1話 帰省の車窓

東京を出て一時間ほどすると、電車の窓に映るものが変わりはじめた。

ビルの壁面が途切れ、低い家々の屋根が増えた。やがて線路は川に沿い、濁った水面と、崩れた法面を縫うように山の中へ入っていく。窓を少し開けることはできなかった。冷房が効きすぎていて、腕に鳥肌が立っている。それでも私は額が触れそうなほど窓へ身を寄せていた。

外の景色を見ているふりをして、戻っていく場所から目を逸らしたかった。

膝の上には、小さな布袋がある。生成りの布に、祖母が昔使っていた糸で梅の花が刺してある。中身は何も入っていない。帰省のたび、祖母が帰り際に飴や乾いた梅を詰めてくれた袋だった。今は指先で押すと、布の内側から古い木と米と、わずかに線香の匂いがした。

もう七年になる。

その数字を思い浮かべても、祖母の死は遠い出来事のままだった。葬式の日に降っていた雨や、病院の白い廊下は覚えている。けれど、祖母が最後に何を言ったのかは思い出せない。私が聞き取れなかったのか、家族が聞かせなかったのか、その区別さえつかなかった。

線香の匂いを思い出そうとすると、先に別の感覚が戻ってくる。

夕方の冷え方だった。

夏なのに、柊家の廊下だけは早く夜になる。蝉が盛んに鳴いている庭から座敷へ入ると、音が一枚の障子を隔てたように遠のく。幼い私は、何度もその変化に気づいた。気づくたび、祖母の袖を探した。

「透子、そんなところで立っていると、足が冷えるよ」

祖母はいつもそう言った。何が怖いのかとは聞かなかった。ただ、私の手を取り、台所へ連れていった。少し硬めに炊いた白米を小さな茶碗によそい、梅干しをひとつ載せてくれた。

「家はね、音を覚えているんだよ」

梅干しの種を箸でつつきながら、祖母はそう言った。

「だから、静かなときほど、変な音を立てちゃいけない」

子どもの私は、それを古い家の作法だと思っていた。東京へ出て、いくつもの部屋を借りて暮らしてからも、帰省すると足音を殺す癖だけが残った。意味のない癖だと笑ったこともある。けれど、笑うたびに、あの家の奥にある冷たさが、胸のどこかで薄く目を開けた。

電車がトンネルに入った。

窓の外が黒くなり、車内の照明がガラスに映る。向かいの席には、買い物袋を抱えた女性が眠っている。通路の先で、男子学生がイヤホンを外し、何かを確かめるように車内を見回した。

何も起きていない。

それなのに、トンネルの壁を走る光の間隔が、誰かの足音に似て聞こえた。

ひとつ。

少し間を置いて、もうひとつ。

私は布袋を握った。爪が手のひらに食い込む。音は電車の継ぎ目が立てる振動だと分かっていた。それでも、聞こえるたびに、幼いころの廊下が浮かんだ。暗い廊下の先で、裸足が畳を擦る音。祖母が私の肩を抱き、仏間の方を見ないようにしていた夜。

あのとき、誰かが家の中を歩いていた。

そう思った記憶だけが残っている。

誰だったのかを尋ねたことはない。尋ねようとすると、父が別の話を始めた。母が食器を片づけた。祖母だけがしばらく黙り、それから私の前に冷たい水を置いた。

水を飲むと、祖母は決まって「もう大丈夫」と言った。

大丈夫という言葉を、私は信じたかった。

トンネルを抜けると、山の斜面に夕陽が引っかかっていた。雲の切れ目から差した光が、稲の水面を一枚ずつ赤くしている。都市では夕方も人の声や車の音に埋もれていたが、こちらでは光が薄くなるほど世界から余計なものが剥がれていくようだった。

私は手帳を開いた。

最後の頁には、祖母の買い物メモを写してある。

醤油。豆腐。白米。線香。

丸みを帯びた文字の中で、「線香」だけが少し右へ傾いていた。買う物を並べただけのメモなのに、そこだけ急いで書かれたように見える。字の下には、消しゴムで何度も擦った跡があった。私は指の腹で紙を撫で、消えた文字の形を探した。

何か書いてあった。

けれど、何があったのかは分からない。

分からないまま、私は七年間この頁を持っていた。祖母の死後、母の引き出しから見つけ、捨てられずに手帳へ挟んだ。聞けばよかったのだと思う。父にでも、多恵おばさんにでも。けれど、聞くということは、家族が話さないと決めたものの前へ、自分から立つことだった。

