第8話 寺の過去帳

翌朝、僕は眠りの薄さを引きずったまま、御堂家を出た。
夜のあいだ、何度も目を覚ました。縁側の板が軋むたび、誰かが家の中を歩いている気がした。けれど、障子を開けることはできなかった。開ければ、灯りの輪の外に置かれた草履と目が合う。そう思うだけで、喉の奥が固まった。
朝の縁側には、何もなかった。
草履も、濡れた足跡も、夜のあいだ僕の隣に立っていた気配もない。だが、板の一枚だけが黒く湿っていた。庭へ続く場所ではなく、僕が立っていたすぐ横の板だった。
僕はそこへ触れなかった。
触れれば、夜の冷たさが指先へ戻ってくる気がした。
玄関の三和土には、親族の履物が雑然と並んでいた。革靴、サンダル、誰かの子どもの運動靴。その中で、右足の先だけが外を向いた僕の靴が目についた。昨夜、無意識に揃えたものだった。
直そうとして、手を止めた。
物を揃えることが、家の中へ何かを招く手順になっている。そう考えると、乱れたままの靴さえ、迂闊に触れられなかった。
「寺へ行くの?」
背後から佳代の声がした。
僕は振り返った。母は白い布巾を手にしていた。朝から、どこを拭いたのか分からないほど白い布巾だった。けれど、布の端は湿り、指の間で固く絞られている。
「うん。了賢さんに、もう一度話を聞く」
「昨日、聞いたでしょう」
「聞いたのは、入口だけだった」
「入口まで行けたなら、そこから戻ってきなさい」
「戻る場所が、もう分からないんだ」
母はすぐには答えなかった。
答えの代わりに、僕の靴の向きを見た。外へ出るための履物なのに、どちらを向ければいいのか決められない。佳代はそれを見て、布巾で玄関の框を拭き始めた。
「了賢さんは、あなたに必要なことだけを言うわ」
「それでいい」
「必要なことが、あなたを守るとは限らない」
「母さんが隠してきたことよりは、ましだと思う」
布巾が框の上で止まった。
言い過ぎたと思った。けれど、取り消すことはできなかった。佳代は怒鳴らない。怒鳴らない代わりに、言葉を受け取った場所を見せない。僕が子どもの頃から苦手だった沈黙だった。
「あなたは、私を家の側の人間だと思っているのね」
「そうじゃない」
「そうでしょう。私は黙った。手を動かした。茶を出して、戸を閉めて、余計な話を止めた。あなたから見れば、それだけで十分に加害者なのよ」
「母さんが何をしたのか、まだ全部は知らない」
「知らないのに、責めるの?」
「責めたいんじゃない。だから知りたいんだ」
「知ってからなら、責めてもいいの?」
佳代は顔を上げた。
「結人。家族を疑うというのは、家族の外に立つことよ。外に立った人は、家の中で起きたことを、家の中の都合だけでは見られなくなる。あなたが今やろうとしているのは、そういうことなの。戻れない場所へ、自分で歩いていくことなのよ」
「もう歩き始めてる」
「止まれない?」
「止まったら、誰かをまた外へ置くことになる気がする」
佳代は布巾を畳んだ。二つ折りにし、端を合わせ、さらにもう一度折る。今度は角が揃わなかった。母は何度も直そうとしたが、布の端はわずかにずれたままだった。
やがて、諦めたように布巾を台の上へ置いた。
「了賢さんに会ったら、聞いてきなさい」
「何を?」
「晴江さんが、何を返そうとしていたのか」
僕は母の顔を見た。
「母さんは知ってるの?」
「知っていたら、今朝あなたを止めているわ」
「止めないのは、もう止められないから?」
「そうかもしれないわね」
母はそこで視線を外した。
「それと、あなたが戻ってきたときに、何を連れて戻るのかを知りたいの」
意味を訊ねる前に、母は台所へ戻っていった。
僕は玄関を出た。
山道は朝露に濡れていた。草の先がズボンの裾へ触れるたび、冷たい水が染みてくる。空は明るくなりかけていたが、山の斜面にはまだ薄い影が残っていた。鳥の声も、車の音もない。僕の靴底が砂利を踏む音だけが、一定の間隔で続いていた。
歩きながら、僕は祖母の日記帳を胸に抱えた。
紙の角が折れないよう、古布を一枚挟んである。その布には、晴江の家の匂いが残っていた。乾いた木と、少し甘い石鹸と、線香。死んだ人間の匂いではない。祖母がまだ暮らしていた頃の、手のひらや袖口に残った匂いだった。
それが、かえって苦しかった。
