第5話 寺の境内で聞いた名前

夜が明けきる前に、僕は家を出た。
玄関の三和土には、親族の履物がまだ雑然と並んでいた。革靴、サンダル、誰かの子どもの運動靴。その中に、あの草履はない。当然だ。あれは玄関に置かれたことなど一度もなかった。縁側の灯りの下だけが、あれの居場所だった。
外へ出ると、山の稜線がようやく薄紫色に滲み始めていた。蝉はまだ鳴いていない。この土地の朝は、音が戻るまでに長い準備がいるらしい。僕の足音だけが、湿った砂利道に規則正しく落ちていく。
坂を下りながら、僕は昨夜のことを何度も反芻していた。鏡の中で動いた草履。廊下に残った濡れた跡。耳元で聞こえた、低い声。――返してもらう。あの声には、怒りがなかった。恨みがなかったわけではないだろう。けれど、それを表に出すつもりもないように聞こえた。まるで、当然の手続きを口にしただけのような、静かさだった。
母は昨夜、僕に日記帳を持っていけと言った。持っていてほしくないのに、預かればまた同じことになる、と。あの言葉の意味を、僕はまだ半分も理解できていない。だが少なくとも、母がこの家のやり方を、もう自分の代では続けられないと感じ始めていることだけは分かった。
寺の門が見えてきたとき、ようやく一番鶏が遠くで鳴いた。
境内は、掃き目がまだ真新しく残っていた。竹箒の跡が、砂利の上に規則的な波を描いている。朝露が、その波の上でひとつひとつ小さく光っていた。僕はその整然とした美しさに、少しだけ息を整えることができた。御堂家の縁側とは違う。ここには、誰かが隠しているものの気配がない。少なくとも、表面には。
本堂の奥から、線香の匂いが静かに流れてきた。御堂家のそれとは違う。湿っていない。乾いた木と、古い紙の匂いに近い、澄んだ匂いだった。
敷居の前で、僕は足を止めた。
了賢は文机の前に座っていた。膝の上に、擦り切れた過去帳を広げている。僕の足音を聞いたはずなのに、顔を上げなかった。指を頁の上に置いたまま、視線だけをゆっくりとこちらへ向ける。急かす気配は少しもなかった。むしろ、僕が自分の言葉を整えるまで、いくらでも待つつもりだというのが、その静かな姿勢から伝わってきた。
「朝早くに、すみません」
「いや」
了賢はそれだけ言うと、数珠を一度だけ指で撫でた。乾いた珠が触れ合う、小さな音がした。
「眠れなかったのでしょう」
断定だった。訊ねてはいなかった。
「はい」
「縁側に、何か置かれましたか」
僕は頷いた。頷いてから、自分がまだ何も詳しく話していないのに、了賢がすでに知っているような口ぶりだったことに気づいた。
「草履です。左右きれいに揃えて。最初は一足でしたが、今は増えています。濡れた足跡が、庭を回るように残っていて。鏡台の中にだけ、現実にはない数の草履が映ることもありました。それから――」
言葉が、喉の途中で止まった。祖母の日記の話をするべきかどうか、僕はまだ迷っていた。それは家の恥を、この人に見せることでもある気がした。
「祖母の部屋から、日記帳が出てきました。表記のない、古い帳面です。そこに、七回忌の夜にだけ意味を持つらしい手順が書かれていました。灯りは縁側へ。草履は揃える。家の者は跨がない。それから――返す、と」
了賢は、僕の言葉を遮らなかった。最後まで聞いてから、ゆっくりと目を伏せた。長い沈黙があった。線香の煙が、本堂の梁のあたりでゆるやかに渦を巻いている。僕はその沈黙の重さに耐えながら、ふと、この人はどこまで知っていて、どこから先を隠しているのだろうと考えた。
「その帳面は、持ってきましたか」
「はい」
僕は日記帳を差し出した。古布に包んだ封じ札も一緒に膝の上へ置いたが、了賢はそちらへは手を伸ばさなかった。日記帳だけを、両手で丁寧に受け取る。紙の端を確かめるように持ち、目を伏せたまま、少しずつ頁をめくっていった。
