9話 増える草履

寺から戻ると、御堂家の縁側には、三足の草履が並んでいた。

朝、家を出るときには何もなかった。少なくとも、僕の目には何も見えなかった。けれど、夕暮れの灯りがともると、草履はそこに輪郭を持った。

一足目は、最初の夜に見たものだった。鼻緒が暗く、片方の先だけが少し外を向いている。二足目は、編み目の細かな女物に見えた。三足目は、草の色がまだ残っていて、使われてからそれほど時間が経っていないようだった。

誰のものかは分からない。

ただ、三足とも左右が正確に揃えられていた。

僕は縁側の手前で立ち止まり、数えた。

一、二、三。

視線を外し、もう一度見る。

一、二、三。

数え直すたび、板の上の静けさが薄くなった。そこにある履物が、物ではなく、何かを待つための席に見えてくる。草履は人を乗せるものではない。人がそこにいたことを、あとから残すものだ。

「帰ったのね」

背後で佳代が言った。

母は盆に湯呑みを載せ、台所から出てきた。僕の手には了賢から渡された封筒がある。祖母の字で僕の名が書かれた紙片も、その中に戻してある。母はそれを見たが、何も訊かなかった。

代わりに、縁側へ近づきかけた親族の椅子を数センチ動かした。椅子の脚が畳を擦り、乾いた音がする。

「母さん」

「お茶、飲むでしょう」

「草履が三足ある」

「見ないで」

「もう、そういう言い方はやめてよ」

母の手が止まった。

湯呑みの中で、茶の表面が揺れている。窓の外から差し込む夕方の光が、薄い水面に細長く映っていた。

「見ないでと言われて、見ないでいられるなら、僕はこんなところまで来てない」

「寺で何を聞いたの」

「夜明史郎のこと。御堂家が村から外した男のこと。祖母さんが、そのあとも縁側の手順で彼を境目に置き続けたこと」

佳代は湯呑みをひとつ、僕の前へ置いた。

「了賢さんは、あなたに何でも話したのね」

「全部じゃない。でも、母さんよりは話した」

「そう」

「祖母さんから、手紙も預かっていた」

佳代は僕を見た。

その目が初めて、草履ではなく僕の手元へ向いた。

「何て?」

「草履を揃えるのは、帰る人のため。でも祖母さんは、帰る場所をなくした人を何度も外へ置いた。あの人に返すものは、御堂家ではない。守ったことで奪った時間だって」

母の顔から、わずかに血の気が引いた。

「その先は?」

「七回忌の夜、草履を玄関へ返しなさい。誰のものかを問う前に、誰から奪ったものかを言え、と書いてあった」

佳代は湯呑みへ手を伸ばした。だが、口をつける前に、縁側の方から小さな音がした。

からん。

三足目の草履の鼻緒が、板に触れた音だった。

母は振り返らなかった。

「それは、晴江さんの最後の判断だったのね」

「母さんは知ってたの?」

「知っていたわけじゃない。たぶん、そうだと思っていた。でも、確かめるのが怖かった」

「なぜ?」

「確かめたら、私も何かを返さなければならなくなるからよ」

「何を?」

佳代は答えず、湯呑みを両手で包んだ。茶はもう冷めている。母は冷たい茶を飲み、喉を動かした。

「あなたが小さいころ、晴江さんは一度だけ、夜明家の名前を口にしたことがある」

「夜明家?」

「ええ。あなたが縁側の下へ落ちたビー玉を取ろうとして、板を跨いだときだった。晴江さんは、あなたの腕をつかんで、ひどく強く引き戻した。あなたは泣いた。私は、そんなに怒らなくてもいいのにと思った」

母は湯呑みを置いた。

「その夜、晴江さんは私に言ったの。あの子には、夜明の名を背負わせないで、と」

「僕に?」

「あなたは何も知らなかった。知らないまま、都会へ出て、ここへ戻らずに済めば、それでいいと思っていたのよ。けれど、家というものは、誰かが忘れた分を、別の誰かに背負わせるのね」

「母さんも、背負った?」

「ええ」

佳代の目が、三足の草履へ向いた。

「嫁いだとき、私は何も知らなかった。冠婚葬祭の作法を覚え、親族の席順を覚え、誰に茶を出して、誰の話を止めるかを覚えた。晴江さんは、私に何も説明しなかった。ただ、間違えた場所へ物を置くと、静かに直した。椅子の向き、箸の向き、履物の向き。私はそれを家事だと思っていた。でも違った。家の中と外を分ける練習だったのよ」

