6話 成瀬のカップ

成瀬恒一の喫茶店は、海風通りから一本入った細い路地にある。

通りの角には、かつて魚屋だった店のシャッターが下りていた。錆びた取っ手に白い塩がこびりつき、風が吹くたび、看板の鎖が壁へ触れて乾いた音を立てる。私はその音を背中で聞きながら、濡れた舗道を歩いた。

雨は降っていなかったが、海から流れてきた霧が路地の奥に溜まっていた。靴底が薄い水膜を踏むたび、古い建物の壁から湿った土と木材の匂いが立ち上がる。手帳の中には、三上蓮が撮影した紙片の写真がある。

――夜十時三十分、屋上階段の照明交換。

その文字の下は破れていた。紙片がどこから剥がれたのかは分からない。ただ、成瀬の店へ向かう道筋を地図に重ねると、旧印刷所の裏手から潮見台ハイツへ抜ける古い配達路が、この路地の近くを通っていた。

私は店の前で立ち止まった。

曇ったガラス戸の向こうに、黄色い照明が見える。ドアには小さな鈴が吊られていたが、風に揺れても鳴らないよう、根元に布が巻かれていた。音を抑えるためなのか、壊れたものをそのまま使っているだけなのかは分からない。

扉を開けると、鈴は鳴らず、代わりに古い蝶番が低く軋んだ。

店内には、古いジャズとコーヒーの苦い匂いが沈んでいた。昼間でも薄暗い。窓は海風通りに面しているのに、外の明るさが店の奥まで届かない。壁際の棚には、退色した雑誌と電話帳、使い込まれたマッチ箱が並んでいる。

成瀬はカウンターの内側で、銀色のスプーンを布で磨いていた。

私に気づくと、すぐには声をかけなかった。スプーンの表面を一度だけ光へ向け、曇りが残っていないことを確かめてから、ようやく顔を上げる。

「いらっしゃいませ。お一人ですか」

「見れば分かると思います」

「店の人間は、見えるものをいったん訊くんです。見えたつもりで進めると、あとで椅子が一脚足りなくなる」

「椅子が足りなくなることがあるんですか」

「昔はありました。今は、足りなくなる前に片づけています」

成瀬はカウンターから出て、奥の席を示した。

「こちらへどうぞ。窓際は少し冷えます」

私は奥の席へ座った。椅子の背には、何度も拭かれた木の滑らかさがある。成瀬は注文を聞く前に水を出し、グラスの底が木の天板へ触れる位置まで整えた。

「コーヒーを」

「砂糖は」

「いりません」

「苦いですよ」

「それを頼んでいます」

成瀬はわずかに口元を動かした。笑ったのか、ただ息を吐いたのか判断できない。カウンターへ戻り、豆を挽き始める。ミルの音が店の奥で規則正しく続いた。

私は手帳を開いた。

屋上の照明交換。十時三十分。古い配達路。成瀬の店。神崎悠人。相沢美咲。

名前を並べると、どれも同じ紙面に置かれることを嫌がっているように見えた。

成瀬がコーヒーを運んできた。カップを置く前に、縁を布で拭う。白い磁器の縁に指が触れ、湯気が一度だけ細く揺れた。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

「手帳を開いたまま飲むと、紙に香りが移ります」

「紙の匂いを気にする人間が、ここへ来るのは珍しいですか」

「そうでもありません。印刷所が近かった頃は、紙の匂いを連れてくる客が多かった。インク、糊、機械油。服の繊維に残るので、本人が気づかなくても分かる」

「神崎悠人さんも?」

成瀬の指が、カップの取っ手へ伸びた。

ほんの少しだけ持ち替える。

取っ手を右手で持つ癖が、左手へ移った。カップは動かなかったが、受け皿の上で磁器がかすかに鳴った。

「名前を知っているんですね」

「十年前の新聞記事で見ました。印刷所に勤めていた男性が失踪した、と」

「新聞は、見出しにできることだけを書きます」

「成瀬さんは、見出しにならなかった部分をご存じですか」

成瀬は答えず、湯気の向こうへ視線を逃がした。私はコーヒーへ口をつけた。苦味が舌の奥へ広がり、あとからかすかな焦げた甘さが残る。薄いコーヒーに慣れていた私には強すぎたが、成瀬の店の空気には合っていた。

