2話 祖母の部屋の引き出し

母に言われた草履を納戸へ運ぶことはできなかった。

縁側に残したままにしておくのも気が引けて、僕はしばらく座敷と庭の境目に立っていた。灯りの輪の中で、草履は左右を揃えたまま黙っている。近づけば触れられそうなのに、手を伸ばした瞬間、こちらの方が何かに触れ返される気がした。

結局、僕は盆だけを台所へ戻した。

佳代は流しの前に立ち、法要で使った茶碗を洗っていた。水道の水は勢いよく流れているのに、母の手は妙に静かだった。茶碗を一つすすぎ、布巾の上へ伏せる。次の茶碗を取る。その動作を、ほとんど同じ速さで繰り返している。

「草履、納戸に入れた?」

「まだ」

母の手が止まった。

「どうして?」

「触れなかった」

「触らなくても運べるでしょう。紙か何かで包めばいいのよ」

「母さんは触れるの?」

「私は、見ていないから」

水音だけが残った。

僕は流し台の脇に置かれた白い布巾を見た。法要のあいだ、母が何度も手にしていたものだった。端まできれいに折られ、汚れひとつない。母はそれを取ると、まだ濡れてもいない台所の木目を拭き始めた。

「見ていないなら、どうして納戸に入れる場所を知ってるの」

「結人」

「ごめん。でも、あれは誰の草履なの」

「知らないって言ったでしょう」

「知らない人の草履が家の縁側にあって、母さんは納戸の奥へしまえと言う。僕には、その二つが同じ話に聞こえない」

母は布巾を畳み直した。縦に二つ折りにしてから、さらに横へ折る。角が合わず、ほんの少しだけ端がずれた。母はそれを見つけると、爪の先で布を引き、今度はきっちり揃えた。

「知りたいなら、明日にして」

「明日になったら教えてくれる?」

「明日になれば、気持ちが変わるかもしれないでしょう」

「僕の?」

「家の」

母はようやく僕を見た。

「今夜は七回忌の夜なの。法要を終えたあとに、家の中をひっくり返すようなことをするものじゃないわ」

「ひっくり返してるのは、僕じゃない」

「そういう言い方をしないで」

「じゃあ、どう言えばいいの。何もなかったことにして、草履をしまって、祖母さんの部屋にも入らずに寝ればいい?」

「それが一番いいのよ」

母の声は大きくなかった。けれど、そこで初めて疲れが混じった。怒りではない。長いあいだ同じ場所に立ち続けた人の、足の裏に沈んだ疲れだった。

「母さんは、祖母さんが何を隠していたか知ってるの」

僕がそう言うと、佳代はすぐに答えなかった。

答えないことは、知らないこととは違う。僕は昔から、その差だけはよく分かった。知らない人は、考えるために目を動かす。母は目を動かさなかった。手元の布巾を見つめたまま、呼吸だけを浅くしていた。

「晴江さんは、あなたが思っているような人じゃないわ」

「どういう意味?」

「人は、ひとつの顔だけで生きていけないのよ」

「祖母さんが優しかったことまで、嘘だったと言いたいの?」

「そんなこと言ってないでしょう」

「でも、何かを隠してたんだね」

「隠していたんじゃない。しまっていたの」

「何を?」

母は答えなかった。

台所の奥で、冷蔵庫が低く唸った。仏間から流れてきた線香の匂いが、換気扇の風に押されて、僕の方へ戻ってきた。煙は見えないのに、喉の奥だけが苦くなる。

「祖母さんは、僕には話を聞いてくれた」

「ええ」

「くだらない話も、都会の学校の話も、何でも」

「ええ。あの人は、あなたの話を聞くのが好きだった」

「じゃあ、どうして肝心なことは何も話してくれなかったの」

佳代の指が、布巾の端をつまんだまま動かなくなった。

「聞かれなかったからよ」

「子どもの僕が聞けるわけないだろ」

「聞こうとしたことはあったでしょう」

母の声が、少しだけ遠くなった。

「縁側のことを聞いた。外にいるものって何なのか、どうして跨いじゃいけないのか。晴江さんは答えなかった。あなたは泣いて、私はあなたを車に乗せて帰った。あの人はそのあと、何もなかったみたいに麦茶のコップを洗っていた」