「だから、僕にも同じことをさせた」

「させたくなかった」

「でも、させた」

「そうね」

佳代は一度、深く息を吸った。

「させたくなかったから、何も教えなかった。教えなければ、あなたは使わずに済むと思ったの。けれど、知らない人間は、手順を拒むこともできない。私はあなたを守ったつもりで、選ぶ権利まで奪っていた」

母の言葉が、畳の上へ一つずつ落ちていく。

僕は封筒を握らないように、指を開いた。紙を傷めたくなかった。祖母の字も、母の声も、もう何かの形に整えてしまいたくなかった。

「叔父さんたちにも、話す」

「だめよ」

「どうして?」

「夜明の名を出せば、皆が逃げる。自分は知らなかった、自分は止められなかった、あの時は子どもだった。そう言って、ひとりずつ家の外へ出ようとするわ」

「それが悪いことなの?」

「逃げるだけならね。けれど、逃げた人間は、残った誰かに罪を置いていく。今度はあなたが、史郎さんの代わりに外へ立たされる」

「それでも、話す」

「結人。あなたは、家族を壊したいの?」

佳代の声は低かった。怒ってはいない。ただ、最後に残った頼みを差し出しているようだった。

「壊したくない」

「なら、黙って」

「それは違うよ」

僕は自分でも驚くほど、はっきり言った。

「壊したくないから、黙らない。黙っていれば、家は形だけ残る。でも、その形の中に誰かを閉じ込めたままになる。祖母さんはそれを守ることだと思った。母さんも、そう思おうとした。僕は、もうその言葉を使いたくない」

「では、何と言うの」

「弔う、と言う」

母は黙った。

「弔うって、死んだ人をきれいな場所へ置くことじゃないだろ。死んだ人が何をされたのかを、残った人間が引き受けることだと思う。史郎さんが生きているのか、死んでいるのか、僕には分からない。でも、あの人の名前が消され、暮らしが奪われ、帰る場所までなくなったことは、記録に残っている。そこを見ないで、草履だけを納戸へしまうのは、供養じゃない」

座敷の奥で、誰かが立ち上がった。

親族の叔父だった。顔は青ざめていたが、何かを決めたようには見えない。逃げ道を探している顔だった。

「佳代」

叔父が言った。

「その話は、ここでするな」

「叔父さんも知ってるんだね」

僕が向き直ると、叔父は湯呑みを持ったまま、視線を落とした。

「知っていると言えるほど、知ってはいない」

「でも、夜明の名前を口にした」

「昔、聞いただけだ。村の者が、あの家は水を濁した、御堂に楯突いた、と言っていた。俺はまだ子どもだった」

「子どもだったなら、何を覚えているの」

叔父は答えなかった。

母が、盆の上の茶碗をひとつだけ端へ寄せた。いつもの癖だった。けれど今度は、その手を僕が止めた。

「母さん、もう揃えなくていい」

佳代の指が茶碗の縁で止まる。

その瞬間、縁側の三足の草履が、同時にわずかに向きを変えた。

庭の闇から、湿った風が入ってくる。線香の煙が低く流れ、草履の鼻緒を撫でてから、座敷の奥へ向かった。誰も動かなかった。

鏡台の鏡が、縁側の灯りを映していた。

現実の縁側には三足しかない。けれど鏡の中では、さらに何足もの草履が、家の奥へ向かって並んでいる。古いもの、新しいもの、擦り切れたもの。どれも履き手の姿を持たない。ただ、そこにいた者の不在だけを形にしていた。

鏡の中の廊下の奥に、黒い影が立った。

夜明史郎の姿だと思った。

顔は見えない。肩も、胴も、光の外へ溶けている。ただ足元だけがはっきりしていた。片方の鼻緒が擦り切れた草履。右足の先が、少し外を向いている。

影は、僕を見ているようだった。

いや、僕の背後にいる家族を見ていたのかもしれない。

「返してもらう」

声がした。

誰の耳にも届いたのか、確かめる必要はなかった。叔父が湯呑みを落とし、母が息を止めた。鏡の中の影は、怒鳴らない。責めるために声を大きくしない。返してほしいものが何か、こちらがすでに知っていると思っている声だった。

