10話 返す名

夜明け前に消えた灯りは、朝になっても戻らなかった。

縁側の電球は切れていない。スイッチを入れれば点く。それでも誰も、その日は縁側の灯りをつけなかった。玄関の三和土には、乱れたままの三足の草履が残っていた。片方は庭を向き、片方は家の中を向き、もう一足は斜めに転がったまま。誰も直さなかった。

僕は洗面所で顔を洗いながら、鏡を見なかった。鏡台のことを思うと、水を跳ねる音さえ耳障りだった。台所からは、いつもの朝と同じに味噌汁の匂いが漂ってくる。それが、かえって落ち着かなかった。何事もなかったような匂いの中に、僕たちだけが昨夜のことを覚えている。

佳代は台所に立っていたが、包丁の動きが遅かった。大根を切る手が、何度も同じ場所で止まる。僕が入っていくと、母は顔を上げずに言った。

「叔父さんが、寺へ電話したそうよ」

「了賢さんに?」

「ええ。あなたが持ち帰ったものを、寺へ納めたいって」

叔父の顔は、昨夜よりいくらか青みが薄れていた。けれど、目の下の隈は深くなっていた。座敷で正座したまま、湯呑みも持たずに畳の一点を見つめている。

「叔父さん」

僕が呼ぶと、叔父はようやく顔を上げた。

「あの人の名前を、俺は忘れていたと思っていた」

「思っていた、というのは?」

「忘れたつもりで、実は覚えていたんだ。子どもの頃、夜明の家の前を通ると、大人たちが急に声を落とした。何も聞いていないのに、あそこには近づくなと分かった。俺は、それを分からないふりで、ずっと持っていた」

叔父は膝の上で手を組んだ。

「お前が名前を出したとき、俺は正直、怖かった。名前を口にすれば、俺が黙っていたことまで一緒に出てくる気がした」

「それでも、寺へ電話したんだね」

「もう、しまっておく場所がない」

その言葉は、責任を引き受けるというより、限界を認めるように聞こえた。それでも、僕にはそれで十分だった。誰かが自分の言葉で名前を出す。それが、家の中で初めて起きたことだった。

午後、僕らは玄関の草履を古布に包み、寺へ向かった。佳代が先に立ち、叔父が続き、僕が最後に歩いた。山道の砂利を踏む音が、三人分、少しずつ間隔が違う。

境内では、了賢が既に箒を持って待っていた。掃き目のついた石畳の端に、名のない石塔が立っている。

「昨夜のことは、風の音で分かりました」

了賢はそれだけ言い、包みを受け取った。草履を一足ずつ取り出し、石塔の前に並べる。今度は左右をきちんと揃えなかった。玄関に置いたときのまま、乱れた向きで置いた。

「揃えないんですか」

「揃えるのは、迎える形です。今日は、迎えるためではありません」

了賢は過去帳を懐から出し、その場で筆を執った。墨をすり、紙の上に、夜明史郎という名を書き足す。傍らに、村の記録として残っている出来事の日付も添える。

「これで終わりですか」

僕が訊くと、了賢は筆を置いた。

「終わりではありません。記されただけです。あとは、忘れずにいられるかどうかです」

佳代が石塔の前に膝をつき、両手を合わせた。長い時間、何も言わなかった。叔父も隣で頭を垂れた。僕はその背中を見ながら、草履の鼻緒がもう冷たくないことに気づいた。土の匂いだけが残っている。

帰り道、蝉が鳴いていた。途切れることなく、山全体に広がるように。御堂家に戻ると、縁側には何もなかった。灯りをつけると、板の上にはただ、夕方の光の名残があるだけだった。

鏡台の前を通るとき、僕は初めて足を止め、鏡を覗いた。映っているのは、疲れた顔の自分だけだった。

その夜、線香の匂いはいつもより薄かった。誰も、それを寂しいとは言わなかった。

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