第7話 縁側の気配

夜が深まるにつれ、御堂家の音は一つずつ減っていった。
台所の水音が止み、襖の開閉も消え、仏間には線香の煙だけが細く残っている。親族はそれぞれの部屋へ引き上げ、廊下を踏む足音も途絶えた。僕は縁側の板に座り、指先で服の縫い目をなぞりながら、灯りの輪の外を見ていた。庭の闇は、夏草の匂いと湿った土の気配を抱えたまま、何も返さない。だが、返事のない静けさほど、この家では不自然なものはなかった。何かが応えないのではなく、応えないことで存在を示している。そのことを、僕はもうこの数日で学んでいた。
縁側の端、灯りが届くぎりぎりのところに、草履があった。
一足だけではなかった。もう一足、少し離れて置かれている。左右はきれいに揃えられ、鼻緒の向きまで整っていた。僕は息を浅くした。誰かが荒っぽく投げ捨てたのではない。むしろ、ここに来ることを初めから知っていて、来た者が困らぬように、あらかじめ場所を空けておいたようだった。
「――結人」
背後で声がした。台所から顔を出した佳代だった。湯気の向こうで、母の唇の形がふっと止まる。草履を見たのだ。けれど彼女は何も言わなかった。代わりに、まだ洗い終えていない茶碗を手に取り、蛇口を捻る速度を上げた。水音が急に大きくなる。まるでその音で、自分の中の何かを塗りつぶそうとしているようだった。
そのとき、縁側の外、庭木の影がわずかに濃くなった。
僕には、そこに誰かが立っているというより、立っていた気配だけが残っているように思えた。足音はしない。代わりに、木の床がごく小さく鳴った。畳を踏むより軽く、しかし人間の歩き方とは違う、間の取り方だった。一拍置いて、もう一度。まるで相手が、僕がどう反応するかを確かめてから、次の一歩を選んでいるようだった。
身じろぎすると、草履の鼻緒が灯りを吸ったみたいに黒く浮かび上がった。子どものころ、祖母に「縁側を跨ぐな」と言われた記憶が、その一言だけ、急に喉の奥へ戻ってきた。あのときの晴江の声は、叱るためのものではなかった。むしろ、僕を庇うための声だったのだと、今ならわかる。庇うという行為の裏側に、いったい何を隠していたのかは、まだわからないままだったけれど。
「お茶、飲む?」
佳代の声は、いつもより硬かった。彼女は盆に湯呑みを載せ、縁側の方へ運んでこようとした。だがその手首は、茶托に触れる寸前でわずかに揺れた。震えというほどではない。けれど確かに、迷いが指先へ伝わっていた。
「母さん」
「なに」
「草履、また増えてる」
佳代は答えなかった。答えない代わりに、湯呑みを僕の膝の前へ、いつもより少しだけ距離を取って置いた。まるで、僕と草履のあいだに何か見えない境目を引こうとしているようだった。
「見ないで」
「もう、見てしまったよ」
「見なくていいの。見なければ、まだ引き返せる」
「引き返すって、どこへ?」
「なにも知らなかったころへ」
その言葉に、僕は胸の奥が冷えるのを感じた。佳代は僕を見ず、庭の暗がりを見ていた。そこには何もないはずなのに、彼女の視線だけが、僕よりもずっと正確に、闇の濃さを測っているようだった。
「母さんは、まだそこに戻れると思ってるの」
「戻れなくても、あなただけは戻れると思っていたのよ」
「僕だけ?」
「あなたは、この家で育っていない。だから、ここでの決まりごとを、身体で覚えていない。知らないままでいられる猶予が、まだ少しはあると思っていた」
「その猶予を、母さんが削ってるんじゃないの」
「削っているのは、私じゃないわ」

佳代はそこで初めて僕の顔を見た。疲れているのに、目だけは驚くほど澄んでいた。長く眠っていない人間の目だ。眠らないことを選んだ人間の目、と言った方が近いかもしれない。
「あの人が、勝手に近づいてくるの。私たちが呼んだんじゃない。私たちが黙っていたから、向こうが痺れを切らしただけ」
「黙っていたことにも、理由があるんだろう」