「母さんは知ってた?」

「何を?」

「答えを」

母は視線を落とした。

その仕草を見た瞬間、僕の中で何かが決まった。決意というほど強いものではない。ただ、もう母の口から答えが出るのを待っているだけでは駄目だという、薄くて硬い感覚だった。

「祖母さんの部屋に入る」

「やめなさい」

「遺品の整理をするだけだよ」

「今夜は駄目」

「どうして?」

「今夜だからよ」

「七回忌の夜だから?」

母は黙った。

黙ったまま、流しの蛇口を閉めた。水の音が消えると、家の奥にある音が一斉に近づいてきた。仏間の柱が軋む。誰かが廊下を歩く。いや、歩いたように聞こえただけかもしれない。足音は三つ。間隔が妙に揃っていた。

僕と母は、同時に廊下を見た。

誰もいない。

「今の、聞こえた?」

僕が訊くと、母は食器棚の扉を閉めた。

「寝なさい、結人」

「母さん」

「明日の朝には草履もなくなっているかもしれない。そうしたら、あなたも忘れなさい」

「なくなる?」

「そういうこともあるの」

「誰が持っていくの」

母の背中がこわばった。

「いいから、祖母さんの部屋には入らないで」

「それは、入ってはいけない場所だから? それとも、入ったら困るものがあるから?」

返事の代わりに、母は白い布巾を持って台所の奥へ消えた。

僕はその背中を追わなかった。

追えば、また別の話にすり替えられる。母はそういうことができる人だった。人を傷つけないようにしているように見えて、実際には傷の場所を誰にも触らせない。僕もそのやり方に何度も助けられてきた。家族の揉め事を避け、父と母の間に立たず、都会へ出てからも実家の話を深く聞かずに済んだ。

だからこそ、母を疑うことは痛かった。

母は僕を守ってきた。けれど、守られているという感覚の下に、何かを知らされないまま大人にされてきた空白がある。その空白へ、今夜の草履が静かに置かれていた。

祖母の部屋へ向かう廊下は、仏間より暗かった。

襖の前で、僕は一度立ち止まった。子どもの頃なら、ここで晴江の声を待った。入っていいよ、と言われるまで、襖の向こうに気配があっても手をかけなかった。祖母は部屋の中で、古い帳面を広げたり、裁縫箱の糸を巻き直したりしていた。僕が入ると、必ず手元を片づけてから顔を上げた。

今は、誰も許してくれない。

僕は襖の縁を指でなぞり、ゆっくり開けた。

紙と木と古い布が混ざった匂いがした。

法要の終わった家には人の体温が残っているはずなのに、祖母の部屋だけは冷えていた。窓は閉じている。縁側へ続く障子も閉じている。それでも、部屋の奥から湿った夜気が流れ込んでくるようだった。

鏡台は、縁側の方を向いていた。

鏡面には暗い障子と、ぼんやりした灯りが映っている。縁側の草履は鏡には見えなかった。見えないのに、鏡の中の灯りだけが、現実よりも明るく揺れていた。

僕は鏡台の前にしゃがんだ。

幼い頃、晴江はこの鏡台の前で髪を結っていた。白髪の混じった髪を手早くまとめ、最後に櫛の背で生え際を撫でる。僕が鏡に映り込むと、祖母は笑って、僕の寝癖を指で押さえた。

「結人は、何でも見つけるねえ」

そう言われた記憶がある。

そのとき僕は、隠していた飴玉を見つけたことを自慢していた。祖母は笑っていた。けれど、鏡の中の自分を見ながら、あの人は何を見つけられたくなかったのだろう。

鏡台の脇に、小さな裁縫箱が置かれていた。

僕はそれを開けなかった。蓋に触れただけで、指先が熱を持った。中にあるものを知っているからではない。そこに祖母の手の時間が残っていることを知っていたからだ。使い込まれた針山、糸の切れ端、布を裁つ小さな鋏。そういうものは、持ち主の死後も簡単には物にならない。