「昔の話は、店で売るものじゃない」

「売ってくださいとは言っていません」

「けれど、聞く人はたいてい、買うつもりで来る。自分の中に置くための材料を探している。話した人間がどうなるかより、聞いた人間が何を理解できるかを先に考える」

「それは、話さない理由になりますか」

「十分になります」

「では、話さないことで誰かが傷ついた場合は?」

成瀬はカップの縁を拭いた。さっき拭いたばかりなのに、もう一度、同じ場所をなぞる。

「話したことで傷つく人間もいます」

「知っています」

「本当に?」

「相沢美咲さんが、そういう顔をしていました」

成瀬の手が止まった。

「相沢さんに会ったんですね」

「私の部屋に来ました。手紙を取りに」

「何を話しました」

「手紙のこと、部屋に残ったもののこと。神崎さんのことを訊いたら、その名前をここで呼ばないでくださいと言われました」

「それで、あなたは呼んだ」

「今、成瀬さんが呼びました」

「私は店主です。客の言葉をそのまま返すことがあります」

「返しているだけには聞こえません」

成瀬は目を上げた。

目が合ったのは短い時間だった。けれど、その間に、彼が私の手元ではなく、手帳の開かれたページを見たことが分かった。

「高見沢さん。相沢さんは、何かを隠しているように見えましたか」

「はい」

「神崎さんに関することを?」

「それだけではありません。自分が黙っていること自体を、誰かに見られたくないようでした」

「人は、何かを隠しているときだけ黙るわけではありません」

「成瀬さんも、そうですか」

「私は店が静かなほうが好きなだけです」

「静けさと沈黙は違います」

「似ていますよ。どちらも、余計なものを置かない」

「けれど、静けさは誰かが黙らせなくても生まれます。沈黙は、誰かが口を閉じることで生まれる」

成瀬はカップを置いた。

「あなたは、正しい言葉を選ぶのが上手ですね」

「上手ではありません。曖昧なままにしておくのが苦手なだけです」

「それは、同じようなものです」

「違います。正しい言葉を選ぶ人は、選んだあとに責任を持てる。私は、間違った言葉を置かないようにしているだけです」

店の隅で、古いレコードが針飛びを起こした。ジャズの旋律が一拍だけ乱れ、成瀬は立ち上がって機械の横へ歩いた。針を持ち上げ、溝の位置を直す。その動作は慣れていたが、右肩がわずかに強張っていた。

私は店内を見回した。

壁の奥に、海沿いの古い地図が額装されている。海風通りから団地へ伸びる道の一部に、薄い鉛筆の線が引かれていた。現在の道路から外れ、古い商店街の裏を抜け、印刷所の脇を通っている。線の終点は、潮見台ハイツの東側にある古いポストの近くで途切れていた。

「その地図を見せてもらえますか」

成瀬はレコードの前から動かなかった。

「地図は、見る人によって道が変わります」

「線が引かれているだけです」

「引かれた線は、引かれなかった線より強い」

「神崎さんが使っていた道ですか」

「神崎は、道を使うというより、道のほうを覚えていました。店から印刷所まで、印刷所から団地まで。近道を訊くと、近道は急ぐ人間のためにあると言っていた」

「では、急いでいなかった」

「急がない人間は、見落としが少ない」

「神崎さんは、見落とさない人だった」

「見る目があった。見なくていいものまで、見えてしまうことがあった」

成瀬はそこで言葉を切った。

切れ方が綺麗すぎた。あらかじめ、そこまでしか言わないと決めていたようだった。

「何を見たんですか」

「知りません」

「見ていない?」

「知っていることと、見たことは違います」

「成瀬さんは、見たんですか」

成瀬は答えなかった。

代わりに、カウンターの砂糖壺へ手を伸ばした。蓋を開け、砂糖が十分に入っていることを確認し、閉じる。砂糖を使う客はいなかった。必要のない動作だった。

「屋上の鍵を探しているんですね」

「そうです」

「どうして」

「神崎さんが屋上で何かを見たらしいからです」

「らしい、というのは便利です。誰かがそう言ったのか、あなたがそう考えたのか、曖昧にできます」

「三上さんが、住民の証言を集めました。屋上へ向かう人影、十時三十分ごろの足音、照明交換の古い掲示。管理人室の名簿からは、十年前の欄だけが削られている。田所さんは屋上の鍵はないと言いましたが、白い塗料のついた古い鍵を持っていました」

