3話 灯りの外縁

母が襖を閉めたあとも、僕はしばらく動けなかった。

祖母の部屋には、紙と古布と、消えかけた線香の匂いが残っていた。障子の向こうに縁側がある。そこには、見知らぬ草履が置かれている。そう思うだけで、部屋の空気が一枚、薄くなるようだった。

膝の上の日記帳は、古布に包んだ封じ札と一緒に、ずしりと重かった。紙と札を合わせても、手のひらに収まるほどのものだ。それなのに、持ち主のいない時間まで預けられたような重さがある。

僕は日記帳を閉じ、表紙を撫でた。

祖母の手を思い出そうとした。麦茶の瓶を持つ手。裁縫箱から糸を選ぶ手。僕が縁側へ出ようとしたとき、草履の向きを直してから、静かに袖をつかんだ手。

――外にいるものを、家の中へ入れてはいけないよ。

あの言葉を、僕はずっと子どもへの注意だと思っていた。夜に庭へ出れば蚊に刺される。縁側から落ちれば怪我をする。古い家には、そういう言い聞かせがいくつもある。

でも、祖母はあのとき、庭ではなく僕を見ていた。

僕が何を聞いたのかではなく、何を見てしまったのかを確かめるような目だった。

廊下の方から、物音がした。

僕は顔を上げた。

足音ではない。何か硬いものを、床の上へ置いた音だった。小さく、乾いている。日記帳の上に封じ札を置いたときと、よく似ていた。

僕は立ち上がった。

出るな、と母に言われたばかりだった。けれど、出るなという言葉は、ここでは扉を閉めるためではなく、何かを見せないために使われている。そう思うと、部屋に留まることの方が怖くなった。

障子の前へ進み、指をかける。

外は暗い。

縁側の行灯は、現実より少し遅れて揺れていた。風はない。障子も閉まっている。それでも乳白色の光が、薄い水の中に沈んだようにゆらゆらと動いている。

灯りの輪の外に、草履があった。

さっきより近い。

置かれていた場所は、縁側の端だったはずだ。けれど今は、灯りの輪の中へ半分ほど入り込んでいる。鼻緒の編み目が見える。片方の先が板目に沈み、木の色を濃くしていた。

僕は障子を開けず、ガラス戸越しにそれを見た。

濡れているように見えるのに、水滴はなかった。草履の表面だけが、夜の湿気を吸い込んで黒くなっている。指で触れれば、ざらついた藁の感触が掌へ移ってきそうだった。

そのとき、庭の方から音がした。

たん。

畳を踏むより軽い音だった。

僕は息を止めた。

たん。

二つ目の音は、ひとつ目より近かった。庭から縁側へ、誰かが歩いてくる音だと思った。けれど、土を踏む音でも、石を踏む音でもない。木の床を、裸足ではない何かが確かめるように鳴らしている。

僕は振り返りかけた。

背後には祖母の部屋しかない。鏡台があり、閉じた襖があり、畳の上に僕の影があるだけだ。そう分かっているのに、振り返れば見てはいけないものが立っている気がした。

視線だけを鏡台へ向けた。

鏡の中には、縁側が映っていた。

現実の草履は一足だけなのに、鏡の中には三足あった。どれも灯りの輪の外に置かれ、先をこちらへ向けている。草履の間には濡れた足跡があり、誰かが庭を回ってきたことを示していた。