僕は鏡台の下段に手をかけた。

引き出しは、すぐには開かなかった。木が湿気で膨らんでいるらしく、取っ手を引くと、内部で紙が擦れる音がした。僕は一度手を離し、手ぬぐいを取りに戻った。祖母の部屋にあった、少し擦り切れた布を一枚、引き出しの取っ手へかませる。

直接触れたくなかった。

触れてはいけないからではない。壊したくなかった。

僕は、祖母の遺品に触れるときだけ、自分の指先が乱暴な道具になる気がした。紙の角を折り、布の繊維を引っかけ、木の表面に爪の跡を残してしまう。そんな小さな傷でさえ、晴江が黙って積み上げてきた時間を壊すように思えた。

引き出しが、ゆっくり開いた。

中には古い手紙と、何枚かの写真が入っていた。写真の裏には日付が書かれている。庭の柿の木。若い頃の佳代。知らない男たちが並んだ祭りの写真。どの写真にも、祖母の筆跡で短い説明が添えられていた。

ただ、一枚だけ裏返しに伏せられていた。

僕はそれを取った。

写真には、縁側が写っていた。今よりも板が新しく、庭の石灯籠もはっきり見える。縁側の手前に、男が一人立っていた。顔は写真の端で切れている。足元だけが残っていた。

草履を履いている。

片方の鼻緒が擦り切れ、右足の先が少し外を向いていた。

写真の裏には、何も書かれていなかった。けれど、指で触れると、紙の中央だけがわずかに膨らんでいる。僕は写真を光にかざした。裏側に何かが貼られているのではないかと思った。

そのとき、縁側の方で、かすかな音がした。

草履の鼻緒を指で撫でるような音だった。

僕は振り返らなかった。鏡台の中に、僕の背中と、縁側へ向いた灯りが映っている。鏡の端に、何か黒いものが入ったように見えた。目の錯覚かもしれない。けれど、黒い影は一瞬で消えず、鏡の縁に沿って細く伸びた。

僕は写真を伏せた。

引き出しの最下段をさらに引くと、奥に薄い木箱があった。箱の蓋には何も書かれていない。蝶番が錆び、開けるときに小さく鳴った。

中に、古い日記帳があった。

表紙には題名も名前もない。布張りの表面がところどころ擦れていて、背の部分だけが黒ずんでいる。手に取ると、紙の乾いた感触が掌に残った。僕は一度、襖の方を見た。母が戻ってくる気配はない。

それでも、勝手に持ち出すのが後ろめたかった。

「祖母さん」

声にしてから、自分でも驚いた。

「これ、読んでもいいの」

答えはなかった。

ただ、閉めたはずの縁側の障子が、ほんの少しだけ揺れた。

僕は日記帳を膝に置いた。表紙を開く。

最初の頁には、日付がなかった。墨の線だけが整然と並んでいる。祖母の字だった。いつもの、紙の上で姿勢を正したような字。

――七回忌の夜。

その下に、短い言葉が続いていた。

――灯りは縁側へ。

――草履は揃える。

――家の者は跨がない。

――返す。

僕は頁をめくった。

次の頁には、茶碗の数、線香を立てる位置、障子を閉める時刻が書かれていた。誰に見せる手順なのかは分からない。誰を待つ手順なのかも分からない。けれど、ただの供養の記録ではなかった。

「返す」という言葉だけが、何度も現れた。

返す。

返してはならない。

返さなければ、家の中へ入る。

その頁の一部は、途中から破り取られていた。破れた紙の根元に、祖母の指が強く押しつけられたような黒い滲みが残っている。書き損じて破ったのではない。誰かに読ませないために、急いで引き裂いたように見えた。