「よく見ていますね」

「成瀬さんのカップの持ち方も」

成瀬の指が砂糖壺から離れた。

「それは、見なくてもいいものです」

「見えてしまったので」

「見えてしまったものを、すぐ人へ返す必要はありません」

「返す?」

「言葉にするということです。見たものを言葉にすると、見た人間の責任になる。言わずに置けば、まだ自分の中に留めておける」

「それは、責任を引き受けているんですか。それとも、引き受けるのを先延ばしにしているんですか」

「どちらもです」

成瀬はカウンターの内側へ戻った。

「私は、十年前に見たものを、誰にも話しませんでした。話せば神崎が戻ると思ったわけではない。誰かが裁かれれば終わるとも思わなかった。ただ、口にした瞬間に、見たものが別の形へ整理される気がしたんです。人は、話を聞くとすぐに筋をつける。誰が悪く、誰が可哀想で、何が原因で、何が結果か。けれど、あの夜にそこにあったのは、もっと乱れたものだった。濡れた紙、消えかけた照明、屋上の風、階段を上る足音。その一つひとつを、きれいな話へ並べ替えたくなかった」

「そのままにしておけば、誰かが覚えている限り、事実は残ると思ったんですか」

「思ったのではありません。そう願った」

「願いだけでは、記録の空白は埋まりません」

「ええ。だから、あなたが嫌っている空白が残った」

その言葉に、私は手帳の紙を押さえた。

「成瀬さんは、田所さんが記録を削ったことを知っているんですね」

「知っています」

「止めなかった」

「止められなかった」

「同じではありません」

「違います。止めなかった人間は、自分に止める力があったと考えている。止められなかった人間は、力がなかったことを言い訳にしている。私は、そのどちらなのか今も決められない」

「では、相沢さんは?」

成瀬は窓の外へ視線を流した。

海風通りを自転車が一台、音を立てて走り過ぎていく。車輪が水たまりを踏み、店のガラスへ細かな泥を跳ねた。成瀬はそれを見ても動かなかった。

「相沢さんは、見たものを見たままにできる人ではありませんでした」

「隠す人だった?」

「整える人です。散らかったものを、散らかったまま置いておけない。だから、あの夜のことも、自分の中で何度も畳み直したはずです。誰がどこにいたか、何を聞いたか、何を見なかったことにしたか。けれど、畳んだ紙は折り目が消えない」

「部屋に残っていた封筒の束も、相沢さんが集めたものですか」

「封筒?」

成瀬の反応は小さかった。

だが、声より先に手が動いた。カウンターの下へ伸びかけ、途中で止まる。

「白い封筒の束です。宛名はなく、中央に二本の青い線が引かれた紙片が混じっていました」

「その線を、どこで見ました」

「掲示板、屋上の扉の下、古いポスト」

成瀬は目を伏せた。

「その印は、神崎が使っていたものです」

「何のために」

「印刷所では、刷り直しが必要な紙に鉛筆で印をつけることがある。二本線なら、版面の確認が済んでいないという意味です」

「つまり、未完成」

「あるいは、まだ誰かに渡せない」

「神崎さんが手紙に使っていた印ですか」

「彼は紙を無駄にしなかった。言葉を書かず、線だけを残すことがあった。意味を知っている相手にだけ通じればいい、と」

「相沢さんも、その意味を知っていた」

「知っていたかもしれません」

「成瀬さんも?」

「知っていたことにしたくなかった」

「それでも、今、説明しました」

「あなたが、すでに見つけていたからです。私が教えたのではなく、あなたの見たものに別の置き場所を与えただけです」

私は地図へ目を向けた。

「この線の終点は、古いポストの近くです。神崎さんはそこへ手紙を入れていたんですか」

成瀬は答えず、カップを一つ下げた。まだ客の使っていないカップだった。布巾で底を拭き、棚へ戻す。

「古いポストは、昔は団地の共同ポストでした。今のように各戸へ配達される前、住民がそこへ郵便を取りに行っていた。配達員も、急ぎのものは管理人室の脇へ預けた。郵便は今より人の手を多く通っていたんです」