祖母がただの悪人なら、僕はもっと簡単に怒れた。けれど、麦茶を冷やしてくれた手も、僕の話を最後まで聞いた耳も、誰かを外へ置く手順を作った人間の一部だった。優しさと残酷さは、別々の人間に分かれていたのではない。ひとりの人間の中で、同じ呼吸をしていた。
寺の門が見えた。
境内には、昨日と同じように掃き目が残っていた。砂利の上に描かれた細い筋は、どこにも乱れがない。僕はその整然さに、かえって不安を覚えた。御堂家でも、物はいつも揃えられていた。茶碗も、座布団も、履物も。整っていることが、必ずしも穏やかさを意味しないと、もう知っている。
本堂の奥から、線香の匂いが流れてきた。
御堂家の線香は湿った木のように重かったが、寺の匂いは乾いていた。白い煙が天井へまっすぐ上がり、梁の近くで薄くほどけている。了賢は文机の前に座り、古い過去帳を開いていた。
僕の足音に気づいても、すぐには顔を上げなかった。
法衣の袖口を整え、数珠を指で一度撫でる。その動作が終わってから、了賢は僕を見た。
「朝から、よく来ました」
「昨日の話を、もう少し聞かせてください」
「昨日の話で、眠れませんでしたか」
「眠れなかったのは、話を聞く前からです」
了賢はわずかに目を細めた。笑ったのかどうか、僕には分からない。
「では、今日は何を確かめたいのでしょう」
「夜明史郎という人のことです。祖母が何をしたのか。どうして、草履が縁側に置かれるのか。それから、七回忌の作法が、なぜ迎えるためのものと追い返すためのものに分かれているのか」
「一度に多くを持ってきましたね」
「家に置いておく方が、もう怖いんです」
僕は日記帳を差し出した。
了賢は両手で受け取り、紙の端を確かめた。頁をめくる指はゆっくりしている。僕が祖母の遺品に触れるときと似た慎重さだった。ただ、了賢の手つきには、壊さないためだけではなく、読めば戻れなくなるものを扱う覚悟があった。
「晴江さんは、これを最後まで捨てませんでした」
「寺に預けることもできたはずですよね」
「できたでしょう」
「なのに、家に残した」
「残したのか、残ってしまったのか。その違いは大きいですが、今となっては確かめようがありません」
了賢は一枚の頁で手を止めた。
「ここに、追記があります」
僕は身を乗り出した。
祖母の字の下に、細い墨で書き足された文字があった。昨日は見えなかった。朝の光の角度では、紙の皺に紛れていたのだろう。
――返すのは、履物だけではない。
その下に、消された跡がある。
「この筆跡は、祖母のものですか」
「違います」
「では、誰の」
了賢は答えず、過去帳の脇から別の記録を取り出した。古い法要の控えだった。日付は四十年近く前。紙は黄ばんでいるが、筆跡の一部だけが妙に黒い。
御堂家。
夜明史郎。
その二つの名が、同じ頁に並んでいた。
僕は喉を鳴らした。
「これは、何の記録ですか」
「正式な法要の記録ではありません。寺に残された控えです。誰かが、御堂家の七回忌の作法を写し取ったものらしい」
「七回忌って、祖母のではなく?」
「以前にも、同じ夜があったということです」
了賢は紙を僕の方へ滑らせた。
そこには、短い箇条書きが並んでいた。
灯りを縁側へ。
履物を揃える。
家の者は内側に残る。
呼ばれても返事をしない。
迎える者と、返す者を混同しない。
僕は最後の一文を見つめた。
「迎える者と、返す者を混同しない。これは、どういう意味ですか」
「死者を迎える作法と、家の外へ返す作法が、ひとつの夜に重なっているのです」
「なぜ、そんなことをするんですか」
「御堂家が、そう望んだからでしょう」
「祖母が?」
「始めたのは、晴江さんより前の人かもしれません。ですが、続けたのは晴江さんです」
「祖母は、史郎さんを追い返すために、この作法を作ったんですか」
了賢は数珠を撫でた。
「追い返すためだけではありません。あの人を、家の外に留めるためです」
「それは同じことじゃないですか」
「違います。追い返すというのは、ここではない場所へ行けと言うことです。留めるというのは、どこへも行かせず、境目に置くことです」
その言葉を聞いた瞬間、縁側の草履が浮かんだ。
庭にも、玄関にも、どこにも続かない濡れた足跡。縁側の灯りの外に置かれ、家へ上がることも、山へ帰ることもできない履物。
「祖母は、史郎さんを追い出したあとも、帰れない場所へ置いた」
「そう考えることはできます」
「できる、じゃなくて、そうなんでしょう」