僕は日記帳を閉じかけた。

そのとき、最後の頁の隙間から、薄い紙片が滑り落ちた。

拾い上げると、そこにも祖母の字があった。

――名を呼ばれなかった者は、帰る場所を持たない。

その一文の下には、何か別の言葉が書かれていたらしい。爪で削ったように墨が消されている。残っているのは、かろうじて読める二文字だけだった。

――史郎。

喉の奥が狭くなった。

名前を見ただけなのに、庭の闇が一段深くなった。昼間、寺の老人が口にしかけていた古い話。母が草履を見て、戻ってきたと言ったこと。縁側の灯りの外で、何かがこちらを待っている気配。

それらが、ばらばらのまま僕の中で触れ合った。

引き出しの奥には、もう一つ、古布に包まれたものがあった。布は茶色く変色し、端に細い糸が出ている。僕は紙片を日記帳へ戻し、布を膝の上へ置いた。

ほどく前から、何が入っているのか分かっていたような気がした。

中には、白い札が一枚あった。

表にも裏にも、何も書かれていない。

ただ、紙の中央に指を置くと、冷たさが皮膚の奥へ染みた。濡れているわけではないのに、汗ばんだ掌が吸いつく。札を離したあとも、指先には紙のざらつきが残った。

僕は札を日記帳の上へ置いた。

その瞬間、鏡台の中で灯りが揺れた。

現実の行灯は揺れていない。けれど鏡の中では、縁側の灯りが細く伸び、床の上へ落ちていた。そこに、草履が映った。

一足ではなかった。

鏡の中の縁側には、何足もの草履が並んでいた。どれも左右が揃えられ、灯りの外へ向かって先をそろえている。僕が息を止めると、その中の一足だけが、ゆっくりこちらへ向きを変えた。

鏡の中の僕は、動いていなかった。

動いたのは草履だけだった。

僕は反射的に鏡台から離れた。膝が畳に触れ、古い藺草の匂いが立つ。喉から声が出なかった。出そうとすると、線香の煙を吸い込んだように胸が詰まる。

「結人?」

襖の外から、母の声がした。

僕は日記帳と札を、慌てて古布の上へ戻した。

「何でもない」

「何をしているの」

「遺品の整理」

「入らないでって言ったでしょう」

佳代が襖を開けた。

母は部屋へ一歩入ったところで止まった。視線が僕の膝元へ落ち、それから鏡台へ移る。鏡の中を見たのかどうか、僕には分からなかった。

「それを見つけたのね」

初めて、母が日記帳を見て言った。

「知ってたんだ」

「探していたわけじゃないでしょう」

「母さんは知ってたんだね」

「知っていたから、入るなと言ったの」

「何が書いてあるの」

「読んだの?」

「まだ全部は読んでない。でも、七回忌の夜のことが書いてある。縁側に灯りを置くこと。草履を揃えること。家の者は跨がないこと。それから、返すって」

母の顔から血の気が引いていった。

「返すものって何」

「閉じて」

「答えてよ」

「結人、今すぐ閉じなさい」

「祖母さんは、誰かを追い返したの?」

佳代は目を伏せた。

その沈黙の中で、仏間の方から線香の匂いが流れ込んできた。さっきより濃い。煙が見えないのに、部屋の空気だけが白くなったように感じる。

「母さんは、祖母さんのことを守ってるの。それとも、祖母さんがしたことを守ってるの」

「やめて」

「僕は祖母さんを悪い人だと思いたくない。でも、何も知らないまま、優しかった人として終わらせるのも嫌なんだ。優しかったなら、どうして誰かを縁側の外へ置いたの。家を守るためなら、誰かを追い出してもいいの。誰かの名前を消しても、家族の中だけが無事なら、それで供養になるの?」

「あなたに何が分かるの」

初めて、母の声が震えた。

「分からないよ。だから聞いてる」

「分からない人が、簡単に口にすることじゃないの」

「簡単じゃない。怖いから聞いてるんだ」

「怖い?」

「怖いよ。草履が置いてあって、母さんが見なかったことにしろと言って、祖母さんの日記には返すと書いてある。鏡には、ここにない草履まで映った。そんなものを見て、怖くないふりをしろって言うの?」