「だから、誰かが手紙の流れを操作できた」

「操作という言葉は、悪いことをしたように聞こえます」

「実際に、戻るはずのない郵便が戻っている」

「手紙を消したかったのかもしれない。逆に、届いたことだけを残したかったのかもしれない」

「誰が?」

成瀬は、レジ横の古いレシートへ手を伸ばした。

紙を伏せる。

折り目のある面が、下になる。

「それを知りたいから、ここへ来たんでしょう」

「成瀬さんが知っているからです」

「知っていることと、答えられることは違う」

「答えられないのか、答えたくないのか、どちらですか」

「今は、同じです」

「その同じを、十年続けてきた」

成瀬は私を見た。

「十年という時間を、あなたは短く扱いますね」

「短いとは思っていません」

「十年は、人の中で形を変えます。最初の一年は、毎日思い出す。三年目には、思い出す日を選べるようになる。五年目には、誰かに訊かれなければ話さなくなる。十年経つと、話さないことが生活の一部になる。朝、店を開け、豆を挽き、カップを拭き、夜に鍵を掛ける。その手順の中へ沈黙が混じる。自分が黙っていることさえ、意識しなくなるんです」

「でも、手紙は戻ってきた」

「ええ」

「神崎さんの名前が、十年ぶりに」

「名前は、人より長く生きることがあります」

「誰かが生かしている」

「名前を?」

「事実をです」

成瀬は長く黙った。

その沈黙の中で、ミルの内部に残った豆の粉が、かすかに崩れる音を立てた。

「あなたは、神崎が生きていると思いますか」

「分かりません」

「死んでいると思う?」

「それも分かりません」

「それでも探す」

「失踪した人間の名前を、誰かが使っている。少なくとも、そこには理由がある」

「理由があれば、探していい?」

「理由がなければ、探すこともできません」

「理由があっても、探されたくない人間はいる」

「相沢さんのことですか」

「神崎のことかもしれない」

私は手帳を閉じた。

「成瀬さんは、神崎さんが消えた夜、屋上にいたんですね」

成瀬の肩がわずかに動いた。

「店を閉める時間でした」

「質問に答えていません」

「夜は、どこにでもあります」

「では、屋上へ向かう人影を見た」

「海風通りから団地の上階は見えます。風が強い日は、人影などいくらでも揺れる」

「人影ではなく、足音を聞いた?」

「古い建物は、音を運びます」

「成瀬さん」

私は声を低くした。

「私は、誰かを裁きたいわけではありません。相沢さんの部屋に届いた手紙が、十年前の失踪とつながっている。名簿には空白があり、屋上の鍵は隠され、郵便の経路が歪んでいる。そこまで見て、知らないふりを続けることはできません」