足跡は、鏡の中でだけ続いている。

縁側から庭へ出て、庭の奥を回り、もう一度縁側へ戻ってくる。ぐるりと家を囲むように、同じ重さの跡が並んでいた。

僕は鏡に近づいた。

近づいたのは自分なのに、鏡の中の僕は少し遅れて動いた。

ほんのわずかなずれだった。目の錯覚だと思おうとした。疲れている。法要のあとで眠っていない。線香の匂いを吸いすぎた。そう考えれば、説明はつく。

けれど、鏡の中の草履が一足、僕の方へ向きを変えた。

僕は動いていない。

鏡の中の僕も動いていない。

動いたのは、草履だけだった。

喉の奥に声が貼りついた。叫ぶことはできなかった。恐怖を感じると、僕はいつもそうなる。身体の内側で何かが固まり、代わりに目だけが、逃げ道を探して動き続ける。

鏡の中の草履の前に、影が立った。

人の脚に見えた。けれど、膝から上は灯りの外へ溶けている。足元だけがはっきりしていた。古びた草履。片方の鼻緒が擦り切れ、右足の先が少し外を向いている。

引き出しから出した写真に写っていた、男の足元と同じだった。

鏡の中の影は、縁側を跨がなかった。

ただ境目の前に立ち、こちらを待っている。

待っているということが、声よりはっきり分かった。

僕は鏡から目を逸らし、障子を開けた。

夜気が部屋へ流れ込んできた。湿った木の匂いがする。汗ばんだ手のひらに、日記帳の布表紙が張りついた。

「結人」

背後から母の声がした。

僕は振り向いた。

佳代は廊下に立っていた。白い割烹着の袖口を撫で、いつものように乱れを直している。けれど、袖は乱れていない。指を動かすためだけに動かしているのだと分かった。

「部屋から出ないでって言ったでしょう」

「母さんこそ、台所にいるんじゃなかったの」

「水を確認していたの」

「水?」

「蛇口が閉まっているか。排水口にものが詰まっていないか。そういうことよ」

「今、それをする必要がある?」

「必要があるからしているの」

「草履が動いているのに?」

母の手が止まった。

その沈黙は短かった。けれど、佳代が考えているのではなく、言ってはいけない言葉を選別している時間だと分かった。

「動いていないわ」

「見たでしょう」

「見ていない」

「鏡の中に、三足あった」

「鏡なんて見ないで」

「どうして?」

「見るものじゃないから」

「祖母さんも、そう言っていた?」

「晴江さんは、言葉で教えなかったでしょう」

母は廊下の床へ視線を落とした。僕はその視線の先を追った。

廊下には、細い濡れ跡があった。

縁側から続いている。人が歩いた跡には見えない。片足ずつの形はなく、黒ずんだ水が、床板の継ぎ目に沿って伸びている。けれど、その間隔は一定だった。誰かが歩くたび、床へ重さを置いたような間隔だった。

「これも見ていない?」

訊くと、母は答えなかった。

「母さんは、何を待ってるの」

「待っていないわ」

「じゃあ、何を恐れてるの」

「恐れているんじゃない。家を保とうとしているの」

「家を保つって、どういうこと?」

佳代は僕の手元の日記帳を見た。

「あなたは、家を建物だと思っているでしょう。柱があって、屋根があって、人が住んでいる場所。でも、ここで家というのは、そういうものじゃないの。誰が誰を親と呼ぶか、誰がどの席に座るか、誰の名前を帳面に残すか。何を覚え、何を忘れるかまで含めて、家なのよ」

「だから、忘れたことにしたの?」

「忘れたんじゃない」

「じゃあ、しまった?」

母の顔がわずかに歪んだ。

「そうやって言葉を選ぶところが、晴江さんに似ている」

「似ていたくない」

「本当に?」

佳代の声は、初めて僕を責めた。

「あなたは晴江さんの遺品を、紙の角ひとつ折らずに扱う。古い布を捨てられない。草履だって、あんなに怖がっているのに、納戸へ入れようとしない。そういうところは、あの人と同じよ。見たものを放っておけないくせに、壊すことはできない」

「祖母さんと同じなら、僕も誰かを外へ出すの?」

「そうなるかもしれない」

「母さんは、僕が何を選ぶか知ってるの?」

「知らないわ。だから怖いの」

佳代は長く息を吐いた。

「家の中の人間は、外から来た人よりも、家に残ったものを信じるようになるの。たとえそれが間違っていても、長く続いた手順には重さがある。ひとりが逆らえば、そのひとりだけが悪くなる。そうやって、誰も止められなくなったのよ」

「誰かが悪くならないために、別の誰かを悪者にしたんだね」

「そんな簡単な話じゃない」

「簡単じゃないから、話さなきゃいけないんじゃないの」

僕の声は震えていた。怒鳴ることはできなかった。けれど、黙ることもできなかった。

「僕は祖母さんが優しかったことを否定したいわけじゃない。母さんが僕を守ろうとしたことも分かってる。家を守るために、母さんがどれだけ動いてきたかも知ってる。でも、守った結果として、誰かが名前も居場所も失ったなら、そのことまで守るのは違うだろ」

