10話 返せぬものの名

白い布袋は、手の中でわずかに重かった。

中に何が入っているのかは、触れなくても分かるような気がした。紙の束。薄い布に包まれたもの。角のある、長いあいだ動かされなかった何か。

私は迎えの間の畳へ座り、袋の口をほどいた。

結び目は固くなっていた。爪を差し込んでも解けず、指先に古い布のざらつきが残る。多恵おばさんが隣へ座り、黙って小さな鋏を差し出した。

「切るの?」

「結び目を切るだけだよ。中身まで切らないように」

私は鋏を入れた。

糸が、乾いた音を立てて切れた。

袋の中から、封筒が三通、折り畳まれた写真が一枚、薄い革表紙の帳面が出てきた。どれも湿気を吸っていて、紙の端が波打っている。帳面の表紙には何も書かれていなかったが、開くと最初の頁に、祖母の字があった。

白石縁さんから預かった記録。

その下に、日付がある。

追い出された夜の、二日前だった。

「預かった?」

私が呟くと、多恵おばさんは帳面を覗き込んだ。

「この帳面は、姉さんが隠したんじゃない。白石さんが預けたものだったんだね」

「どうして返さなかったの」

「返せなかったんだろうね」

「返したくなかった、ではなく?」

多恵おばさんはすぐに答えなかった。紙の角を揃え、帳面の端に付いた黒い汚れを親指で擦った。

「最初は、返したくなかったのかもしれない。けれど、途中からは返せなくなった。自分が何をしたか、書かれていたから」

帳面には土地の名前と、人の名前が並んでいた。祖母の字ではない。細く、強い筆圧の文字だった。村の何軒かの家が、いつ、誰から土地を買ったのか。その売買の裏に、どんな借金や脅しがあったのか。数字と日付だけなのに、紙の上から人の息苦しさが滲んでいた。

最後の頁だけ、祖母の字だった。

この家は、縁を守るために、縁に立つ人を選んできた。

選ばれなかった者を外へ出し、外へ出したことを正しいと呼んだ。

白石さんは、私たちが見ないようにしてきたものを見ている。

だから、あの人を黙らせなければならないと思った。

ここで、私は間違えた。

私は頁を閉じた。

父は迎えの間の入口に立っていた。灯明台へ油を足したせいか、顔の片側だけが明るい。もう片側は暗く、表情が読めなかった。

「父さん」

「……読んだか」

「まだ全部は読んでいない。でも、これだけで十分分かる」

「分かるものか」

「分かるように書いてある」

父は敷居をまたがなかった。

その場所を越えれば、家を守る側ではいられなくなるとでも思っているようだった。

「白石さんは、土地の記録を持っていた。家が人から奪ったものを、証拠にしていた」

「奪ったと簡単に言うな」

「じゃあ、何と言えばいいの」

「時代が違った。事情も違った。今の物差しで測れば、何もかも悪くなる」

「悪いことを、古い物差しで測れば正しくなるの?」

父の顔が強張った。

「おまえは、何も知らないまま東京で暮らしてきた。ここで誰が誰を支えて、誰が何を諦めたかも知らない。家を残すには、綺麗なやり方だけでは無理だった」

「だから白石さんを追い出したの」

「記録を外へ出されたら、家だけじゃない。村全体が壊れた」

「壊れるべきものまで残したんじゃない」

父の視線が帳面へ落ちた。

長い沈黙のあと、父はゆっくりと迎えの間へ入った。畳が一度、鈍く軋んだ。

「白石さんは、母さんを脅していた」

「何を?」

「この記録を村に渡す、と。母さんは怖がっていた。家がなくなることを。親戚も、村の者も、みんな母さんを責めると思っていた」

「だから、脅されたと言って追い出した?」

「そうだ」

「本当に脅したの?」

父は答えなかった。

答えの代わりに、仏間の方から乾いた音がした。

草履の裏が、板を擦る音。

誰も縁側へ出ていないのに、庭へ向けて置いた二足の草履が、少しずつ近づいてくるように聞こえた。

父は目を閉じた。

「白石さんは、母さんに言ったんだ。記録を返してくれれば、誰にも見せないと。金もいらない。ただ、ここで起きたことを認めてほしい、と」

「それだけ?」

「母さんは、認めなかった」

「父さんも?」

「俺は……」

父の声が途切れた。

そのとき、封筒の一つがひとりでに開いた。

糊が剥がれたのではない。封筒の中から、紙がゆっくり押し出されてきた。

多恵おばさんが息を呑む。

私は紙を取り出した。

祖母の手紙だった。

白石さんへ。

あなたの言う通りです。

私は、あなたを追い出した夜、あなたの草履を揃えました。

あれは、帰り道を示すためではありませんでした。

あなたがもう戻れないように、家の内側へ向けました。

家に入る者の履物は、家の中を向いていなければならない。そういう作法を利用して、あなたを家の者ではないものにしました。

作法ではなく、私の恐れです。

白石さんの記録を燃やせば、家は残ると思いました。

けれど燃やせなかった。燃やせば、私が何をしたかまで消えてしまう気がしたからです。

だから、迎えの間に置きます。

誰かが見つけるまで。

私は紙を持つ手に力を込めた。

「祖母は、返すつもりだったんだ」

多恵おばさんが言った。

「いつか、誰かが見つけるように置いた」

「でも、七年も返さなかった」

父が呟いた。

「返す相手が、もういないと思っていたんだろう」

その言葉の直後、縁側から草履の音がした。

今度は遠ざかっていた。

さっ、さっ、と庭の石を撫で、二足分の音が暗がりへ消えていく。

私は立ち上がった。

縁側へ出ると、草履はなかった。

庭にも、柿の木の下にも、誰の姿も見えない。夜明け前の空が、山の向こうでわずかに薄くなっていた。

けれど、縁側の板には濡れた跡が残っていた。

二足分の足跡。

そのうち一つは、庭へ向かっている。

もう一つは、家の奥へ向かっていた。

私は振り返った。

迎えの間の畳に、裸足の跡が一つだけ残っている。

敷居の手前で止まり、そこから先へは進んでいなかった。

父が背後で息を詰める。

「まだ、帰っていないのかもしれない」

私はそう言った。

父は何も返さなかった。

手紙を封筒へ戻し、帳面を抱える。多恵おばさんは、迎えの間に残された物を一つずつ見ていた。

外では、最初の鳥が鳴いた。

朝が来れば、すべてが明るくなるわけではない。明るくなった場所で、見えてしまうものが増えるだけだ。

私は濡れた足跡の前へ座り、指で触れた。

冷たくはなかった。

むしろ、誰かの体温がまだ残っていた。

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