「あなたのために?」

「私の部屋だからです」

「あなたの部屋ではありません。相沢さんが暮らし、神崎が何かを残し、あなたはあとから入っただけです」

「だからこそ、残されたものを勝手に捨てたくない」

「捨てるのと、掘り返すのは違います」

「知ることと、荒らすことも違います」

「その違いを、あなたは守れますか」

私は答えなかった。

押し入れの板へ触れなかったこと。封筒を開けずに戻したこと。紙片を拾わず、線を写真に残したこと。自分では慎重にしているつもりだった。

けれど、誰かの過去を見つけた瞬間から、私はすでにその人の生活へ入り込んでいる。

「守れるかどうかは、やってみなければ分かりません」

成瀬は目を細めた。

「それは、ずいぶん正直な答えです」

「成瀬さんは、正直な答えを嫌いますか」

「正直な答えほど、相手の逃げ道をなくす。だから、嫌いではありませんが、怖い」

彼はレジ横のレシートを裏返した。

表には、日付と金額だけが印字されていた。十年前の日付だった。店名の印字は薄く、端に折り目が二つある。誰かが細いものを包み、何度も開いては閉じた跡だった。

「これは何ですか」

私は訊いた。

「領収書です」

「何を包んでいたんですか」

「紙です」

「紙を、紙で包んだ?」

「この町では、そういうこともあります」

成瀬はレシートを指先で押さえた。

「神崎は、店に来るとき、よく紙を持っていました。印刷所の試し刷り、配達先の控え、使い終えた封筒。人に見せるつもりがないものほど、丁寧に折っていた」

「その中に、屋上で見たものの記録が?」

「あると思いますか」

「成瀬さんが伏せたくなるものなら」

「あなたは、折り目から中身を決めるんですね」

「折り目は、紙が何度扱われたかを教えてくれます」

「人も同じですか」

「人のことは、まだ分かりません」

成瀬は、初めてはっきり笑った。疲れたような、乾いた笑いだった。

「神崎も、そう言っていました。紙のほうが人間より正直だ、と。私は、人間のほうがまだ戻ってこられると思っていました」

「戻ってこられた人は?」

「戻ってきた人間は、戻る前と同じではありません」

「神崎さんは戻らなかった」

「名前だけは戻った」

成瀬はレシートを封筒の下へ滑り込ませた。

「高見沢さん。あなたが持っている手紙の文面は、神崎の書き方に似ていますか」

「似ていると思います。余白が広く、短い。余計な説明がない」

「それだけでは?」

「『夕方、海風は台所ではなく、廊下側から入る』という言い回しがありました。海風通りを知っている人間の言葉に聞こえます」

「海風通りを知っている人間なら、誰でも書ける」

「ですが、神崎さんは印刷所で働いていた。紙の扱いにも、郵便の導線にも詳しかった」

「だから本人だと?」

「本人とは言っていません」

「本人でないなら、誰が神崎の書き方を知っている」

私は答えを持っていなかった。

成瀬はカップの取っ手を、今度は元の向きへ戻した。

「知っている人間は、少なくありません」

「相沢さん」

「彼女は、神崎の文字を見ていました」

「田所さん」

「管理人は、住民の書類を見ます」

「成瀬さん」

「私は、神崎が書いた紙を何度も見ました」

「では、誰でも手紙を書ける」

「誰でも書けるわけではない。書いた人間は、神崎の名前を使う理由がある」

「どんな理由ですか」

「名前を借りることで、誰かへ届く。名前を借りることで、誰かを遠ざける。名前を借りることで、まだ終わっていないことを知らせる」

「成瀬さんは、どれだと思いますか」

成瀬は窓の外を見た。

霧が少し濃くなり、海風通りの看板が輪郭を失っている。ガラス戸の向こうで、古いポストの赤い塗装だけが、湿った夕方の中に沈んでいた。

「手紙を受け取った人間に訊くべきです」

「相沢さんは、答えません」

「答えられないのかもしれない」

「彼女は、答えないことを選んでいます」

「選べる人間は、まだ強い」