「違うと言うのは簡単よ」

「簡単じゃない」

「あなたは、まだここを出られるから」

その言葉が胸へ刺さった。

佳代は僕の顔を見た。

「朝になれば、あなたは車に乗って帰れる。都会へ戻って、仕事をして、友達に会って、この家のことを少しずつ忘れていける。でも、私はここで暮らしてきたの。親族の顔を見て、村の人に挨拶をして、葬式の席順を決めて、誰かが余計なことを言わないように茶を出してきた。正しいかどうかじゃないの。そうしなければ、次の日の暮らしが続かなかったのよ」

「続くことが、いつも正しいわけじゃない」

「分かっているわ」

佳代は、思ったより早く答えた。

「分かっているから、苦しいのよ」

その瞬間、庭で何かが落ちた。

からん。

草履の鼻緒を金具で弾いたような音だった。

母が縁側へ顔を向ける。僕も同じ方向を見る。

灯りの輪の外に、人の影があった。

木の影かもしれない。庭に立つ柱の影かもしれない。けれど、影は柱より細く、こちらを向いていた。顔はない。肩の線も曖昧だ。ただ、足元だけが灯りの縁に触れている。

古い草履が、左右揃えて置かれていた。

影は、まだ履いていない。

「母さん」

僕が呼ぶと、佳代は僕の腕をつかんだ。

指が食い込むほど強かった。普段なら、痛いと言えばすぐに離す人なのに、今は離さない。

「灯りを消す」

「待って」

「消すの」

「何かいる」

「いるから消すのよ」

「消したら、見えなくなるだけだろ」

「見えなくなれば、家の中へ入らない」

「そんなの、もう入ってる」

母の指が震えた。

「結人」

「鏡に映ってた。廊下にも跡がある。これは外にいるものじゃない。家の中まで、もう来てる」

「だから灯りを消すの」

「何を隠すために?」

佳代は僕を見た。

その目に、怒りと疲れと、言葉にできない怯えが混じっていた。僕は母の顔を見ているだけなのに、ずっと昔の夜を覗き込んでいるような気がした。母がまだ若く、祖母の後ろに立ち、今と同じように手を動かしながら、誰かが外へ出ていくのを見ていた夜。

「灯りを消しても、返すものは消えないよ」

僕が言うと、佳代の唇がわずかに開いた。

庭の影が、一歩だけ近づいた。

音はしなかった。

けれど、縁側の板が沈んだ。

「消して」

佳代が言った。

僕は行灯へ手を伸ばした。

芯を落とすと、灯りはすぐには消えなかった。火が細く揺れ、草履の鼻緒を最後に一度だけ照らした。暗く濡れた編み目が、誰かの指の皺のように見えた。

火が消えた。

庭も、縁側も、母の顔も、すべてが闇に沈んだ。

それでも、草履の形だけは目の裏に残っていた。

僕は目を閉じた。

暗闇の中で、床板が鳴った。

ひとつ。

次に、もうひとつ。

誰かが縁側へ上がった音だった。

佳代の手が僕の腕から離れる。母が後ずさる気配がする。けれど、僕は振り返れなかった。振り返れば、そこに誰かがいる。見えなくても分かる。人の気配が、背中のすぐ後ろまで来ていた。

線香の匂いが濃くなった。

仏間から流れてきたのではない。僕の背後から、湿った煙が首筋を撫でている。汗ばんだ皮膚に、冷たいものが触れた。

耳元で、声がした。

低く、静かな声だった。

「返してもらう」

僕は振り返らなかった。

返事もできなかった。

ただ、胸に抱えた日記帳の表紙を、指が白くなるほど握りしめた。祖母の字が、暗闇の中で浮かんでくる。

返す。

縁側。

家の者は跨がない。

その言葉の意味を、まだ僕は知らない。

けれど、祖母が残した手順は、怪異を追い払うためだけのものではなかった。何かを家の外へ置き、何かを家の中へ残すための手順だった。

僕たちは死者を弔っていたのではない。

誰かを、帰れない場所へ置き去りにしていたのだ。

暗闇の中で、草履が一度だけ擦れた。

それから気配は、庭の方へ遠ざかっていった。

朝まで、僕は眠れなかった。

灯りの消えた縁側には、何も見えなかった。けれど、見えないことが安全ではないと、もう分かっていた。

目を閉じても、草履は揃っている。

誰かが帰ってきた印ではなく、家が返すべきものを、静かに催促するように。

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灯りの外縁 - 返せぬ草履 - 誰でも作家life