「結人さん」
了賢の声が低くなった。
「記録を読むときに、怒りだけで空白を埋めてはいけません。空白は、誰かが意図して消したものかもしれないし、最初から書かれなかったものかもしれない。あなたが今しなければならないのは、御堂家を裁くことではありません。何があったのかを、裁く前に、逃げずに見ることです」
「でも、見ているだけでは、また同じになる」
「ええ」
了賢は、僕をまっすぐ見た。
「だから、見ることの次に、言葉にする必要があるのです」
僕は記録へ目を落とした。
「史郎さんは、何をしたんですか」
了賢はすぐに答えなかった。線香の火が小さく崩れ、灰の先が赤く光る。火が落ちるまで、了賢は席を立たなかった。
「村の共同井戸を、夜明家だけが使っていた時期がありました」
「夜明家?」
「山の斜面にある、小さな家でした。御堂家の土地を借り、炭焼きと木材の仕事をしていた。史郎さんは、その家の息子です。村の祭りでは太鼓を叩き、御堂家の庭木も手入れしていた。外から来た人間ではありません。最初から、ここに暮らしていた側です」
「それなのに、外へ出した」
「ある年、御堂家の裏山で水が濁りました。炭焼きの灰が沢へ流れたという話になった。村の田へ水を引く必要があり、誰かに責任を負わせなければならなかった」
「史郎さんがやったんですか」
「記録には、そう書かれていません」
「では、なぜ」
「史郎さんが、御堂家の山の管理について、村の寄合で異議を唱えたからです。伐り過ぎた木が崩れ、沢を塞いだ。水が濁ったのは灰だけではない。そう言った」
僕は記録の端にある、掠れた線を見つめた。
「正しいことを言ったから、追い出されたんですか」
「正しいかどうかを決める側に、御堂家がいた」
了賢の声には、怒りがなかった。だから、かえって逃げ場がなかった。
「村は水を必要としていた。御堂家は土地を持っていた。史郎さんの家は、土地を借りていた。正しさを比べる前に、力の差があったのです」
「それで、村は史郎さんを悪者にした」
「悪者にしたというより、悪者であることにした。濁った水の責任を、ひとりの家へ寄せれば、他の者は自分の手を見なくて済む。御堂家が寄合の席を決め、村の者がそれに従い、寺は正式な記録を残さなかった。皆が少しずつ手を貸した」
「祖母も、その中にいた」
「はい」
僕は目を閉じた。
瞼の裏に、麦茶の瓶を持つ祖母の手が浮かぶ。僕の話を聞きながら、何度も頷いた手。その手が、誰かを村の列から外すために、帳面を閉じ、戸を閉め、沈黙を選んだ。
「祖母は、史郎さんを見ていたんですか」
「見ていたでしょう」
「何も言わなかった?」

「言わなかったのではなく、言う場所を選び続けたのだと思います。そして、選んでいるうちに、言葉を失った」
「そんなの、言い訳です」
思わず声が強くなった。
本堂の天井で、線香の煙が揺れた。
「言葉を失ったんじゃない。言わないことを選び続けただけでしょう。何十年も続けて、最後には自分でも、それを選んだことを忘れた。家を守るために必要だったと、そう思うようになった」
「そうです」
了賢は否定しなかった。
「だからこそ、弔いが封印に変わったのです」
「祖母は、史郎さんのために草履を置いたんですか」
「最初は、そうだったかもしれません」
「最初は?」
「返すために置いた草履が、いつしか閉じ込めるための草履になった。戻ってきた者へ履物を返すのではなく、ここまでしか来てはいけないと境界を示すために並べた。晴江さんは、その違いを知っていたはずです」
了賢は日記帳の、破り取られた頁を指で示した。
「それでも、手順を捨てられなかった。手順を捨てれば、守ってきたものが崩れると思ったのでしょう」
「守ってきたものって、何ですか」
「家族です。暮らしです。御堂家の名です。そして、おそらくは、自分自身を善人だと思い続けるための記憶も」
僕は反論できなかった。
祖母は、自分がしたことを忘れたかったのではない。忘れられなかったから、毎年同じ手順を繰り返し、履物を揃え、灯りを置き、縁側を跨がせなかった。記憶を消すためではなく、記憶が動き出さないように、形を与え続けた。
封じ札も同じだった。
怪異を抑える札であり、罪を見えなくする札でもあった。
「この札を使えば、史郎さんは止まりますか」
僕は古布に包まれた札へ触れた。
