6話 足跡が庭を回る夜

寺から戻ったとき、御堂家の屋根は夕暮れの薄紫を吸い込んでいた。

玄関先で靴を脱ぐと、湿った土の匂いがした。山道を歩いた靴底に、寺の砂利と細かな泥が付いている。僕は上がり框の端に腰を下ろし、靴を布で拭いた。泥を家の中へ持ち込みたくなかった。

拭き終えた靴は、左右を揃えて置いた。

置いてから、指が止まった。

寺へ向かう前、母に言われた言葉が耳の奥へ戻ってくる。

――あなたが今、家に戻れば、また草履が増えているでしょう。

僕は靴の先を見つめた。きれいに揃えたつもりなのに、右の靴だけがほんの少し外を向いている。直そうと手を伸ばしたが、途中でやめた。揃えることが、何かを家の中へ招く手順になっている気がした。

「結人、帰ったの?」

台所から母の声がした。

「うん」

「ご飯、もうできてるわ。手を洗ってきなさい」

声はいつも通りだった。けれど、寺へ行く前よりも低く、奥に硬いものが沈んでいる。僕が了賢から聞いたことを、まだ母には話していない。それでも、母は僕の顔を見れば、何を聞いてきたのか分かるだろう。

洗面所で手を洗うと、冷たい水が指先の熱を奪った。爪の脇に泥が少し残っている。何度も擦ったが、黒い筋は消えなかった。寺の裏手で拾った封じ札の断片を、僕はポケットの中で握りしめていた。

紙は薄いのに、そこだけ硬かった。

食卓には、親族のために用意された煮物と焼き魚が並んでいた。昼間の法要の残りものを温め直しただけだと母は言ったが、器の置き方は整いすぎていた。箸の向き、椀の位置、取り皿の重なり方まで、すべてが左右対称になっている。

叔父がひとり、座敷の隅で酒を飲んでいた。僕を見ると、何か訊ねたそうに顔を上げたが、母が味噌汁を置く音に合わせて視線を落とした。

「寺へ行ったんだって?」

叔父は言った。

「少し、了賢さんに話を聞いてきました」

「何の話を」

母がすぐに口を挟んだ。

「結人、冷める前に食べなさい」

「いや、俺はちょっと気になってな。昔の寺の記録に、御堂の名前が出ているとか――」

「叔父さん」

母は笑っていた。笑顔だけが、薄く固い。

「七回忌の夜に、昔の帳面を掘り返す話はやめましょう。皆さん疲れているんですから」

「でもな、佳代。夜明の名が――」

叔父の声が、そこで途切れた。

母が椀の蓋を閉めたからだった。ぱたん、と小さな音がしただけなのに、座敷の空気が沈んだ。

「その名前を、ここで口にしないで」

母は叔父を見なかった。

叔父は酒の入った湯呑みを持ち上げた。手がわずかに震えている。けれど、震えを隠そうとしているのではなかった。震えたまま飲むことを選んでいるように見えた。

「もう、そんな時期じゃないだろう」

「時期がある話じゃないわ」

「七回忌なんだぞ」

「だからよ」

母の声が、さらに低くなった。

「死んだ人の前で、戻ってきた人の話をするものじゃないでしょう」

誰も返事をしなかった。

その言葉が妙に残った。

戻ってきた人。

僕は昼間、縁側の草履を思い出した。左右を揃えられ、誰かのために場所を空けるように置かれた履物。帰ってきた者の印ではなく、帰ってきた者が、まだ中へ入れていないことを示すもの。

夕食は、味の分からないまま終わった。

食器を片づける母の背中を、僕は台所の入口から見ていた。水を流し、皿をすすぎ、布巾で一枚ずつ拭く。どの動作にも無駄がない。けれど、蛇口を閉めるたびに、母は一度だけ縁側の方へ目をやった。

「母さん」

「なに」

「夜明史郎のこと、叔父さんも知ってるんだね」

母は皿を布巾の上へ伏せた。

「今は、その名前を話す必要はないわ」

「寺では、御堂家が村から外した男だと聞いた」

「了賢さんは、そう言ったのね」

「母さんは違うと思う?」

「違うとは言っていないでしょう」

「だったら、何を隠してるの」

母は次の皿を取った。水に濡れた指が、白い縁をなぞる。

「隠しているんじゃない。まだ話す順番ではないの」

「順番って、誰が決めるの」

「あなたに分かるように話すには、順番がいるのよ」

「僕はもう、子どもじゃない」

「知ってるわ」

「なら、何が起きているのか話して」

母は皿を置いた。

「今夜、縁側には出ないで」

「話の順番を聞いてるんだよ」

「今夜は、縁側に出ないで」

「草履があるから?」

「それだけじゃない」

「じゃあ、何があるの」

「結人」

「僕が寺へ行ったから、何か変わった?」

母の手が止まった。

その沈黙を、僕は見逃さなかった。了賢が言っていた。始まった手続きは、途中で止めれば、余計に長く尾を引く。僕が寺へ行ったことで、何かを止めたのか。それとも、進めてしまったのか。