「何を返せばいい」

僕は訊いた。

母が僕の袖をつかんだ。

「結人、やめなさい」

僕はその手を見た。荒れた指先。白い布巾を絞り、食器を洗い、家のあちこちを拭き続けてきた手。その手もまた、何かを返すべきなのだろう。

「僕は、もう黙らない」

鏡の中の影は動かなかった。

「名前だけじゃないんだろう。史郎さんが村から出された夜に、履いていた草履を返せば済むわけじゃない。あの人が歩けなかった道を、なくした暮らしを、誰にも呼ばれなかった時間を、御堂家が忘れないこと。それを返すんだろう」

「結人」

佳代の声がした。

僕は母を見た。

「母さんも言って。夜明史郎という人がいたことを。御堂家が、その人を外へ出したことを。誰かひとりが悪かったんじゃない。でも、誰も悪くなかったわけでもないって」

佳代の唇が震えた。

「私は……」

「母さん」

「私は、あの人を見たことがある」

佳代は、ようやく草履の方を見た。

「若い頃、晴江さんの後ろに立っていた。史郎さんは、縁側の下にいた。雨が降っていた。草履を脱いで、泥のついた足を板の手前に揃えていた。中へ入れてくれと言ったわけじゃない。ただ、話を聞いてくれ、と言った」

母は両手を膝の上へ置いた。何かを整えようとしない手だった。

「晴江さんは、話を聞いた。何も言わずに聞いて、それから、もう帰りなさいと言った。史郎さんは、帰る場所がないと言った。私は、そのとき初めて聞いたの。史郎さんの家が、もう村にないことを。家財を運び出す前に、戸を開けることさえ許されなかったことを。御堂家の裏山の件で、責任をひとりに押しつけたことを」

佳代の声は、だんだん低くなった。

「私は何も言わなかった。晴江さんが、縁側の灯りを消して、と言ったから。史郎さんは、すぐには動かなかった。自分の草履を見ていた。片方の鼻緒が切れかけていて、歩けば外れるのに、直す場所もなかった。晴江さんは、古い草履を一足、彼の前へ置いた。新しいものではなかった。御堂家の納戸にあった、誰かの履物だった」

「それを、返したの?」

「違うわ」

佳代は首を振った。

「履いて帰れ、と言ったの。ここに置かれたものを持って帰れ、と。史郎さんは、しばらくその草履を見ていた。それから言った。『これは俺のものじゃない』と。晴江さんは、『歩けるなら、それでいいでしょう』と言った」

僕の胸の奥で、何かが冷たく崩れた。

それが、草履の始まりだった。

帰るための履物ではない。帰る場所を奪った側が、歩けるふりをさせるために渡した履物。史郎が今も置いている草履は、そのとき返されなかったものなのだ。

「それから、史郎さんはどうしたの」

「歩いていったわ。雨の中を。草履は左右が合っていなかった。片方だけ、少し大きかった。だから足音が乱れていた。でも、家の者は皆、縁側の灯りの下で、草履が揃っていることだけを見ていた」

佳代の頬を、涙が一筋だけ伝った。

母はそれを拭かなかった。

「私は、晴江さんの言う通り、灯りを消した。史郎さんの姿が見えなくなれば、家の中へ戻れると思った。そうしたら、鏡台の中に、草履だけが映った。あれから毎年、七回忌の夜になると、履物が増えた。晴江さんは札を貼り、縁側を掃き、誰にも話さずに手順を繰り返した。私はそれを手伝った。何度も、何度も」

「だから、今夜も」

「ええ。あなたが寺から戻る前に、草履が三足になったとき、私はもう分かっていた。次は、玄関へ返す夜だと」

鏡の中の影が、ゆっくり一歩下がった。

現実の草履の前に、濡れた足跡がひとつ現れた。縁側から座敷へ向かっている。けれど、それは畳へ上がる手前で止まった。

僕は封じ札を古布から取り出した。

白い紙の中央に、灰色の筋が浮かんでいる。文字のようでもあり、濡れた指でなぞった跡のようでもあった。

「結人、札を使って」

佳代が言った。

「何のために?」

「これ以上、家の中へ入れないために」

「また閉じるの?」

「今度だけは、違う。札を縁側の灯りに貼って、草履を玄関へ返すの。そうすれば、境目を戻せる」

「罪も一緒に閉じるんじゃないの」

「閉じない」

母は首を振った。

「私が、口にするから。史郎さんの名を。私が見たことを。私が黙ったことを。札は、あの人を閉じるためではなく、これ以上、誰かの記憶を踏みつけさせないために使う」

「それで、史郎さんは帰るの?」

「分からないわ」

「また、分からないんだね」

「ええ。でも、分からないままでも、やるしかないことはあるでしょう」

佳代は立ち上がった。

今までなら、僕の前に立って道を塞いだはずの母が、縁側へ向かって歩き出した。足元の境目で一度止まり、草履を見下ろす。手は震えていたが、もう布巾を探してはいなかった。