「あるわよ」
「聞かせてよ」
佳代は湯呑みの縁を指でなぞった。焦げ茶色の釉薬に、行灯の灯りが小さく揺れて映っている。
「晴江さんは、この家をひとつの器だと思っていたの。誰かが割れそうになったら、そこに蓋をする。蓋の下で何が腐っていても、外から見える形さえ保てれば、家は続いていく。あの人はそう信じていた。実際、そうやってこの家は何十年も続いてきたのよ。誰も飢えず、誰も表立って争わず、法事のたびに親族が集まって、笑って、また散っていく。それの何が間違っていたと言うの」
「蓋の下で誰かが腐っていくのを、放っておくことが」
僕がそう言うと、佳代は目を伏せた。
「放っておいたんじゃない。押さえつけていたの。放っておくより、ずっと重労働よ」
「重労働だとしても、押さえつけられた人には関係ない」
「関係ないでしょうね」
母の声は、思いのほか静かだった。
「でも、その重労働をしてきた側にも、言い分というものがあるの。あなたはいつも、押さえつけられた側の痛みだけを見る。それは優しさかもしれない。でも、押さえつける側にも、毎晩、蓋の重さに押し潰されそうになりながら耐えてきた時間があったのよ。晴江さんにも、私にも」
庭で、乾いた音がした。
草履の鼻緒が、何かに触れて小さく鳴った。僕たちは同時にそちらを見た。灯りの輪のすぐ外、二足の草履の位置が、さっきよりわずかにこちらへ寄っている。誰かが動かしたのではない。動いたのだと、僕たちはもう知っていた。
「母さん」
「なに」
「押さえつけてきた側の言い分を、僕は聞きたいと思ってる。本当だよ。でも、それを聞くことと、押さえつけられた人の名前を消したままにすることは、別のことだと思う」
「別のことだと、簡単に言えるのね」
「簡単じゃない。だからこそ言わなきゃいけないと思ってる。母さんも祖母さんも、悪意で誰かを追い出したわけじゃないんだろう。でも悪意がなかったことと、その人が失ったものが軽くなることは、違う。悪意がなかったからこそ、なおさら、誰も自分の手を汚したと思わないまま、取り返しのつかないことが起きたんじゃないの」
佳代は答えなかった。答えの代わりに、彼女は自分の手を見た。台所仕事で荒れた、けれど爪の先まで整えられた手だった。その手が、長いあいだ、この家の秩序を支えてきたのだと僕は知っている。同時に、その手が、誰かを外へ押し出す手順のどこかに、確かに加わっていたのだということも。
その夜、僕は眠れず、祖母の部屋へ戻った。
日記帳を布越しに持ち、封じ札を挟んだまま開く。裂けた頁には「返す夜」「縁側に上げるな」という短い言葉が、何度も同じ癖で書かれていた。筆圧が強い箇所は、紙を押しつぶした指の跡のようにも見える。祖母の几帳面さを、僕は知っている。引き出しの中の裁縫箱も、写真の並びも、いつも角が合っていた。だからこそ、あの乱れない文字が、逆に息苦しかった。何かを整え続けた人間の文字だった。整えることでしか、自分の中の乱れを収められなかった人間の文字だった。
夜更け、仏間の障子越しに風が走り、縁側の灯りが一度だけ揺れた。その瞬間、草履は消えた。消えたというより、灯りの下から離れ、見えないところへ滑っていった感じだった。僕は立ち上がり、木の床に残った冷たさを裸足で確かめた。そこには確かに、誰かの気配があった。けれど、その気配は脅しよりも、呼び返しに近かった。
僕は初めて、あの草履が家へ戻ってきた者の目印なのではなく、家が返すべきものを、静かに催促しているのではないかと思い始めた。
祖母は誰かを追い出した。母はその沈黙を継いだ。そして僕は、その両方を知ってしまった。もう、知らなかったころには戻れない。日記帳の表紙を撫でながら、僕はそのことだけを、はっきりと理解していた。
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