第7話 倒れた手帳

夕方の潮見台ハイツは、雨の前だけ階段が狭くなる。
実際に幅が変わるわけではない。湿った空気が踊り場に溜まり、鉄扉の向こうから冷たい風が押し返してくる。手すりに触れると、錆びた金属のざらつきが掌へ移った。誰かが上り下りするたび、足音は壁に吸われ、途中で一つだけ消える。
三上蓮が言っていた通りだった。
三階の踊り場に立つと、屋上へ続く鉄扉が目の前にある。扉には「立入禁止」の札が掛かり、その下の錠前だけが周囲より新しかった。海風にさらされて古びた建物の中で、そこだけが最近まで使われていたように見える。
私は扉へ手を伸ばさず、階段の下を見た。
相沢美咲が、踊り場の壁際に立っていた。
淡い色の上着を着て、両手を身体の前で重ねている。以前この部屋へ来たときと同じ、音を立てない立ち方だった。廊下の窓から差し込む夕方の光が、彼女の肩と頬を薄く照らしている。顔色は悪くなかった。むしろ、何かを決めてきた人間の静けさがあった。
「相沢さん」
私が呼ぶと、彼女はゆっくり顔を上げた。
「高見沢さん。ここにいらしたんですね」
「三上さんから、屋上の鍵について何か話を聞いていると伺いました」
「三上さんは、いろいろなことを話しますね」
「話したことより、話さなかったことを聞きたいんです」
美咲は、鉄扉の札へ視線を移した。
「ここで話すことですか」
「部屋では、あなたが残したものが多すぎる。押し入れの封筒、紙片、壁の修繕跡。どれを見ても、あなたが何かを片づけきれないまま出ていったことが分かります」
「片づけきれなかったのではなく、片づけなかったのかもしれません」
「その違いを、教えてください」
「片づけるというのは、見えなくすることではありません。見えなくしたものが、どこにあるか分かっている状態です。私は、あの部屋から出るとき、それができませんでした」
彼女の声は穏やかだった。だが、最後の言葉だけが、階段の奥へ落ちずに残った。
「神崎悠人さんの名前を使った手紙が、何度も届いています」
「知っています」
「差出人が本人でないとしても、書いた人間は神崎さんの文字の癖を知っている。紙の選び方も、海風通りから団地へ戻る郵便の経路も知っている。あなたは、その誰かを知っているんですか」
美咲は答えず、指先で上着の袖口を整えた。
「高見沢さんは、手紙を読むとき、紙の裏から見るんですね」
「表だけでは分からないことがあります」
「人も同じでしょうか。表情だけを見ていると、見落とすことがある」
「だから、言葉を聞いています」
「言葉は、紙より簡単に折れます」
彼女は一段下へ降りた。靴底が古いコンクリートに触れ、小さな音が返る。
「十年前の札を見つけたんです」
私は管理人室の書類棚から持ち出した写真を見せた。屋上防水工事に伴う立入制限。その紙の端に残る、二本の青い線。神崎が印刷所で未確認の紙へつけていた印だと、成瀬から聞いていた。
「この札は、十年前のものです。下の部分は剥がされていますが、夜十時三十分、屋上階段の照明交換という文字が残っていた。交換作業の記録は、田所さんの巡回表にはありません」
美咲の顔から、表情だけが一枚剥がれた。
目の下の色が白くなる。唇がわずかに開き、息が音にならずに戻っていく。
「海風通りから来た手紙には、こう書かれていました。夕方、海風は台所ではなく、廊下側から入る。あの言い回しは、成瀬さんが使うものと似ている。神崎さんがこの団地と旧市街を行き来していたことを知る人間なら、誰でも書けるかもしれません。でも、相沢さんは、その文面を読んだとき、部屋ではなく屋上を見ました」
「見ていません」
「今、見ました」
「高見沢さん」
「責めているわけではありません。ただ、あなたが何を恐れているのかを知りたい」
「恐れているのではありません」
「では、何ですか」
美咲は手すりへ手を置いた。錆の粉が指先についたが、気にする様子はなかった。
