第1話 線香の底に沈む家

御堂家へ戻る坂道では、蝉がまだ鳴いていた。
車を降りたときから、耳の奥に細い金属音のような声がまとわりついていた。山の斜面に沿って建つ家々の屋根は、夕方の湿った光を吸って黒ずんでいる。舗装の割れ目から伸びた草は雨に濡れ、靴の側面へ冷たい水を跳ね返した。
門をくぐると、祖母の家の匂いがした。濡れた木、古い畳、台所から流れてくる醤油の甘い香り。その底に、線香の煙が沈んでいた。
「結人、そこに立ってないで。座布団を運んで」
玄関を開けるなり、母の佳代が言った。
白い割烹着の袖を肘までまくり、佳代は親族の靴を並べ直していた。誰かが脱いだ革靴のつま先が少し外へ向いている。それを直し、隣のサンダルとの間隔を指で測るように整える。僕が返事をするより早く、母はもう次の仕事へ移っていた。
「うん」
僕は座布団を抱えた。
七回忌の法要は、祖母の死を思い出すためのものだと思っていた。少なくとも、都会で暮らす僕にとってはそうだった。決まった日に集まり、僧侶の読経を聞き、焼香をして、食事をする。死者のために用意された時間に、生きている者が一度だけ立ち止まる。
けれど、この家では、誰も立ち止まらなかった。
佳代は絶えず動いていた。湯呑みを配り、空いた皿を下げ、親族の話が途切れれば茶を勧めた。祖母の弟にあたる老人が、仏間の入口で古い写真の話をしかけたときも、母はすぐに座卓の端を拭いた。
「そういえば、裏の納戸はもう見たの? 結人、明日の朝にでも確認しておいて。あそこは湿気がひどいから」
老人は口を閉じた。
「いや、昔のことを少し……」
「ええ、分かってるわ。お父さんの若い頃の写真でしょう。あとでアルバムを出しますから。今日は皆さん、まず召し上がってください」
笑顔は自然だった。声も穏やかだった。
ただ、母の右手に握られた台布巾だけが、必要以上に強く絞られていた。
僕は座布団を置きながら、老人の顔を見た。何かを言いかけた人の顔には、言葉より先に諦めが浮かぶ。僕はそれを知っている。知っているから、見てしまったあとで、何も言わない自分が嫌になる。
仏間では、祖母の位牌が黒い光を返していた。
御堂晴江。
金文字で刻まれた名前を、僕は何度も見た。子どもの頃、祖母は僕の話を最後まで聞いてくれた。都会の学校であったことも、父と喧嘩したことも、誰にも言えなかったくだらない不安も、急かさずに聞いた。縁側で麦茶を飲みながら、祖母はいつも一度だけ頷いた。
だから、僕の中の祖母は、穏やかな人だった。
けれど、その穏やかさが、何かを押し込めるためのものだったとしたら。
そこまで考えたところで、仏間の線香が大きく揺れた。
誰かが戸を開けたわけではない。障子も閉じている。なのに煙は一度、天井へ昇るのをやめ、畳の上を這うように低く流れた。白い筋が僕の足元へ寄ってきて、すぐにほどける。
「結人、焼香の灰を片づけてくれる?」
母の声に、僕は振り向いた。
「灰はまだ熱いんじゃない?」
「もう大丈夫。火箸はそこ」
佳代は僕を見ず、空いた湯呑みを盆の上へ並べていた。
「母さん」
「なに?」
「今日、祖母さんの昔の話をしないのは、何か理由があるの?」
言った瞬間、座敷の空気が少しだけ固くなった。
親族のひとりが咳をした。別の誰かが箸を置いた。母は湯呑みの縁を布巾で拭き、表面に残った水滴を消した。
「七回忌だからって、昔の話をしなきゃいけないわけじゃないでしょう」
「でも、誰も祖母さんの話をしない」
「話してるわよ。生前はよく働いたとか、庭の手入れが好きだったとか」
「そういう話じゃなくて」
母の手が止まった。
「結人」
その呼び方には、子どもの頃に縁側へ出ようとした僕を止めたときと同じ響きがあった。
「この家には、この家のやり方があるの。外で暮らしているあなたには分からないこともある。分からないままでも、今日は困らないでしょう」
「分からないままでいることが、困らないことになるの?」
自分でも驚くほど、声が乾いていた。
母は僕の顔を見た。怒っているわけではない。困っているようにも見えなかった。ただ、僕がどこまで言うつもりなのかを測っていた。
「あなたは、何でも言葉にすれば楽になると思ってる」
「そうは思ってない」
「思ってるわ。言葉にしたら、聞いた人が責任を持たなきゃいけなくなる。責任を持てない人まで、無理に向き合わせる必要はないの」
「じゃあ、誰が責任を持つの」
母は答えなかった。
代わりに、仏間の奥で、線香の灰が崩れた。
小さな音だった。けれど、全員が聞いた。誰も顔を上げなかった。
やがて日が落ちた。
蝉の声は、山の斜面から一匹ずつ消えていった。最後の一匹が鳴き止んだとき、家の中にあった音が急に近くなった。茶碗の触れ合う音。柱の奥で木が軋む音。誰かの喉が鳴る音。
僕は灰を片づけ、使い終えた盆を縁側へ運んだ。
