵おばさんが遺品の箱を並べていた。七十を過ぎても背筋は曲がらず、薄い灰色の髪を後ろでまとめている。箱を一つ開けては中身を確認し、古い布巾で表面を拭き、種類ごとに分けていく。写真は写真、手紙は手紙、使い道の分からない小物は小物で、畳の上に等間隔に置かれていた。
「多恵おばさん」
私が声をかけると、多恵は手を止めずに答えた。
「長旅だったね。顔が少し細くなった」
「そうかな」
「東京でちゃんと食べている人の顔じゃないよ」
「食べてるよ。お父さんにも言われた」
「恒一は、何でも食べたか食べないかで話を終わらせるから」
多恵は小さく笑った。けれど、その笑いはすぐに消えた。箱の中から、薄い木の蓋がついた裁縫箱を取り出し、私の方へ滑らせる。
「これは透子が持って帰るといい」
私は箱を受け取った。角が擦れて白くなっている。蓋には、祖母が自分で貼ったらしい小さな花模様の紙が残っていた。
「おばあちゃんの?」
「そう。あんたが小さいころ、針を触りたがってね。危ないから触るなと言われて、余計に触りたがった」
「覚えてない」
「覚えていなくても、手は覚えているかもしれないよ」
多恵はそう言って、蓋を開けるよう促した。
中には、折れた針が何本か、使いかけの糸巻き、錆びた指ぬき、それから小さな鋏が入っていた。底には古い布が敷かれている。梅干しのような酸っぱい匂いが、ふっと立ち上った。私はその匂いに覚えがあった。祖母が縁側で使っていた布巾の匂いだ。乾かしても消えなかった、米と木と線香の混じった匂い。
布の端を持ち上げると、折り畳まれた紙が出てきた。
「それ、まだ残っていたんだね」
多恵の声が低くなった。
「知ってるの?」
「知っているというほどではないよ。おばあちゃんが、捨てずに置いていたのは知っていた」
私は紙を開いた。
醤油。豆腐。白米。線香。
以前、手帳に写した買い物メモと同じ文字だった。けれど、こちらはもっと古い。紙の端が黄ばんでいて、最後の「香」の字だけ、墨が深く沈んでいる。筆の先が紙を破りそうなほど強く押しつけられていた。
「買い物のメモでしょう」
父が後ろから覗き込んだ。
いつの間にか、父は仏間の入口に立っていた。手には盆があり、湯呑みが三つ載っている。仏間へ入る前に、障子の桟を見て、それから私の手元へ視線を落とした。
「そう見えるけど」
「そうなんだろう」
「最後の字だけ、変じゃない?」
「急いでいたんじゃないか」
「何を急いでいたの」
私が尋ねると、父は答えなかった。
湯呑みを一つ、多恵の前へ置く。もう一つを私の前へ置き、最後の一つを自分の膝元へ引いた。茶の表面には細かな泡が浮いていた。父は座るなり、湯呑みを指で回した。何度も同じ場所を撫でるように。
「七回忌の前に、妙なことを考えるな」
「妙なことって?」
「昔のメモを見て、意味を探そうとすることだ。書いた本人がいないんだから、確かめようがない」
「おばあちゃんがいないから、確かめなくていいの?」
「そうは言っていない」
「でも、聞くなと言っているように聞こえる」
父は私の目を見ず、遺影の横にある障子を見た。
「透子。法要は、死んだ人間をきれいにするためのものじゃない。残った人間が、ちゃんと区切りをつけるためにやるものだ。余計なことを掘り返せば、区切りがつかなくなる」
「区切りって、誰が決めるの」
「家族で決める」
「家族が決めたら、他の人のことも終わりにできるの?」
言葉が畳へ落ちた。
父の手が、袖の中で固く握られた。けれど、声は穏やかなままだった。
「誰の話をしている」
「誰の話か、私には分からないから聞いているの」
「分からないことを、分からないままにしておくのも大人の判断だ」
「私はもう子どもじゃないよ」
「だから言っている。大人になれば、全部を知ることが正しいわけじゃないと分かる」
「知ることが正しいかどうかじゃない。知らないふりをしていることが、正しいのかを聞いているの」
父はしばらく黙っていた。
仏壇の灯が揺れ、線香の煙が低く横へ流れた。煙の向かった先には、仏間の奥の押し入れがある。襖は閉まっている。ほかの襖より少しだけ色が濃く、取っ手の周りだけ木が黒ずんでいた。
多恵がその襖を見た。
見たあと、裁縫箱の中の糸を一本ずつ揃えはじめた。
「透子」
多恵の声は、父よりさらに静かだった。
「今すぐ答えを出そうとしなくていい。ただ、疑問を持ったことまで、なかったことにしないで」
父が振り向いた。
