第4話 紙の匂いが抜けない朝

朝になっても、縁側の灯りは消えたままだった。
行灯の芯を落としたのは僕なのに、暗がりの中で、灯りの輪だけが残っているように見えた。板の上には何もない。草履も、濡れた足跡も、そこに立っていた影もない。けれど、見えなくなったものが消えたわけではないことを、僕はもう知っていた。
祖母の部屋で夜を明かした僕は、日記帳と封じ札を胸に抱えたまま、台所へ移った。佳代は流しの前にいなかった。家の中には、眠っている人間の気配がいくつもあった。寝返りの音、布団の擦れる音、誰かの咳。どれも生きている者の音なのに、薄い障子を隔てた向こうから聞くと、ひどく遠い。
台所の隅に座り、日記帳を膝へ置く。
畳は夜の湿り気をまだ抱えていた。指をつくと、冷たさが掌から腕へ上がってくる。線香の匂いは家の木に染みつき、朝の味噌汁の出汁や、濡れた布巾の生臭さに混ざっていた。窓の外では、蝉がまだ鳴き始めていない。山里の朝は、音が戻るまでの時間が長い。
僕は古布をほどいた。
封じ札は、白いままだった。
昨夜、札の中央に浮かんだ灰色の筋は消えている。何も書かれていない紙。ただの紙に戻ったように見えた。けれど指で触れると、表面のざらつきが皮膚へ引っかかった。湿っているわけではないのに、掌の熱を吸い取られる。
僕は札を日記帳の脇へ置き、表紙を開いた。
最初の頁には、昨夜読んだ言葉が並んでいた。
――七回忌の夜。
――灯りは縁側へ。
――草履は揃える。
――家の者は跨がない。
――返す。
何度も読んだはずなのに、朝の光の下では文字の形が違って見えた。夜には呪文のようだった字が、今は祖母の手順書に見える。茶碗の数、線香を立てる位置、障子を閉める時刻。台所の棚を開ける順番まで書かれている。
供養のための記録にしては、あまりにも細かい。
そして、あまりにも人を選んでいた。
僕は頁を繰った。
日付の下に、短い文章が続いている。
――灯りを見せる者は、家の者からひとり。
――外へ出る者は、履物を揃えて置く。
――呼ばれても、返事をしない。
――名を呼ばない。
その頁だけ、字が乱れていた。墨が紙へ食い込み、筆先が何度も同じ場所を往復している。祖母の文字はいつも、どれほど急いでいても姿勢を崩さなかった。けれどこの頁では、線の終わりが震え、文字と文字の間がつぶれている。
僕は「名を呼ばない」という一文を指でなぞった。
夜、鏡の中から聞こえた声が蘇る。
――返してもらう。
あれは誰の声だったのか。声の高さも、息の混じり方も、もう思い出せない。ただ、僕の名前を呼ばなかったことだけは覚えている。結人、と呼ばれなかった。だからこそ、その声は僕に向けられたのだと思った。
「朝から、そんなものを広げているの」
佳代の声がした。
僕は日記帳を閉じなかった。
母は台所の入口に立っていた。白い割烹着の上に薄いカーディガンを羽織っている。髪は整えてあるが、右側だけが少し乱れていた。佳代はそれに気づいているはずなのに、直そうとしなかった。彼女が自分の乱れを放っておくのを、僕は初めて見た。
「眠れなかった」
「私もよ」
母はそう言って、味噌汁の鍋へ火をつけた。小さな青い炎が、鍋の底を舐める。佳代は具の量を確かめ、椀を二つ出した。椀の位置を揃え、箸を並べ、湯呑みを置く。その一つひとつの動作が、昨日までより遅かった。
「草履は?」
「分からない」
「見てないの?」
「朝、縁側を見たわ。何もなかった」
「じゃあ、誰かが片づけたんだ」
佳代は味噌汁をよそった。
「そうかもしれないわね」
「母さんが?」
「違う」
「親族の誰かが?」
「さあ」
「夜明史郎という名前を知ってる?」
椀を持つ母の指が止まった。
湯気が、僕たちの間を白く横切った。味噌の匂いは懐かしいはずなのに、線香と混ざると、どこか土の中の匂いに似ていた。
「どこで聞いたの」
「日記に書いてあった」
「その名前が?」
「正確には、史郎という二文字だけ。写真に写っていた草履と、鏡の中に立っていた影が、同じものを履いていた。寺へ行けば、もっと分かると思う」
「寺へは行かないで」