「成瀬さんは、答えないことを選んでいる?」

成瀬はしばらく私を見た。

「私は、選び続けているだけです」

「何を」

「神崎の名を、誰かの口から消さないことと、誰かの生活へ戻さないこと。その間に置いておくことを」

「そんな場所はありません」

「ないから、十年かかりました」

店内のレコードが終わった。針が溝の外側を回り続け、細い雑音だけを繰り返している。成瀬は針を上げず、その音を聞いていた。

私は席を立った。

「今日は、これで帰ります」

「コーヒーは飲み切らないんですか」

カップの底には、黒い液体が少し残っていた。

「苦いので」

「それを頼んだのは、あなたです」

「頼んだときより、苦くなった気がします」

成瀬はカップを見た。

「飲み物は、冷めると味が変わります。記憶も同じです」

「では、冷める前に話してください」

「冷めたから話せることもあります」

「話すつもりはあるんですか」

成瀬は答えの代わりに、私の手帳へ目を向けた。

「あなたは、見たものをすぐ書く。けれど、今日のことはまだ書かないほうがいい」

「なぜですか」

「カップの取っ手を持ち替えたことだけを書かれると、私は何かを隠している人間になる」

「実際に、何か隠している」

「その一行なら、まだ正しい」

「何を隠しているかは?」

「それを書くには、あなたがもう一度来る必要があります」

私は鞄を肩へ掛けた。

「次は、何を聞けばいいんですか」

「神崎が最後に店へ来た日のことを」

「今日は話せない?」

「今日は、あなたがまだ聞いていないからです」

「聞きました」

「違う。あなたは屋上のことしか聞いていない」

私は足を止めた。

「神崎が最後に、この店で何を頼み、どの席に座り、帰り際に何を置いていったか。そこから始めてください」

「それが、失踪と関係あるんですか」

「人は大きな秘密を、いつも大きな場所へ置くとは限りません。カップの底、レシートの折り目、誰も使わない棚の隅。そういう小さな場所へ、戻れなくなる前の自分を置いていくことがあります」

成瀬はレジ横のレシートへ手を置いた。

「神崎は、帰り際に小さなライターを忘れました」

「ライター?」

「私は返せなかった」

「なぜですか」

「返す相手が、戻らなかったからです」

「今も持っているんですか」

成瀬は答えなかった。

ただ、カウンターの下へ手を入れ、古い木箱の蓋を少しだけ開けた。中身は見えなかったが、金属が木へ触れる小さな音がした。

私はその音を覚えた。

成瀬は箱を閉じ、鍵を掛けた。

「今日は、ここまでです」

「成瀬さん」

「はい」

「神崎さんが見たものは、誰かを守るために隠されたんですか」

成瀬は鍵を抜き、木箱の前に置いた。

「守るために隠したものは、隠したままでは守れません。いつか、隠した人間の手を離れて、別の誰かの生活へ戻ってくる」

「手紙のように」

「手紙のように」

店を出ると、霧雨が降り始めていた。

海風通りの路面に街灯が滲み、古い建物の壁が水を吸って黒くなっている。私は傘を開き、来た道を戻った。成瀬の店から潮見台ハイツまでは、歩いて十分ほどだったが、帰り道は行きより長く感じられた。

古い商店街を抜け、印刷所跡の前を通る。建物はすでに使われておらず、入口のシャッターには新しいチェーンが掛かっている。チェーンの脇に、剥がれかけた紙が一枚残っていた。

紙の端に、青い二本線。

私は足を止めた。

傘の先から落ちた雨が、舗道の上で小さく弾けている。紙へ手を伸ばしかけたが、触れずに戻した。印刷所の壁には、古い糊の跡と、新しく塗られた白い塗料の境目があった。誰かが紙を剥がし、上から塗りつぶしたのだろう。

それでも線だけが残っている。

私は写真を撮った。

団地へ近づくにつれて、海風が強くなった。傘が何度も裏返りそうになり、私は柄を握り直した。濡れた布地の匂い、錆びた手すりの匂い、衣服に染み込む冷たさ。身体が冷えるほど、成瀬の言葉は逆に鮮明になった。