「戻ってくることです」
「神崎さんが?」
「名前が」
彼女は鉄扉を見上げた。
「人が戻ってくるなら、まだ話しようがあります。本人が何を見て、どこへ行き、なぜ帰らなかったのかを訊ける。でも、名前だけが戻ってくると、残された人間は、名前の中へ自分の記憶を押し込まなくてはいけない。見たもの、聞いたこと、見なかったこと。全部が、名前に呼び寄せられる」
「あなたは、何を見たんですか」
「私は、見たものを覚えていません」
「覚えていないのではなく、言わないのでは?」
美咲は私を見た。
「その二つを分けられる人は、幸せですね」
「分けられないから、確かめています」
「確かめることは、いつも正しいわけではありません。高見沢さんは、前の職場で帳票の空欄を埋めていたそうですね。数字が合わないと、どこかに原因がある。原因を探せば、全体が元に戻る。そういう仕事だったのでしょう」
「なぜそれを」
「部屋に残っていた書類を見れば分かります。名刺入れ、手帳、机の置き方。人は、自分の癖を新しい部屋へ持ち込みます」
「私のことを調べたんですか」
「いいえ。見ただけです」
「見ただけで、私を決めないでください」
「決めていません。あなたが、自分のことを決められるのを嫌う人だと思っただけです」
美咲は一段、また一段と下がった。
その動きに合わせて、夕方の風が階段を上ってくる。冷気が足首から入り、身体の内側へ細い線を引いていくようだった。
「神崎さんは、あの夜、屋上へ行きましたか」
私は訊いた。
美咲は手すりから手を離した。指先に付いた錆を、親指でこすり落とそうとした。けれど赤茶色の粉は皮膚の溝へ入り込み、簡単には消えなかった。
「行ったかもしれません」
「相沢さんも?」
「私は、階段の下にいました」
「何時ですか」
「時計を見ていません」
「でも、照明交換の時刻は知っている」
「時刻は、あとから聞きました」
「誰に?」
彼女は目を伏せた。
「田所さんですか。成瀬さんですか。それとも神崎さん本人から?」
「名前をつけないでください」
「名前をつけなければ、話せません」
「名前をつけた瞬間、話はその人のものになります。田所さんがしたのか、成瀬さんがしたのか、神崎さんが何を見たのか。人は名前を置けば、そこに責任を固定できると思う。でも、あの夜は誰か一人の夜ではありませんでした。屋上にいた人、階段にいた人、窓から見た人、見なかったことにした人。その全員の時間が、同じ場所で重なっていた」
「だから、誰も責任を取らない」
「だから、誰か一人に背負わせることもできない」
「それは、守るための沈黙ですか」
美咲の呼吸が浅くなった。
「守ったつもりでした」
「誰を」
「神崎さんを」
「神崎さんは失踪した」
「だからです」
彼女の膝が、わずかに揺れた。
私は一段下へ降り、手を伸ばした。けれど、美咲の肩へ触れる前に、彼女は壁へ手をついた。
「相沢さん」
「大丈夫です」
「顔色が」
「大丈夫です。少し、風が冷たいだけです」
「座りましょう」
「座ったら、立てなくなる気がします」
「無理をしないでください」
「無理をしないで生きられるなら、こんなところへ戻ってきません」
その言葉の直後、美咲の身体がふいに折れた。
膝が床へ触れる前に、私は腕を支えた。細い身体が予想より重く、上着越しに冷たい。彼女の頭が私の肩へ触れ、髪から湿った紙のような匂いがした。
「相沢さん、聞こえますか」
返事はなかった。
階下から足音が駆け上がってくる。西岡誠だった。片手に小さな現場手帳を持ち、もう片方の手で手すりをつかんでいる。
「何があった」
「急に倒れました。意識はあります」
西岡は美咲の顔を覗き込み、首筋へ指を当てた。
「呼吸はある。救急車を呼ぶ」
「お願いします」
西岡は携帯電話を取り出した。無線の短い音が、湿った踊り場で跳ね返る。救急の番号を伝えながら、彼は私へ目を向けた。