その手つきは、僕が祖母の遺品に触れるときとよく似ていた。紙の角を立てない。布越しではないのに、まるで生きているものに触れるような慎重さがあった。
「晴江さんの字だ」
了賢はそう呟いた。懐かしむような響きはなかった。ただ、確認するための、事実の名指しだった。
「祖母をご存知だったんですか」
「檀家として、長く」
それだけ答えると、了賢は棚の奥から、別の紙束を取り出した。表紙には何も書かれていない、寺の控えらしい古い記録だった。紙の端は湿気で波打ち、墨の線は擦れて読みにくい。それでも了賢の指は、迷いなくある頁で止まった。
僕は身を乗り出した。
御堂家、という文字がまず目に入った。その隣に、もう一つ名があった。
夜明。
その二文字だけが、周囲の文字よりもわずかに強く紙へ食い込んでいるように見えた。まるで、書いた人間が、そこだけ筆に力を込めたかのように。
「夜明、史郎」
僕がその名を口にした瞬間、了賢はまだ何も言っていないのに、視線を庭の方へ向けた。石畳の間に落ちた小さな影が、風もないのに、わずかに揺れた。
「その名前を、どこで」
「日記の最後の頁に、削られた文字がありました。ほとんど爪で消されていて、二文字だけ読めました。史郎、と」
「消されていた」
「はい」
「削ったのは、晴江さんでしょう」
了賢の声は、責める響きを持っていなかった。ただ、事実を並べる声だった。だからこそ、僕の胸には重く残った。
「昔、この家は」
了賢はそこで、一度言葉を切った。数珠を持つ指が、ゆっくりと一周した。僕はその沈黙の間、息を止めるようにして待った。急かせば、この人は口を閉じてしまう。そういう気配があった。
「ひとりの男を、村から外した」
その言い方には、いくつもの選び直しの跡があるように聞こえた。追い出した、ではなく、外した。もっと直接的な言葉があったはずなのに、了賢はそれを使わなかった。
「外した、というのは」
「居場所を、なくさせたということです。手を下したわけではない。誰も殴らなかったし、誰も家を焼かなかった。ただ、村の寄合から外し、井戸を使わせず、祭りの列にも入れなかった。仕事も回らなくなった。それだけのことです。それだけのことで、人は住む場所を失う」

「なぜ、そんなことを」
了賢はすぐには答えなかった。過去帳の頁を、指の腹でそっと押さえたまま、庭の方をもう一度見た。
「理由は、村の都合だったとしか言えません。私も、その理由の全てを知っているわけではない。ただ、御堂家がその処理の中心にいたことは、この記録が示している」
「祖母も」
「晴江さんは、その場にいました」
その一言は、僕の胸の奥へ、静かに、しかし確実に沈んでいった。
「止めたんですか。それとも」
「止めては、いません」
了賢は、僕の目を見た。
「けれど、先頭に立って追ったわけでもなかった。あの人は、場を整える側に回ったのです。誰かが激すれば宥め、誰かが行き過ぎれば止め、事が荒立たないように、静かに収めた。そうすることで、御堂家の名を守った」
「それは」
僕は言葉を探した。喉の奥に、何かが貼りついたようだった。
「それは、加担していたということですか。それとも、止められなかっただけですか」
「あなたは、その二つが違うものだと思いますか」
問いに問いで返されて、僕は答えられなかった。
了賢は静かに続けた。
「弔いというのは、本来、死者と生者のあいだに責任を置くための手続きです。誰が何をしたのか。誰が何を負うべきなのか。それを言葉にし、形にし、時間をかけて引き受けていく。そうすることで、死者はようやく死者になり、生者はようやく生者として続いていける。ですが、御堂家では、その手続きが別のものに変わってしまった」
「別のものって」