「母さん」

「私は、家を守るつもりだった」

佳代は草履へ向かって言った。

「でも、守ったのは家族だけではなかった。御堂家の名と、私たちの暮らしと、私が何も知らなかったことにするための時間まで守った。そのために、夜明史郎さんを外へ置いた。史郎さんの家がなくなったと知っても、何もしなかった。史郎さんの名が帳面から消えても、書き直さなかった。あなたが戻ってくるたび、見なかったことにした。私は、その全部に加わった」

庭の空気が止まった。

線香の煙だけが、縁側の床を這う。

母は続けた。

「史郎さん。あなたが今、生きているのか、もういないのか、私は知らない。でも、あなたが失った時間を、私たちは勝手に終わらせた。あなたが帰る場所をなくしたことを、村の都合と呼んだ。御堂家の事情と呼んだ。もう、そうは呼ばない。あなたから奪ったものとして、覚える」

鏡台の中の影が、初めて顔を上げたように見えた。

「結人」

母が僕を見る。

「玄関へ」

僕は三足の草履へ手を伸ばした。

鼻緒に触れると、濡れていないのに冷たかった。草の編み目が汗ばんだ指へまとわりつく。生きているものの皮膚を撫でるような感触があり、僕は息を浅くした。

一足ずつ抱えた。

どれも重さが違った。最初の一足は、土を含んだように重い。二足目はひどく軽く、持ち上げた瞬間に消えてしまいそうだった。三足目には、微かな温度があった。誰かが今まで履いていたような、足の形の名残が残っていた。

僕は縁側の板から玄関へ向かった。

家の中を歩くのに、今までは履物を揃えていた。けれど、今日は草履を揃えなかった。左右を分けず、三足を抱えたまま、乱れた形で運んだ。

背後で、佳代が息を呑んだ。

鏡の中の影が、廊下の奥からこちらへ近づいてくる。足音はしない。ただ、木の床が一枚ずつ沈んだ。

「結人」

低い声がした。

僕は振り返らなかった。

「はい」

返事をした。

母に言われた手順とは逆だった。けれど、誰かに呼ばれて黙ることで、境界を守るつもりはなかった。

「返す」

僕は言った。

「これは、御堂家のものではない。あなたが失ったものの一部だ。全部は返せなくても、ここに置いたままにはしない」

玄関の三和土へ着く。

僕は草履を一足ずつ置いた。左右は揃えなかった。鼻緒の向きも、先の角度も、あえてばらばらにした。

そのとき、背後から佳代の声がした。

「夜明史郎さん」

母が、初めてその名を呼んだ。

縁側の灯りが、一度だけ大きく揺れた。

仏間から流れてきた線香の煙が、家の中を横切り、玄関へ向かう。濃い煙は草履の上で沈み、土間の冷たい石へ吸い込まれていった。

鏡台の中で、影が消えた。

代わりに、縁側には何も残っていなかった。

庭の闇から、低い声がした。

「まだ、返っていない」

僕は玄関の草履を見た。

「分かってる」

声に出すと、喉の奥が震えた。

「だから、覚えている」

それ以上の返事はなかった。

夜明け前、縁側の灯りが消えた。

玄関先には、三足の草履だけが残っていた。左右は揃っていない。片方は庭へ向き、片方は家の中を向き、もう一足は土間の中央で斜めになっている。

母も、叔父も、僕も、それを直さなかった。

誰もすぐには泣かなかった。泣けば、また何かを整えられる気がしたからだ。僕たちはただ、乱れた履物を見ていた。乱れていることで初めて、それが誰かの歩いた跡なのだと分かった。

朝の光が山の斜面を薄く照らし始めた。

蝉が一匹、遠くで鳴いた。

その声はすぐに途切れたが、今度の静けさは、何かを隠すためのものではなかった。言葉にしたものが、まだ家の中に置かれたまま、誰にも片づけられずにいる。そのための余白だった。

僕は玄関の草履を見下ろした。

帰ってきたはずのない履物は、まだそこにある。

けれど、もう縁側の灯りの下ではなかった。

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