「倒れる前、何を話していた」
「十年前の屋上のことです」
「具体的に」
「古い札と、手紙の言い回しを確認しました。神崎悠人の名を使える人間について訊いていた」
「相沢さんに?」
「はい」
西岡は少し黙った。
「追い詰めたのか」
「いいえ」
「そう言える根拠は」
「声を荒らげていません。距離も詰めていない」
「人は、声を荒らげなくても追い詰められる」

その言葉は責める調子ではなかった。だが、床に落ちた水滴のように、こちらの足元へ残った。
「分かっています」
「なら、分かっていることを話せ」
「相沢さんは、神崎さんを守ったと言いました」
西岡の手が止まった。
「誰から」
「聞く前に倒れました」
「ほかには」
「照明交換の時刻を、あとから聞いたと言いました。自分は階段の下にいた、とも」
「屋上には行っていない?」
「そう言いました」
救急車のサイレンが、遠くの道路から近づいてきた。海沿いの道を回り込む音が、建物の壁に何度も反射する。赤い光が踊り場の窓に差し、階段の錆を一瞬だけ鮮やかにした。
美咲の手が動いた。
私はその手を見た。彼女の指が、何かを探すように床を撫でている。そこに薄い手帳が落ちていた。表紙は灰色で、角が擦れている。濡れてはいないのに、紙の端だけが柔らかく波打っていた。
私は拾い上げる前に、床の埃と手帳の位置を確認した。
美咲の右手から半歩離れた場所。表紙の中央に、細い青い線が二本。手帳を落とした衝撃でついたものではない。鉛筆を強く押しつけた跡が、表紙の繊維へ沈んでいる。
私はハンカチを取り出した。
手帳を直接つかまず、布越しに持ち上げる。角が折れないよう、掌で受ける。
「それは、相沢さんのものですか」
西岡が訊いた。
「おそらく」
「中を見るな」
「分かっています」
私は手帳を閉じたまま、ハンカチで包んだ。
紙は汗を吸ったようにしっとりしていた。指に嫌なほど正直に触れてくる。誰かが長いあいだ握っていたのか、それとも湿った空気だけを吸ったのか、判断できない。ただ、表紙の角は私の手の中で小さく沈み、紙の柔らかさが、倒れた人間の体温をまだ返しているようだった。
救急隊員が階段を上がってきた。
「患者さんはこちらですか」
西岡が場所を空ける。隊員の靴が踊り場へ入り、無線の音と、ゴム手袋を引き伸ばす音が重なる。階下からは、誰かが作っている夕食の匂いが上がってきた。醤油を煮詰めた匂い、焼いた魚の脂、濡れたコンクリートの冷たさ。生活は何事もなかったように、同じ建物の中で続いている。
美咲は担架へ移される前に、目を開けた。
瞳が私を探した。
「相沢さん」
私は身をかがめた。
「手帳は、ここにあります。勝手に開いていません」
美咲の目が、ハンカチに包まれた手帳へ移った。
「……まだ、持っていたんですね」
「誰がですか」
「鍵を」
声は細かった。私は聞き返そうとしたが、西岡が手を上げた。
「無理に話さなくていい」
美咲は首をわずかに振った。
「違います。話さないと、また戻ってくる」
「何が」
「名前が」
救急隊員が彼女の肩を支える。美咲の指が、私の袖をつかんだ。力は弱かったが、離れようとしなかった。
「屋上の鍵は……」
彼女は息を吸った。
湿った階段の空気が、喉の奥で細く鳴る。
「屋上の鍵は、あの人が戻した」
その言葉だけが、踊り場に残った。
「あの人というのは、誰ですか」
私が訊くと、美咲の指から力が抜けた。
目は開いていたが、私を見ていなかった。鉄扉の向こうか、十年前の夜のどこかへ視線が移っているようだった。
西岡が私の肩を押さえた。
「今は、それ以上聞くな」
「でも」
「聞こえたことと、聞き取れたことは違う。今の証言は、本人が落ち着いてから確認する」
「彼女は、鍵を戻した人物を知っている」
「そうかもしれない」
「田所さんか、成瀬さんか」
「まだ名前は出ていない」
「だからこそ、確かめる必要があります」