「どうして」
「了賢さんは、知っていることを全部は言わないから」
「母さんは知っていることを全部言うの?」
佳代は椀を置いた。
「私は、あなたを困らせるために黙っているんじゃないわ」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるから、余計に苦しいんだよ」
母は僕を見た。
「あなたは、黙っている人間をすぐに嘘つきにする」
「してない」
「しているわ。黙っているのには、黙っているなりの理由がある。家族の誰かが倒れたとき、病院へ連れて行くのは誰? 親戚が揉めたとき、頭を下げるのは誰? 村の人間が余計なことを言ったとき、笑って聞き流すのは誰? 私は、あなたが知らないところで何年もそれをしてきたの」
「だから、何も言わなくていいの?」
「言えば済むことばかりじゃないのよ」
「言わなければ済むことでもない」
母の口元が固くなった。
「あなたは、正しいことを言えば、正しい場所へ戻れると思ってる」
「思ってない」
「思っているわ。罪を言葉にすれば、罪を引き受けたことになる。謝れば、相手が許す。記録に残せば、消えた人間が戻ってくる。そんなふうに、言葉を信じすぎている」
「じゃあ、言葉に何の意味があるの」
僕は日記帳へ手を置いた。
「祖母さんは書き残した。何を返すのかは書かなかったけど、返す夜があることは残した。母さんが言わないなら、祖母さんの字から読むしかない。僕は、見たものをなかったことにできないんだ」
「それが、あなたの強さだと思っているの?」
声に棘はなかった。だからこそ痛かった。
「見たものを忘れられないだけだよ」
僕は味噌汁の椀を見た。表面に浮いた油が、天井の明かりを細く映している。
「人の顔を見ると、何を飲み込んだか分かる。母さんが話を変えるとき、親族が目を逸らすとき、誰かが笑っているふりをするとき、気づいてしまう。でも、気づいたあとで何も言えない。そういう自分が嫌なんだ。だから、せめて祖母さんの残したものくらいは、見たままにしておきたい」
佳代は黙っていた。
やがて、鍋の中で味噌汁が小さく煮立った。母は火を弱めた。椀の縁に指を添え、位置をまた少しだけ直す。
「晴江さんは、あなたに家を渡したかったのかもしれない」
「家を?」
「家という建物じゃないわ。この家が何をしてきたか、その重さを」
「祖母さんが、そんなことを?」
「最後まで、決めきれなかった人よ」
佳代は窓の外を見た。
朝の庭は、昨夜の闇をすっかり消したように明るかった。濡れた葉の先から水滴が落ち、土の上で小さな音を立てている。縁側の板には、草履があった場所だけ、色の濃い跡が残っていた。
「晴江さんは、守ることと隠すことの区別がつかなくなっていた。最初は誰かを傷つけないためだったのかもしれない。でも、秘密は長くなるほど、守る対象を変えるの。最後には、人ではなく家そのものを守り始める」
「夜明史郎は、その家に何をされたの」
母は答えなかった。
僕は日記帳の頁を開き、乱れた文字を示した。
「草履を返す夜。縁側を跨がせない。名を呼ばない。これだけ書いてある。誰かが来ることは知っていたんだよね。祖母さんは、史郎という名前を消そうとした。でも、全部は消せなかった」
「名前を消すのは、死なせることと同じだと思う?」
「少なくとも、生きている人間にすることじゃない」
「そうね」
母の返事は小さかった。
「でも、この土地では、名前を残すことが、その人をさらに危険にすることもあったのよ。誰かが村に逆らった。誰かが家の秘密を話した。誰かが、御堂家から与えられた仕事を断った。そういう人間の名を帳面に残せば、次に困るのはその家族だった。だから皆、名前を消すことを、守ることだと思った」
「史郎さんも、何かを話したの?」
「私は知らない」
「知らない顔じゃない」
「あなたは、人の顔を見すぎるのよ」
「母さんは、知っている人の顔をしてる」
佳代は、椀の横に置かれた箸を一本だけ持ち上げた。箸先を布巾で拭き、もう一本も同じように拭う。必要のない動作だった。
「話すと、戻れなくなるわ」