「多恵さん」
「何」
「法要の日に、そういう話をするのはやめてくれ」
「法要の日だから、しているんだよ」
多恵は糸巻きを箱の中へ戻した。赤、白、紺、茶。並びを一度確かめてから、蓋を閉じる。
「七年も経った。もう、時間が解決してくれると思うのはやめなさい。時間は何も片づけない。紙を湿らせるだけ。文字を薄くするだけ。読めなくなったからといって、書かれていなかったことにはならない」
「母さんの七回忌だ」
父の声に、初めて硬いものが混じった。
「母さんを悼む場で、母さんを悪者にする話をするのか」
「悪者にしたいわけじゃない」
「なら、なぜ掘り返す」
「悪者にしたくないからだよ」
多恵は父を見た。
「優しい人だった、で終わらせたくない。優しい人でも、見なかったことにしたなら、その分の責任は残る。死んだ人に責任を取らせられないから、残った者が覚えておくしかないんだよ」
父は湯呑みを置いた。底が畳に触れる音が、妙に大きく響いた。
「母さんは、家を守った」
「そうだね」
「この家を残した。おまえたちが帰ってこられる場所を守った」
「それも本当だね」
「だったら、それでいいじゃないか」
「よくないことが一つ混じっていても?」
多恵の問いに、父は答えなかった。
私は膝の上の紙を見つめた。最後の「香」の字だけが、ほかの文字より濃い。線香を買い忘れないために力を込めたのかもしれない。あるいは、線香を買わなければならない理由が、ほかにあったのかもしれない。
そのとき、仏間の奥で小さな音がした。
畳が一枚、誰かの重みを受けたように沈む音だった。
父の肩がわずかに上がった。
多恵の指が止まった。
私は押し入れの襖を見た。閉じたままの木の面に、障子越しの光が細く差している。その光の中を、白い煙がゆっくり横切った。煙は香炉から出たものではなかった。仏壇の前からではなく、襖の下の隙間から流れてきたように見えた。
「今の、何?」
私が聞くと、父はすぐに立ち上がった。
「古い家だからな。木が動いただけだ」
「畳の音だった」
「同じことだ」
「違うよ」
父は返事の代わりに、仏間の灯明台へ手を伸ばした。火が消えかけていたので、芯を整え、油を足す。指先は慣れていたが、蓋を閉める動作だけが乱れた。
灯が明るくなる。
その瞬間、押し入れの襖の向こうに、誰かの足先があるように見えた。
裸足だった。
私は息を止めた。足の形ははっきりしない。暗い染みが、襖の下からわずかに覗いているだけだった。目を瞬くと、それはただの影になった。
「透子」
父が私を呼んだ。
振り返ると、父の顔はすでにいつもの穏やかさへ戻っていた。ただ、膝に置いた手のひらが、白くなるほど強く押しつけられている。
「今日は疲れている。荷物を置いて、風呂に入って寝なさい」
「お父さん」
「何だ」
「あの押し入れ、何が入っているの」
父は一拍置いた。
「古い布団と、使っていない道具だ」
「それだけ?」
「それだけだ」
言葉は短かった。短いからこそ、戸を閉める音に似ていた。
多恵は立ち上がり、裁縫箱を私の手元から取り上げた。蓋の上に、先ほどの買い物メモをそっと置く。
「これは私が預かる」
「どうして」
「紙が傷むから」
「私が持っていたら傷むの?」
「持っていることが悪いんじゃない。今のあんたは、何でも急いで確かめようとしている。急いで触ると、紙も人も破れる」
多恵はメモを折り、裁縫箱の底へ戻した。
「今夜は、ここに置いておきなさい」
私は反論しようとした。けれど、仏間にこもった線香の匂いが急に濃くなった。鼻の奥から喉へ落ちてくる。息を吸うたび、湿った夜気ではなく、古い誰かの衣服を吸い込んでいるようだった。
遺影の前の灯が、ふっと傾いた。
火が消えることはなかった。ただ、炎の先が押し入れの方へ向いた。
そのとき、家の奥で、また畳が鳴った。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
父は聞こえなかったふりをして、仏間の襖を閉めた。
閉める直前、襖の向こうから、濡れた足の裏が板を離すような音がした。誰かが立ち上がり、こちらへ歩き出したように聞こえた。
私はその音を聞きながら、祖母の言葉を思い出していた。
家は、音を覚えている。
そして、覚えた音を、いつか持ち主へ返すのかもしれなかった。
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