守るために隠したものは、隠したままでは守れない。

潮見台ハイツの入口をくぐると、古いポストの前に田所が立っていた。

彼は私に気づいていないふりをしていた。鍵束を手の中で押さえ、金属音を殺しながら、ポストの蓋を開けている。中を覗き、底へ指を入れ、何かを確かめていた。

「田所さん」

声をかけると、田所の手が止まった。

「何だ」

「古いポストは、管理人の仕事ですか」

「点検だ」

「郵便物は入っていません」

「底に水が溜まる」

「それを確認していたんですか」

「そうだ」

「では、なぜ鍵を使う必要があるんです」

田所は私を見なかった。

「壊れた錠は、鍵を回さないと開かない」

「このポストの鍵は、私が持っています」

「古い共用ポストには、管理用の鍵がある」

「屋上の鍵も、管理用ですか」

田所の指が鍵束の根元を押さえた。

金属音は鳴らなかった。けれど、掌の中で何かが動いた気配だけは伝わった。

「屋上の話はするな」

「成瀬さんは、神崎さんが最後に店へ来た日のことを話せると言いました」

「成瀬に訊け」

「訊きました。あなたが記録を削ったことも知っているようでした」

田所は、ようやく私を見た。

「知っているだけなら、何も変わらん」

「知っている人が黙るから、変わらないんです」

「変えた結果、誰かが暮らせなくなったらどうする」

「暮らせない理由を、誰かに説明できますか」

「説明で人が眠れるなら、管理人はいらん」

田所はポストの蓋を閉じた。

私は、蓋の裏に残った白い繊維を見た。田所の指先には、同じ繊維が一つ貼りついている。彼は気づいていないのか、気づいていて放置しているのか分からない。

「田所さん」

「まだあるのか」

「神崎さんの名前を、郵便の中で生かしている人がいます」

「名前は勝手に生きる」

「誰かが流れを作っている」

「郵便は、届くところへ届く」

「戻る場所がないのに?」

田所の顔が、わずかに硬くなった。

「それは、郵便局へ訊け」

「訊きました。流れの途中で誰かが止め、別の場所へ戻している可能性がある。管理人室の近くを通った記録もある」

「可能性の話だ」

「あなたは、可能性を嫌う人だと思っていました。記録を扱うとき、確定していないことは書かない」

「書かないから、残らん」

「残らないようにしている」

田所は返事をしなかった。

雨が屋根を叩き、古いポストの表面を濡らしていく。赤い塗装の剥がれた部分に水が溜まり、そこだけ黒く沈んでいた。

「成瀬は、何を見せた」

「何も。古い地図と、十年前のレシートを見せました」

「レシート?」

「何かを包んでいた跡がありました。神崎さんのライターを預かっているとも言っていました」

田所の手が、初めて鍵束から離れた。

指先が空中で止まり、すぐに下へ落ちる。

「成瀬は、余計なものを持ちすぎる」

「あなたも、鍵を持ちすぎています」

「鍵は、必要なものだ」

「何を開けるために?」

「閉めるためだ」

田所はそれだけ言って、管理人室へ歩き出した。

背中が遠ざかる。濡れた廊下を歩く足音は、三上のように軽くもなく、私のように場所を確かめるものでもなかった。一定の間隔で、決められた場所へ戻っていく音だった。

私は古いポストの前に残った。

蓋の内側へ、指を近づける。白い繊維には触れない。青い二本線にも触れない。けれど、線の下にある浅いへこみだけは、光の角度を変えると見えた。

鉛筆を強く押しつけた跡。

神崎が紙へ残した印かもしれない。誰かが真似た印かもしれない。あるいは、私が見つけたいものをそこへ重ねているだけかもしれない。

私は手帳を開いた。

成瀬のカップ。  屋上の鍵という言葉で、取っ手を持ち替えた。  神崎は、見なくていいものまで見えてしまう人だった。  青い二本線は、印刷所で未完成の紙につける印。  成瀬は、神崎が最後に忘れたライターを今も保管している。  田所は、古いポストの底を点検していた。

最後に、成瀬の言葉を書いた。

隠したものは、別の誰かの生活へ戻ってくる。

ペンを閉じると、管理人室の扉が開いた。

田所がこちらを見ていた。手には、濡れた紙を挟んだ黒い表紙のノートがある。彼は私と目を合わせず、ノートを脇へ抱えた。

「高見沢」

「はい」

「成瀬の店へ行くなとは言わない」

「珍しいですね」

「だが、あそこで聞いたことを、ここへ持ち込むな」

「持ち込まれたものが、もともとここから出たものなら?」

田所は黙った。

雨音が強くなった。屋根の端から落ちる水が、古いポストの脇で細い筋になっている。成瀬の店で見た地図の線が、雨水の流れのように頭の中へ浮かんだ。印刷所から海風通りへ、海風通りから団地へ。途中で曲がり、隠れ、最後には戻ってくる。

「神崎さんは、何を見たんですか」

田所は黒いノートを閉じた。

「見たものを、見たまま言う人間は少ない」

「成瀬さんも、そう言いました」

「成瀬は、見たものを言わない人間だ」

「田所さんは?」

田所は鍵束を握り直した。

「見たものを、記録に残さない人間だ」

それは答えのようで、答えではなかった。

田所は管理人室へ戻り、扉を閉めた。鍵は掛けなかったが、扉の下から漏れる光は細く、部屋の中の気配をほとんど通さなかった。

私はポストの蓋を閉じた。

今度は、最後まで音を止めなかった。

金属が鳴る。

小さな音だったが、団地の静けさの中では、誰かの名前を呼ぶ声に似ていた。

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