「もう戻れないよ」
「何が?」
「草履を見た夜から、僕はこの家を前と同じには見られない」
母の手から箸が落ちた。
乾いた音がした。
佳代はすぐに拾おうとしたが、僕が先に手を伸ばした。箸は畳の上で、左右をばらばらに転がっていた。僕は反射的にそれを揃えた。揃えてから、自分が祖母と同じ所作をしていることに気づく。
母はその手元を見ていた。
「それを、やめられないのね」
「何を?」
「揃えること」
僕は答えられなかった。
物が乱れていると、どこかに不都合なものが隠れている気がする。左右を揃え、角を合わせ、順番を整えれば、少なくとも目の前のものだけは見失わずに済む。祖母の遺品に触れるとき、紙の角を立てず、布越しに持つのも同じだった。壊さないためではなく、壊したあとで何もなかった顔をする自分を見たくないからだった。
「寺へ行く」
僕は言った。
「今日は、親族の片づけがあるでしょう」
「昼までには戻る」
「了賢さんに何を聞くの」
「日記に書かれている作法の意味。夜明史郎という名前が、寺の記録にあるかどうか。それから、祖母さんが何を返そうとしていたのか」
「聞けば、あなたもこの家の外へは戻れなくなる」
「それでも行く」
母は長いあいだ僕を見た。
「あなたは、私を責めたいのね」
「責めたいんじゃない」
「では、何をしたいの」
「知りたい。母さんが誰を守るために黙っているのか。祖母さんが何を閉じ込めたのか。僕が今まで、何を知らないまま家族の一員でいたのか」
「知って、どうするの」
「まだ分からない」
「分からないまま進むのは、正しいことなの?」
「正しいかどうかを決めるために、知るんだと思う」
佳代は視線を落とした。味噌汁の湯気が消え、椀の中身が静かになっていく。
「結人」
「うん」
「もし、了賢さんに何か言われても、家族をすぐに悪者にしないで」
「分かってる」
「晴江さんにも、私にも、選べなかったものがあるの」
「選べなかったんじゃなくて、選んだんじゃないの」
言ってから、僕は後悔した。
母の顔がわずかに強張った。けれど、怒鳴らなかった。佳代は箸を揃え、椀を持ち上げ、冷めかけた味噌汁を一口飲んだ。
「そうね」
その声は、湯気の消えた台所に沈んだ。
「選んだのよ。選ばなかったという形を、選んだ」
母は立ち上がった。
「それでも、あなたには選び直してほしい」
「母さんは?」
「私はもう、選び直せないところまで来ているから」
佳代は食器を流しへ運んだ。背中が遠ざかる。僕は呼び止めなかった。呼び止めれば、また言葉を選び直してしまう気がした。
残された日記帳の頁へ目を落とす。
乱れた文字の下に、薄く別の筆跡が重なっていた。祖母の字ではない。墨が黒く、線が細い。頁を斜めに傾けると、光の角度でようやく読めた。
――返すのは、履物だけではない。
僕は指先を紙から離した。
その一文の下には、何かが書き足されていた。けれど、紙の繊維ごと削られている。爪で何度も引っかいたような跡の奥に、かろうじて一文字だけ残っていた。
――名。
庭のどこかで、乾いた音がした。
からん。
僕は顔を上げた。
縁側には、何もない。
それでも、灯りの消えた床の上に、左右を揃えた草履の輪郭が浮かんだ気がした。朝の光の中で見るそれは、夜ほど恐ろしくないはずだった。けれど、目を凝らすほど、草履の先がこちらへ向いているように見えてくる。
僕は日記帳を閉じた。
表紙の布に、指先の汗が小さな跡を残した。祖母の字を、もう一度確かめなければならない。母の沈黙だけではなく、了賢の記録も、鏡台に映ったものも、庭に残った足跡も、ばらばらのままでは終われない。
玄関へ向かうため立ち上がる。
その瞬間、閉じた日記帳の内側で、紙が一枚めくれた。
風はなかった。
僕は開かなかった。開けば、また何かがこちらを待っている気がしたからだ。
けれど表紙の隙間から、祖母の字が一行だけ覗いていた。
――草履を返す夜は、家の者が外へ出る夜でもある。
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