「終わらせるための手続きではなく、見えなくするための手続きに」
僕は日記帳の頁を思い出した。灯りは縁側へ。草履は揃える。家の者は跨がない。名を呼ばない。あれは弔いの作法だと思っていた。けれど、あれは同時に、誰かを迎え入れないための、選別の手順でもあった。
「祖母は、その手順を、いつ作ったんですか」
「男が外された、その後のことだと思われます。因縁が絶えないと分かってから、晴江さんは自分の代で、それを収める方法を探した。断ち切る、ではなく、収める、という言葉を私は使います。断ち切ることは、罪を認めることに繋がる。収めることは、罪を見えない場所へ置くことで済む」
「祖母は、罪を認めなかったんですか」
了賢は、しばらく黙っていた。線香の灰が、静かに崩れる音がした。
「晴江さんは、最後まで、それを決めきれなかった人だったと思います」
その言い方に、僕は不思議と救われた。断罪でも、擁護でもない。ただ、決めきれなかった、という言葉だけが、祖母という人間の輪郭を、これまでよりも少しだけ生々しく浮かび上がらせた。
「決めきれなかったから、日記に書いたんでしょうか」
「書き残すという行為は、誰かに読まれることを、どこかで望んでいるものです。完全に隠すつもりなら、燃やせばいい。晴江さんは、燃やさなかった」
「それは」
「あなたに、読ませるつもりだったのかもしれません。少なくとも、私にはそう思えます」
僕は膝の上の古布を見た。中の封じ札は、白いままだった。何も書かれていない紙。だが、あの夜、灰色の筋を浮かべたことを、僕は知っている。
「この札は、何のためにあるんですか」
「それは、あなた自身が使い方を決めるべきものです。私が言えるのは、それがふたつの役目を負ってきたということだけです。ひとつは、怪異と呼ばれるものを抑えるため。もうひとつは」
「もうひとつは」
「家の恥を、見えなくするためです」
了賢はそこで、初めて僕の目をまっすぐに見た。
「同じ札が、両方の役目を果たせてしまう。それが、この土地の作法の恐ろしいところです。守るためのものと、隠すためのものが、同じ形をしている。使う者の心ひとつで、意味が変わってしまう」
僕はしばらく、何も言えなかった。庭の柿の木の葉が、風もないのに一枚、静かに裏返った。
了賢は日記帳を、僕の手に戻した。
「あなたが今、家に戻れば、また草履が増えているでしょう」
「なぜ、分かるんですか」
「あれは、迎えられなかった夜の続きです。一度始まった手続きは、途中で止めれば、余計に長く尾を引く。晴江さんが、それを分かっていたから、あの日記を書いた」
「僕は、どうすればいいんですか」
了賢は、すぐには答えなかった。数珠を撫で、視線を庭へ向け、それから、ゆっくりと言った。
「弔いを、正しい手続きに戻すことです。誰が何を負うべきなのかを、言葉にすること。ただし、それは私が代わりにできることではありません。あなたが、あなたの言葉で、しなければならないことです」
寺を出るころ、僕は境内の裏手で、欠けた封じ札の断片を見つけた。土に半分埋もれて、紙の端だけが白く覗いていた。了賢はそれを一瞥しただけで、驚く様子もなく、ただ「落ちるところに落ちたんでしょう」と言った。
帰り道、山里の朝は、まだ静かだった。蝉は鳴き出していない。遠くの沢の音だけが、細く長く続いている。僕は日記帳を胸に抱え、寺の門を振り返った。屋根の向こうに、白い夏雲が、息苦しいほど分厚く積まれていた。
名前を知っただけで、見えていないものの輪郭が、これほど濃くなるとは思わなかった。夜明史郎。その名前は、もう僕の中で、ただの記録の文字ではなくなっていた。
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