雨上がりの庭は暗かった。葉先に残った水滴が、縁側の灯りを小さく弾いている。湿った土の匂いが鼻に入り、線香の煙と混ざった。庭の奥には、昼間見えた石灯籠があるはずだったが、闇の中では輪郭さえ分からない。
縁側の端に、草履が置かれていた。
左右が、きれいに揃っていた。
僕は盆を抱えたまま、立ち尽くした。
家族の誰のものでもない。親族が履いてきた草履は、玄関に並んでいる。これは玄関から遠く離れた、縁側の灯りが届くか届かないかの場所にあった。
鼻緒は濡れていない。なのに、夜気を吸ったように黒ずんでいる。草の編み目には細かな土が入り込み、片方の先だけが木の床を濃く染めていた。
誰かが履いてきて、ここで脱いだ。
そう考えた。
だが、庭へ続く足跡はなかった。
僕がしゃがむと、背後で息を呑む音がした。
「……触らないで」
母だった。
声が、普段より低い。
「これ、誰の?」
「知らない」
「玄関に誰かの靴が増えてないか、見てくる」
「見なくていい」
「でも」
「結人」
佳代は縁側へ出てこなかった。座敷と縁側の境目に立ったまま、僕を見ている。そこから先へ進めないのか、進まないと決めているのか、僕には分からなかった。
「それは片づけて。捨てなくていいから、納戸の奥へ入れておいて」
「どうして?」
「どうしてもよ」
「母さん、知ってるんだね」
佳代の顔から、笑顔が消えた。
「何を?」
「この草履のこと。ここに置かれることを、知ってた」
「知らないわ」
「じゃあ、なぜ捨てなくていいの」
母は口を開いたまま、すぐには言葉を出さなかった。僕はその沈黙を待った。待ってしまった。いつもなら、相手が困らないように話題を変える。けれど今夜は、変えられなかった。
「結人、お願いだから、今夜は余計なことをしないで」
「余計なことって何?」
「家の中には、知らなくていいことがあるの」
「祖母さんの七回忌の夜に、知らない草履が縁側に置かれていても?」
「そうよ」
「誰かが家まで来てるかもしれないのに?」
「来てるんじゃない」
「じゃあ、何?」
母はようやく僕を見た。
「戻ってきたのよ」
その言葉が落ちたあと、庭のどこかで、低い笑い声がした。
笑い声というより、息が喉の奥で擦れた音だった。僕は反射的に庭を見た。暗がりには何もない。ただ、葉の重なったところだけが、風もないのにわずかに揺れている。
「今の、聞こえた?」
僕が訊くと、母は答えなかった。
代わりに、背後の座敷から親族の声がした。
「佳代さん、まだ片づかないの?」
「すぐ行きます」
母は僕から視線を外した。
「草履は納戸へ。いいわね」
「母さん」
「見なかったことにして」
その一言は、頼みではなかった。
この家で長く使われてきた、命令の形をした沈黙だった。
僕は草履に手を伸ばした。濡れているはずがないのに、指先へ冷たさが移った。鼻緒の表面はざらつき、夜気を吸った木のような感触がした。生きているものの皮膚に触れた気がして、すぐに手を引いた。
草履は、さっきより少しだけ僕の方を向いていた。
僕が動かしたわけではない。
母もそれを見たはずだった。けれど母は何も言わず、座敷へ戻っていった。白い割烹着の背中が、線香の煙の向こうで小さくなる。
僕は一人、縁側に残った。
灯りの輪の外で、誰かがこちらを見ている。
姿は見えない。足音もない。それでも、そこにいるものの気配だけが皮膚に残った。近すぎるのに届かない。声をかければ返事が返ってきそうなのに、名前を呼ぶことだけは許されていないようだった。
祖母の家には、昔から「縁側を跨ぐな」と言われていた。
子どもの頃、理由を訊ねた僕に、晴江は答えなかった。麦茶の入ったガラスのコップを僕の前へ置き、草履の向きを揃えながら、ただ静かに言った。
――外にいるものを、家の中へ入れてはいけないよ。
あの言葉が、今になって別の形で戻ってきた。
外にいるものとは誰だったのか。
そして、家の中にいる僕たちは、何を外へ出していたのか。
僕は草履を捨てられなかった。納戸へ運ぶこともできなかった。祖母が残したものなら、どれほど不穏でも、勝手に消してはいけない気がした。
灯りの下で、草履の左右は整然と揃っていた。
まるで、これから誰かが履くためではなく、誰かが帰ってきたことを、家に認めさせるために置かれたように。
そのとき、仏間から線香の匂いがまた濃く流れてきた。
煙は縁側へ伸び、草履の先でいったん沈み、それから庭の闇へ向かった。僕は息を浅くしながら、その流れを見つめた。
祖母は何かを隠したまま死んだ。
そう思った。
守っていたのではない。少なくとも、守るという言葉だけでは足りない。何かを閉じ込めるために、家を整え、沈黙を揃え、誰かを縁側の外へ置き去りにした。
僕の背後で、床板がひとつ鳴った。
振り返らなかった。
灯りの輪の外から、濡れた草履を引きずるような音が、ゆっくり一度だけ近づいてきた。
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