「止まるかもしれません」
「その代わり、また何もなかったことになる」
「そうなるでしょう」
「では、使えない」
「使わないことが、正しいとも限りません」
「どういう意味ですか」
「封じることが、ただ隠すことだとは限らないからです。人は、向き合う準備ができていないと、見たものに呑まれる。あなたが今、札を破れば、史郎さんの記憶も、家族の恐怖も、整理されないまま一度に溢れ出すかもしれない」
「それでも、隠すよりは」
「隠すのではなく、置き場所を変えるのです」
了賢は、机の上の紙を角まで揃えた。
「封じ札を使うかどうかを決める前に、何を封じ、何を外へ出すのかを分けなさい。怪異だけを閉じ込めるのか。罪まで閉じ込めるのか。あなたが選ばなければなりません」
「僕に、そんなことができますか」
「できるかどうかではありません。あなたが、もう見てしまったということです」
了賢は過去帳を閉じた。
「見た者には、見なかった者とは別の責任が生まれます」
その言葉が、胸の奥へ沈んだ。
僕は、これまで責任というものを、強い人間が背負うものだと思っていた。母や祖母のように、家族を動かし、親族へ頭を下げ、場を収められる人間が引き受けるものだと。けれど、了賢が言う責任は違った。見てしまったものを、見なかったことにしないための、弱い人間の責任だった。
「史郎さんは、まだ生きているんですか」
訊ねると、了賢はすぐには答えなかった。
庭の古木から、葉が一枚落ちた。乾いた音を立て、石畳の上へ張りつく。
「記録の上では、村を出たあと、行方は分かりません」
「死んだ可能性も?」
「あります」
「生きている可能性も」
「あります」
「どちらか分からないまま、草履だけが戻ってきた」
「そうですね」
「それでも、了賢さんは、あれを史郎さんだと思っているんですか」
了賢は僕を見た。
「私は、名前を失った者が戻ってきたのだと思っています」
「史郎さん本人ではない?」
「本人かもしれません。名を継いだ誰かかもしれません。あるいは、御堂家が消した記憶が、人の姿を借りて戻ってきたのかもしれない。ですが、どれであっても、返すべきものがあるという事実は変わりません」
その言葉に、僕は草履の感触を思い出した。
濡れていないのに冷たかった鼻緒。藁のざらつき。生きているものの皮膚に触れたような感覚。あれは、史郎という人間の履物であると同時に、彼から奪われた場所の形だったのだろう。
了賢は棚から小さな封筒を取り出した。
「これは、晴江さんから預かったものです」
封筒の表には、僕の名前が書かれていた。
御堂結人様。
祖母の字だった。けれど、今まで見たどの文字よりも弱い。筆圧が浅く、線の終わりがわずかに震えている。
「いつ、預かったんですか」
「七回忌の前です。あなたが来るかどうかは、聞きませんでした」
「祖母は、何を書いたんですか」
「私は開けていません」
了賢は封筒を僕へ差し出した。
「あなたが読むものです」
僕は受け取った。紙は乾いていた。なのに、掌へ触れた瞬間、湿った木の冷たさが戻ってきた。
封を切るべきか迷った。
祖母の最後の言葉を読むことが、家の中へさらに踏み込むことになる。ここまで来たら、もう戻れない。そう分かっているのに、指先だけが止まった。
「開けないのですか」
「怖いんです」
「怖いまま開ければよいでしょう」
「了賢さんは、怖くないんですか」
「怖いですよ」
初めて、了賢の声にわずかな揺れが混じった。
「だから、線香の火が落ちるまで席を立たないのです。怖いものを前にして、平気なふりをするのが一番、手順を誤りやすい」
僕は封筒を開いた。
中には、短い紙片が一枚だけ入っていた。
――結人へ。
――草履を揃えるのは、帰る人のためです。
――けれど私は、帰る場所をなくした人を、何度も外へ置きました。
そこで文章は途切れていた。紙の下半分には、書きかけの跡がある。祖母は何度も筆を置き、また取り上げたのだろう。墨の濃淡が、息をするように揺れている。
――あの人に返すものは、私の家ではありません。
――私が守ったことで、あの人から奪われた時間です。
僕は紙を握りしめそうになり、慌てて指の力を抜いた。
その下に、最後の一文があった。
――七回忌の夜、草履を玄関へ返しなさい。誰のものかを問う前に、誰から奪ったものかを言いなさい。
文字はそこで終わっていた。