西岡は私をまっすぐ見た。階段の窓から差す赤い光が、彼の頬を薄く染めていた。
「高見沢さん。あなたは違和感を拾う。紙の端、鍵穴の擦れ、証言の間。そういうものを見つける力はある。ただ、拾ったものをすぐ誰かの名前へ結びつけるな。名前は便利だ。名前を置けば、謎の形が整う。だが、整った形は、たいてい現場に残っていた乱れを消す」
「それでも、戻された鍵はある」
「ある」
「記録を閉じた人間もいる」
「いるかもしれない」
「相沢さんは、神崎さんを守ったと言った」
「その三つを並べても、まだ一つの答えにはならない」
「では、何が足りないんですか」
西岡は一度、手帳の余白へ視線を落とした。彼の現場手帳には、短い文字が細かく並んでいる。時刻、位置、発言。感情の名前はない。
「鍵が戻された場所。誰が持っていたか。戻したあと、どの記録が変わったか。それから、神崎が屋上で何を見たのか」
「相沢さんは知っている」
「知っていても、いま話せるとは限らない」
「話せないことと、話さないことは違うでしょう」
「違う。だが、違いを決めるのは本人だ」
担架が動き出した。車輪が階段の段差へ当たり、金属が小さく軋む。美咲の手が毛布の上で揺れた。私は包んだ手帳を、隊員へ渡そうとして手を止めた。
「これは、私が預かっています」
「病院へ持っていく」
西岡が言った。
「相沢さんの持ち物です」
「だからだ」
私はハンカチの端を見た。包んだ手帳は、まだ私の掌の形を返している。ここで渡せば、彼女の手元へ戻る。戻すべきものを戻す。それは簡単な動作のはずだった。
けれど、手帳の表紙に残る二本の青い線が、私を止めていた。
未確認。まだ誰かへ渡せない。
神崎が使っていた印だと、成瀬は言った。
「中は見ていません」
私は西岡へ手帳を渡した。
「ただ、表紙にこの線がありました」
西岡はハンカチの上から手帳を見た。
「青い線か」
「ご存じですか」
「知らない。ただ、こういう小さな印は、書いた人間にとっては大きいことがある」
「十年前の現場でも、見たんですか」
西岡は答えず、手帳を内ポケットへしまった。
「病院へ行く。あなたはここに残れ」
「相沢さんの容体を」
「落ち着けば、話を聞く。あなたが来る必要はない」
「でも」
「高見沢さん。知ることと、立ち会うことは別だ」
救急隊員たちが階段を下りていく。西岡も最後に続いた。足音が一段ずつ遠ざかり、やがて建物の生活音に混じって消えた。
私は踊り場に残った。
鉄扉の錠前は、夕方の光を受けて黒く濡れている。鍵穴の周囲だけに、新しい擦り傷があった。誰かが何度も鍵を差し込み、回し、戻した跡だ。
屋上の鍵は、あの人が戻した。
あの人。
田所かもしれない。成瀬かもしれない。神崎を追った誰かかもしれない。美咲が守ろうとした人物かもしれない。
私は鉄扉の前へ歩いた。
扉の下には、三上が見つけた青い繊維がまだ残っていた。拾わずに、目で確かめる。風が階段を上り、紙のように薄い繊維をわずかに揺らした。
下の階から、インターホンが鳴った。
一度だけ。途中で途切れた。
私は振り返らなかった。
手帳は西岡の手へ渡った。けれど、表紙に触れた感触だけが、指先に残っている。紙の湿り気、角の柔らかさ、二本の線の深さ。誰かが忘れようとしても、忘れられなかった時間が、そこへ押し込まれていた。
私は手帳を開かなかった。
開かなくても、もう分かってしまったことがある。
十年前、誰かが屋上の鍵を動かした。
誰かがそれを戻し、記録を閉じた。
そして相沢美咲は、その動作を見ていた。
夕方の海風が鉄扉を撫でた。古い木と錆の匂いが混じり、階段の踊り場を冷たく満たしていく。
私は手帳へ触れた右手を、左手で包んだ。
名前のない「あの人」は、まだ誰のものでもない。
それなのに、その輪郭だけが、ひどく冷たかった。
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