私は手帳を閉じた。

向かいの女性が目を覚まし、窓の外を見た。山の影がすでに濃くなっている。

「次、山ノ口です」

車内放送が流れた。

その駅名を聞いたとき、胸の奥に細い糸を引かれたような感覚があった。帰りたいわけではない。帰りたくないわけでもない。ただ、戻るしかない場所へ近づいている。

山ノ口駅は、ホームの片側にしか屋根がなかった。降りたのは私を含めて三人だけだった。電車が去ると、風が急に広くなった。線路の向こうに杉林があり、夕暮れの中で幹が黒く並んでいる。駅員の姿は見えなかった。遠くでカラスが一度鳴き、すぐに声を失った。

「透子」

階段の下から父の声がした。

恒一は、古い革の鞄を片手に持って立っていた。白いシャツの袖を肘までまくり、もう片方の手で車の鍵を握っている。私の荷物に気づくと、何も言わずに階段を上がり、キャリーケースを受け取った。

「持てるよ」

「いい。道、悪いから」

「道が悪いのは荷物じゃなくて、駅の階段でしょう」

私が言うと、父は笑ったような、咳をしたような顔になった。

「東京では、そういう言い方をするのか」

「東京のせいにしないで」

「そうだな」

父はキャリーケースを引いた。車輪が古い舗装の継ぎ目に当たるたび、がた、と音を立てる。私たちは並んで歩いたが、父は家のことを話さなかった。法要の時間も、泊まる部屋も、親戚が何人来るのかも、あらかじめ母から聞いているらしかった。

駅前の小さな商店は閉まっていた。軒先に吊るされた風鈴だけが、風もないのにかすかに鳴っている。

「おばあちゃんの部屋、まだそのまま?」

車のドアを開ける前に、私は尋ねた。

父の手が止まった。

「そのままというほどじゃない。布団や衣類は片づけた」

「部屋は?」

「使っていない」

「明日、見てもいい?」

「見て、どうする」

父は私を見なかった。車の屋根越しに、暗くなりかけた杉林を見ている。

「どうもしないよ。おばあちゃんのものを見たいだけ」

「七回忌に来て、最初にすることがそれか」

「最初じゃない。法要のあと」

「同じことだ」

父の声は穏やかだった。穏やかすぎて、その中にある拒絶がよく分かった。私は襟元に触れかけた指を膝の横へ戻した。

「お父さんは、見たくないの」

「何を」

「おばあちゃんの部屋を」

「見たって、死んだ人が戻るわけじゃない」

「戻るなんて言ってない」

「そういう話をしたいんじゃない」

父はようやく私を見た。目の下に、眠れていない人の薄い影があった。

「透子。明日は人が来る。おまえは久しぶりに帰ってきたんだから、余計なことを考えずに、手伝えることだけ手伝えばいい。母さんのことは、もう十分だろう」

もう十分。

その言葉が、線香の匂いより先に鼻の奥へ入ってきた。

私は返事をしなかった。父はそれ以上待たず、運転席へ回った。ドアの閉まる音が、駅前の空き地に不釣り合いなほど大きく響いた。

車が山道へ入ると、窓の外はすぐに暗くなった。杉の間から見える空だけが、まだ薄い紫色を残している。父はラジオをつけなかった。エンジン音と、タイヤが小石を踏む音だけが車内に続いた。

しばらくして、父が言った。

「家に着いたら、まず仏間へ行け」

「分かってる。七回忌だから」

「そうじゃない」

父は前を見たまま、ハンドルを握り直した。

「祖母さんに挨拶をする。手を合わせて、線香をあげる。それから荷物を置け」

「それだけ?」

「それだけでいい」

街灯のない道を、車のヘッドライトが細く切り開いていく。照らされたガードレールが途切れるたび、道の端に何かが立っているように見えた。私は目を凝らした。草木の影だった。石だった。どれも、次の瞬間には暗闇へ戻った。

やがて、見慣れた屋根が杉の向こうに現れた。

黒い瓦。軒の深い座敷。庭に残る古い柿の木。縁側の端に取りつけられた、黄色い灯り。

車が門をくぐると、庭の砂利が低く鳴った。

父は車を停め、エンジンを切った。音が消えたあと、家の周りに残った静けさは、電車のトンネルで聞いたものより深かった。

「帰ってきたな」

父はそう言った。

私は返事をしながら、家の奥へ視線を向けた。

灯りのついた縁側には、何も見えなかった。けれど、障子の向こうに人が立っているような、薄い影があった。目を瞬くと消えた。

父が先に車を降り、トランクを開ける。私は布袋を握ったまま、すぐには動けなかった。

風はなかった。

それでも家のどこかで、木の板を踏む音がした。

一度。

間を置いて、もう一度。

父は聞こえなかったふりをして、私の荷物を運び出していた。

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