母は答えなかった。

僕は日記帳を見下ろした。紙の上の祖母の字は、いつも通り整っていた。人を安心させるための字。何かが崩れそうなときほど、線を乱さない字。

「祖母さんは、僕にこれを読ませるつもりだったのかな」

「そんなわけないでしょう」

「じゃあ、どうして捨てずに残したの」

「捨てられなかったのよ」

「祖母さんが?」

「私たちが」

母はそこで言葉を切った。

言ってしまったことに気づいたように、唇を結ぶ。僕は追及しようとした。けれど、母の顔に浮かんだものを見て、すぐには声が出なかった。怯えではない。罪悪感とも違う。長いあいだ誰かの代わりに口を閉ざしてきた人の、口の中に残る傷のような表情だった。

「誰が、捨てられなかったの」

僕が訊くと、母は鏡台を見た。

「晴江さんは、最後まで家を整えようとしていた」

「それは分かってる」

「分かっていないわ。家を整えるというのは、きれいにすることじゃないの。誰がどこにいて、誰をどこへ置くかを決めることなのよ。座る場所も、話す順番も、見せるものも見せないものも。そうしないと、ここでは何も続かなかった」

「続けるためなら、誰かを外に置いていいの?」

「良いなんて言ってない」

「でも、そうしたんだね」

「……そうするしかないと、皆が思ったの」

母の言葉は、ひどく静かだった。

「皆が思ったから、誰も止めなかった。止めなかったから、あとになって誰も自分だけの責任だとは言えなくなった。そういうことは、あなたが思うよりずっと簡単に起きるの。ひとりが戸を閉めて、ひとりが名前を書かず、ひとりが『もう終わった』と言う。そのたびに、誰かが少しずつ外へ押し出される。最後には、そこに最初から人がいなかったみたいになる」

母は僕を見なかった。

「だから、あなたには知らないでいてほしいの。知れば、あなたもこの家のやり方を選ばなきゃならなくなる。残るか、出るか。黙るか、誰かを傷つけるか。どちらを選んでも、きれいには済まないわ」

「母さんは、どっちを選んだの」

「私は、あなたをここから遠ざけた」

「それは答えになってない」

「私には、それが答えだったのよ」

母は日記帳へ手を伸ばした。

僕は咄嗟に押さえた。

「持っていかないで」

「返して」

「これは祖母さんのものだ」

「だからよ。晴江さんが残したものは、晴江さんが決めた場所へ戻すの」

「母さんが決めるんじゃない」

「この家では、そうやってきたの」

「それをやめたい」

言ってから、胸の奥がひどく冷えた。

母はゆっくり顔を上げた。まるで僕が別の言葉を口にしたように、何度も聞き直す目をしていた。

「やめるって、何を?」

「分からない。でも、少なくとも見なかったことにはしない」

「あなた一人で?」

「一人でも、見たものをなかったことにはできない」

「結人」

「僕は祖母さんを疑いたいわけじゃない。母さんも、誰かを責めたいわけじゃない。でも、祖母さんが守ったものが、誰かを傷つけた結果なら、その傷まで守ることはできない」

母の目が揺れた。

そのとき、縁側の方から、紙を床へ置くような小さな音がした。

僕たちは同時に振り向いた。

障子は閉じている。

けれど、鏡の中には縁側が映っていた。灯りの輪の端に、草履が一足、増えている。さっきまで鏡の中にあった何足もの草履ではない。現実の縁側に置かれていたものと同じ、鼻緒の暗い草履だった。

その前に、濡れた足跡がひとつだけある。

縁側の外から、こちらへ向かっていた。

母が息を呑んだ。

「札を閉じて」

「どうするの」

「日記帳の上に置いて、古布で包むの。早く」

「それで、また見えなくするの?」

「今夜だけでも、家を保たなきゃいけない」

「何から?」

佳代は答えなかった。

鏡の中で、足跡がもう一つ増えた。

草履の先が、わずかに縁側の奥へ向いた。

「母さん、これを閉じたら、何が起きるの」

「分からない」

「本当に?」

「分からないのよ。だから、閉じるしかないの」

僕は封じ札を手に取った。

白い紙は、さっきより温かかった。僕の掌の汗を吸っているのか、それとも紙の方から熱を返しているのか分からない。指先にざらつきがまとわりつき、札の中央に、薄い灰色の筋が浮かんだ。