僕はしばらく、紙片から目を離せなかった。
祖母は、草履を返せと書いている。けれど、玄関へ返すだけでは足りない。誰から奪ったものかを言え、と書いている。履物を返すことは、場所を戻すことではない。その人が歩けなかった時間を、こちらの記憶の中へ戻すことなのだ。
「これを、いつまで持っていたんですか」
「晴江さんが亡くなってから、七回忌までです」
「どうして、もっと早く渡さなかったんですか」
了賢は一度、目を伏せた。
「私も、怖かったのでしょう」
「了賢さんも、黙った側なんですね」
「ええ」
その答えは、僕が予想していたより重かった。
「私は寺の者です。村の者から見れば、記録を残し、弔いを正す側にいる。ですが、あの夜、史郎さんが外へ出されたとき、私はまだ若かった。何が起きているのか分からないふりをして、過去帳の頁を閉じた。後になって、記録の端へ名前を書き足した。それで責任を果たしたつもりになった」
「書いただけで?」
「書くことは、何もしないよりましです。しかし、書いたことを誰にも渡さなければ、また別の封印になる」
了賢は過去帳へ手を置いた。
「あなたに渡したのは、私が自分のためにしていることでもあります。今度こそ、知っている者だけの中で終わらせないために」
本堂の外で、風が動いた。
柿の葉が一斉に裏返り、白い面をこちらへ向ける。けれど、音はほとんどしなかった。遠くで蝉が一匹鳴き、すぐに沈黙へ戻る。
僕は封筒と日記帳を胸に抱えた。
「家へ戻ります」
「戻って、何をしますか」
「母さんに、手紙を読ませます。叔父にも、親族にも。少なくとも、誰が何をしたのかを、家の中だけの話にしない」
「夜明さんが現れたら?」
「逃げません」
「対峙するのですか」
「まだ分かりません。でも、また封じ札で消すことはしない」
了賢は静かに頷いた。
「封じ札を使うなら、隠すためではなく、置き場所を決めるために使いなさい」
「置き場所?」
「怨みも、罪も、どこかへ置かなければ人を踏みつけます。縁側に置くのか、仏間に置くのか、記録の中に置くのか。あなたが決めるのです」
僕は立ち上がった。
敷居へ向かい、足を止める。寺の内と外を分ける木の境目だった。昨日までは、ただ跨ぐだけのものだった。今は、その一枚の木に、誰かを迎え入れ、誰かを追い返してきた時間が染みているように見えた。
僕は急がず、敷居を跨いだ。
外へ出ると、朝の光が目に痛かった。境内の裏手にある名のない石塔へ向かう。昨日見つけた封じ札の断片が、まだ土の中に残っていた。
拾い上げると、紙の裏に黒い文字が一部だけ残っていた。
――夜明。
その下には、もう一文字。
――返。
僕の指先で、紙がかすかに震えた。
風ではなかった。
石塔の背後から、誰かが歩いてくる音がした。砂利を踏む音ではない。足音より軽く、しかし間隔だけは人間の歩みに近い音だった。
ひとつ。
沈黙。
もうひとつ。
僕は振り返らなかった。
振り返れば、そこに史郎がいるのかもしれない。あるいは、誰もいないのかもしれない。どちらにしても、僕はもう、姿の有無だけで判断できる場所にはいなかった。
足元の封じ札の断片を、日記帳の間へ挟む。
その瞬間、背後から低い声がした。
「返すのは、名だけではない」
僕は息を止めた。
声は怒鳴っていなかった。急かしてもいなかった。ただ、長いあいだ待っていた者が、確認するように言っただけだった。
「分かっています」
返事をしてから、母に言われた「返事をしない」という手順を思い出した。
けれど、僕はもう、黙ることで境界を守るつもりはなかった。
「時間も、暮らしも、帰る場所も。返せるものは返します」
背後の気配が消えた。
代わりに、石塔の横へ、濡れた草履が一足、揃えて置かれた。
僕は振り返らなかった。
それでも、草履の鼻緒が夜気を吸って暗くなる様子が、目の前にはっきり浮かんでいた。帰り道の山は、朝の光を受けているのに、どこか深い影を抱えていた。
御堂家へ戻れば、また何かが増えているだろう。
草履かもしれない。足跡かもしれない。あるいは、家族が今まで口にしなかった名前かもしれない。
僕は日記帳を抱え直し、坂道を上った。
家へ帰るためではなかった。
家の中に残されたものを、今度こそ外へ出すために。
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