「了賢さんは、僕が家に戻れば草履が増えていると言っていた」

母は目を伏せた。

「そう」

「知っていたんだね」

「知っていたわけじゃない。予想していたの」

「同じことだよ」

「違うわ。知っているなら、止められるでしょう。私は止められなかった。だから、予想していただけ」

「止められなかったんじゃなくて、止めなかったんじゃないの」

母は僕を見た。

怒りはなかった。あるのは、長く使っていない筋肉を動かしたときのような痛みだった。

「あなたは、今、私を悪者にしたいのね」

「したくない」

「でも、そうしないと話が進まないと思っている」

「母さんが黙るからだよ」

「黙っている人間を、いつも悪い側に置くのは簡単よ」

「じゃあ、黙らないで」

自分の声が、思っていたより近くに響いた。

「僕は母さんを責めたいんじゃない。祖母さんも、叔父さんも、村の人も、誰かひとりを悪者にして終わらせたいわけじゃない。ただ、みんなが少しずつ手を動かして、少しずつ口を閉じて、その結果として誰かが外へ出されたなら、その『少しずつ』を全部見ないといけないんだと思う。誰かひとりに背負わせれば、また同じことになる。家を守るために誰かを切り捨てたのなら、切り捨てた一人ひとりの手を、なかったことにしちゃいけない」

母は何も言わなかった。

水道の蛇口から、残った水が一滴落ちた。

ぽたり。

その音を合図にしたように、縁側の外で何かが濡れた。

最初は、葉先から落ちた水滴だと思った。

しかし、灯りの届く端の庭石に、黒い跡がひとつ浮かんでいた。土を踏んだ跡ではない。履物の底が押しつけられたように、細長く、平らな湿り方をしている。

僕は台所から動けなかった。

庭石の上に、もうひとつ跡が現れた。

音はしない。

ただ、何もなかった場所に、濡れた重さだけが置かれていく。

母が息を止めた。

「見ないで」

「もう見えてる」

「結人、こちらへ来なさい」

「足跡がある」

「分かってるから、来なさい」

母は僕の腕をつかんだ。指先は冷たかった。けれど、力は強い。台所の内側へ引き戻そうとする力だった。

庭石の上に、三つ目の跡が現れた。

それは縁側へ向かっているように見えた。

僕は足跡の並びを目で追った。石灯籠の脇を抜け、濡れた植木の下を通り、庭の奥からこちらへ近づいている。間隔は一定だった。人が歩いた跡に似ているのに、一つひとつの形が曖昧で、そこに足の裏という身体が存在しない。

あるのは、歩いたという結果だけだった。

「庭を回ってる」

僕が言うと、母の指がさらに食い込んだ。

「どこへ行くの」

「裏手へ。いや、違う。家を一周してる」

足跡は、縁側へ近づいているようで、実際には縁側を避けていた。家の壁際を回り、外から家を囲んでいる。帰るためではない。出ていくためでもない。

閉じ込めるように、巡っていた。

障子の向こうを影が横切った。

庭ではない。

廊下だった。

台所と仏間の間にある、誰もいないはずの細い廊下を、黒い影が一筋だけ通り過ぎた。人の肩幅より細い。けれど、柱の影ではない。障子に映った影は、途中で立ち止まり、こちらを向いた。

顔はなかった。

母は僕の腕を離した。

「中へ」

「母さん」

「縁側に出ないで。絶対に」

「影が家の中を通った」

「見間違いよ」

「母さんも見たでしょう」

「見ていない」

「どうして、いつも見ていないと言うの」

母は答えなかった。

その代わり、食器棚から茶碗をひとつ取り出し、棚の中へ戻した。置き場所を確かめるように、何度も数ミリずつ動かす。茶碗の底が木の棚板に触れるたび、乾いた音がした。

「母さん、今それをする必要がある?」

「必要があるの」

「何のために」

「整っていれば、まだ家の中と外を分けられる」

「茶碗を揃えたら、足跡が止まるの?」

「そういうことではないわ」

「じゃあ、どういうこと?」

母は棚に手を置いたまま、顔だけを僕へ向けた。

「整っているものには、境目があるの。乱れていれば、どこからが内側で、どこからが外側なのか分からなくなる。昔の人は、その境目を物の位置で確かめた。草履を揃える。灯りを置く。戸を閉める。誰がどこに立つかを決める。そうやって、家の中を家の中にしていた」

「その境目から、誰かを外へ出したんだね」

「……そうよ」

母の返事は小さかった。

「でも、外へ出したあとも、その人は家の周りを歩き続けた。村の道を歩き、山を越え、何度も戻ってきた。だから晴江さんは、歩く場所を決めたの。縁側の灯りを見せる。草履を揃える。家の者は跨がない。外にいる者は、そこまで来ても中へ入れない。そうすれば、家の中にいる人間は眠れると思った」