文字ではなかった。

誰かが指でなぞった跡のようだった。

僕は札を日記帳の上へ置いた。

その瞬間、鏡の中の草履が消えた。

代わりに、鏡の縁に黒い影が立った。

顔は見えなかった。肩の線だけがあり、こちらを見下ろすように静止している。影の足元には、古びた草履があった。片方の鼻緒が擦り切れ、右足の先が少し外を向いている。

写真の中にいた男と、同じ草履だった。

僕は鏡から目を逸らせなかった。

影は動かない。

けれど、聞こえた。

声ではなく、鏡の奥から押し戻されるような低い息が、ひとつ。

それから、言葉にならないほど静かな音で、誰かが言った。

――返してもらう。

母は聞こえなかったのか、聞こえたのに聞こえないふりをしたのか、札の上へ古布をかぶせた。

「結人、もう見ないで」

「今、何か言った?」

「何も」

「返してもらうって聞こえた」

佳代の手が止まった。

「それは、あなたが聞きたいと思っている言葉よ」

「母さんは聞こえなかった?」

「聞こえない」

「じゃあ、どうしてそんな顔をするの」

母は古布を握りしめた。

「顔なんて、していないわ」

「してるよ」

「あなたは、昔から人の顔を見すぎるのよ」

「見ないと、みんな何も言わないから」

その言葉は、母の胸の奥へ入ったようだった。

佳代はしばらく黙り、それから日記帳を僕の方へ押し戻した。

「持っていきなさい」

「え?」

「ここへ置いておく方が危ない」

「母さんは、持っていてほしくないんじゃないの」

「持っていてほしくない。でも、私が預かれば、また同じことになる」

「同じことって?」

母は鏡台を見たまま言った。

「誰かが黙って、誰かが整えて、最後に誰かが外へ出されること」

廊下の奥で、床板が鳴った。

一つ。

間を置いて、もう一つ。

母の顔から、最後に残っていた生活者の硬さが抜けた。白い割烹着の袖口を撫でる指が止まり、目だけが襖の向こうへ向く。

「今夜は、部屋から出ないで」

「母さんは?」

「私は台所にいる」

「一人で?」

「家の中にいる人間は、家の中にいなければならないの」

「それ、祖母さんが言ってたの」

「ええ」

「母さんも信じてる?」

佳代はすぐに答えなかった。

「信じているかどうかじゃないの。長く続いたことは、信じていなくても人を動かすのよ」

母は襖へ向かった。

「母さん」

呼び止めると、佳代は振り返らずに立ち止まった。

「祖母さんは、あの人を追い出したとき、何をしたの」

母の肩が小さく揺れた。

けれど、答えは返ってこなかった。

襖が閉じる。

僕は一人、祖母の部屋に残された。

手元には、日記帳と封じ札がある。古布に包み直した札は、紙一枚の重さしかない。それなのに、膝の上へ置いていると、誰かの手を預けられたように重かった。

鏡台の中には、もう何も映っていなかった。

ただ、縁側の灯りだけが、現実より少し遅れて揺れている。

僕は日記帳の表紙を撫でた。祖母の手の温度を探すように、布の擦れた部分へ指を置く。優しかった祖母。僕の話を最後まで聞いてくれた祖母。何かを整え、何かを隠し、誰かを外へ置いた祖母。

そのどれも、同じ人の中にあった。

だから僕は、祖母を善人のまま葬ることも、すべてを悪人のせいにして終わらせることもできなかった。

縁側の外で、草履を置く音がした。

今度は一足ではない。

左右を揃える音が、ゆっくり二度続いた。

僕は日記帳を胸に抱えた。

灯りの外にいるものが、まだ帰っていない。

いや、帰れなかったのかもしれない。

その夜、祖母の部屋の引き出しは、閉じたあともかすかに震えていた。

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祖母の部屋の引き出し - 返せぬ草履 - 誰でも作家life