第14話 日常の終わり、友情の始まり
今でも時折、あの夜のことを思い出す。世界が終わる前の、最後の静けさのような夜。テレビのスピーカーから漏れる、無機質な女性アナウンサーの声と、窓ガラスを叩く雨音、そして遠くで不気味に鳴り響くサイレン。それらすべての音が混じり合って、まるで出来の悪い前衛音楽のように僕の部屋を満たしていた。霧ヶ崎の町に、大規模な土砂災害の危険が迫っているのだという。
僕はヘッドホンを外し、机に向かった。これからやろうとしていることは、僕一人の、あまりに個人的な選択のはずだった。それでも、誰かに記録を残しておきたかった。僕が観測者であることをやめ、物語に介入しようとした、その証を。僕はスマートフォンの画面に、これまで調べ上げた「身代わりの蝶」の伝承と水瀬詩織を巡る運命の要約を打ち込み、最後に短いメッセージを添えた。宛先は、高橋健太。これは僕なりの、一方的な別れの挨拶であり、遺言のようなものだったのかもしれない。
岬の付け根にある古いバス停で、佐伯蓮が腕を組んで待っていた。雨に濡れた彼の髪は、いつもよりずっと暗い色に見えた。光と影。僕たちは、そんなありふれた言葉でしか表現できないほど正反対の場所にいたはずなのに、今は同じ闇の中、同じ一つの目的地を目指して立っている。
「行くぞ」
佐伯が短く言う。僕たちは、岬の突端にある霧ヶ崎神社へと続く、暗い坂道を登り始めた。儀式は、もう始まっているはずだった。道中、道の脇に、何人かの人影が傘も差さずに静かに立っていた。水瀬家の一族の者たちだろう。彼らは僕たちを咎めもしなければ、道を塞ごうともしない。ただ、まるで古い石像のようにそこに存在し、その無言の視線だけで、僕たちを拒絶していた。僕たちは彼らを避けるように、舗装された道を外れ、雨でぬかるんだ獣道へと足を踏み入れた。
その時だった。背後の暗闇から、息を切らした声が聞こえたのは。
「馬鹿野郎!死ぬ気か、相田!」
振り返ると、そこに高橋健太がいた。コンビニのビニール傘をめちゃくちゃに揺らし、流行りのスニーカーを泥だらけにして、彼は立っていた。オカルトや非日常を誰よりも嫌い、僕の探求を「考えすぎだ」と笑っていた、僕の唯一の友人。
「健太……なんで」 「なんでじゃねえよ!お前が送ってきたメッセージ、あれ、どう見ても普通じゃねえだろ!俺はな、お前が信じてるみたいな、そういう呪いだの運命だの、今でもさっぱりわからねえし、多分一生信じねえよ。でもな、親友が遺書みたいなもん送りつけてきて、こんな嵐の夜に、幽霊でも出そうな場所に消えていこうとしてるのを、スマホのゲームしながら『まあ、あいつらしいか』なんて言って見過ごせるほど、俺の日常は退屈じゃねえんだよ!」
彼の声は、雨音とサイレンにかき消されそうなのに、不思議なほどはっきりと僕の鼓膜を打った。転校を繰り返し、その度に新しい環境に馴染むことを強いられてきた彼が、何よりも大切にしていたはずの「変わらない日常」。
「俺はさ、ずっと『普通』でいたかった。誰かのヒーローになるなんて面倒だし、特別ってのも柄じゃねえ。でもな、樹。お前がいない日常なんて、もうそれは俺にとって『普通』じゃねえんだよ!わかるか?お前が観測者なら、俺だって観測者だ。お前っていう、面倒くさくて、わけわかんなくて、でも放っておけない友達がいる日常の、な。だから、その日常を終わらせる権利は、お前にも、俺にもねえんだよ!」
その叫びは、僕を現実に繋ぎ止める、最後の、そして最も強い錨となった。僕が守ろうとしていたのは、水瀬詩織という一人の少女であると同時に、彼女の犠牲の上に成り立つ、この退屈で、けれどかけがえのない日常だったのだ。そしてその日常には、高橋健太という友人がいる。
僕は、泥だらけのスニーカーで僕の前に立つ彼を見て、初めて自分が孤独ではないことを知った。僕の選択は、もう僕一人のものではなかった。
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