「思った、じゃない。眠ったんだ」

「眠れた人もいたでしょうね」

「母さんは?」

佳代は目を逸らした。

「私は、眠ったふりをしていた」

足跡が、庭の奥でひとつ増えた。

今度は、縁側から離れる方向だった。裏手へ回り、家の背後へ向かっている。けれど、消えない。歩いた場所に、濡れた跡だけが残っていく。

僕は戸へ近づいた。

「開けないで」

「外を確かめるだけ」

「だめ」

「誰かがいるかもしれない」

「いるのよ」

佳代の声が、はじめてはっきり震えた。

「いるから、開けてはいけない。見れば、見た者の側へ寄ってくる。そういうものなの」

「人なのか、死者なのか」

「どちらでも同じよ。名前を失った者は、生きていても死んでいても、帰る場所がない。帰る場所がないまま、家の境目だけを歩く。家の中にいる人間が、それを見つけてしまえば、今度はその人間の記憶を足場にする」

「僕の記憶を?」

「あなたは、もう見つけすぎた」

母の言葉が落ちた。

庭の暗がりで、濡れた跡が止まった。

灯りの輪の外、縁側から数歩離れた場所に、ひとつだけ足跡が浮かんでいる。そこから先には、何もない。足跡は家の外へ向かっているようにも、こちらへ戻っているようにも見えた。

僕は、祖母の顔を思い出した。

幼い僕の前へ麦茶を置き、草履の向きを直しながら、外にいるものを家の中へ入れてはいけないと言った顔。あれは怖がっていた顔ではなかった。怖がっていることを、僕に悟らせないための顔だった。

「祖母さんは、あの人を止めたかったの」

「ええ」

「それとも、追い返したかったの」

「最初は同じことだったのよ」

「違うよ」

僕は戸に手をかけた。

「止めることと追い返すことは違う。帰る場所をなくした人を、また外へ押し出すなら、それは止めるんじゃなくて、続けることだ」

「結人、手を離しなさい」

「母さんは、ずっと外へ出ないために、誰かを外へ置いてきたんだね」

「あなたに何が分かるの」

「分からない。でも、分からないから、見たい」

「見れば、戻れなくなる」

「もう戻れない」

戸の向こうから、湿った木の匂いがした。

線香の匂いも混じっている。仏間から流れてくる匂いとは違う。もっと近く、庭の土に染みた煙のようだった。

僕は戸を開けた。

夜気が、頬に触れた。

庭は暗かった。雨は降っていない。葉は濡れているが、風はない。灯りの下に、最初の足跡があった。続いて、二つ、三つ。庭石を渡り、植木の陰を抜け、家の裏手へ回っている。

僕は裸足のまま縁側へ出た。

木の床が、足裏から熱を奪った。濡れた草履に触れた夜と同じ冷たさだった。境目の板を一枚、またいだところで、母が背後から僕の服をつかんだ。

「跨がないで!」

その声で、僕の足が止まった。

縁側の板と庭の土の間に、見えない線がある。

それは、祖母が決めた線だったのか。夜明史郎が歩き続けた線だったのか。あるいは、御堂家が誰かを外へ置くために作り、長い時間をかけて自分たちまで閉じ込めた線だったのか。

僕の足元に、濡れた跡がひとつ現れた。

僕の足ではない。

縁側の上、僕のすぐ隣に、誰かが立っている。

見えない。けれど、床板だけが沈んでいた。湿った草履の匂いが鼻の奥へ入り、汗ばんだ掌に冷気がまとわりつく。僕の隣の空気が、わずかに歪んでいる。

母の手が震えた。

「見ないで」

「母さん」

「名前を呼ばないで。返事もしないで」

庭の足跡が、またひとつ増えた。

その音は、足音ではなかった。

誰かが、僕の隣で草履を脱ぎ、左右を揃えて置いた音だった。

からん。

僕の視線が、足元へ落ちる。

そこには何もない。

けれど、縁側の板に濡れた跡が二つ、僕の足と並んでいた。片方だけが少し外を向いている。写真に写っていた男の草履と同じ向きだった。

僕の喉の奥で、声にならないものが動いた。

呼ぶな、と母は言った。

それでも、名前が浮かんだ。

夜明史郎。

その名を口にする前に、庭の暗がりから低い声がした。

「返してもらう」

母の指が、僕の肩へ食い込んだ。

声は怒鳴っていなかった。責めてもいなかった。ただ、家の中に置き忘れられたものを、取りに来た人間のように静かだった。

僕は足元の濡れ跡を見た。

家の外へ続くはずの足跡は、どこにも出ていない。庭を回り、家を囲み、最後には僕の隣へ戻ってきた。

外にいるものは、外へ出ていなかった。

家の中にいる僕たちの方が、ずっと前から、その歩みの輪の内側にいたのだ。

遠くで蝉が一匹だけ鳴いた。

すぐに止んだ。

静けさの中、僕は母の手を振りほどかなかった。代わりに、縁側の境目を見つめたまま、初めて自分の足を引かなかった。

線香の煙が、足元へ流れてくる。

白い煙は濡れた跡の上で沈み、見えない誰かの草履をなぞるように、庭の暗がりへ戻っていった。

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足跡が庭を回る夜 - 返せぬ草履 - 誰でも作家life