第5話 階段の噂

三上蓮に声をかけられたのは、郵便受けを閉じた直後だった。
「今の、二通目?」
背後から聞こえた声に振り返ると、蓮が階段の手すりへ寄りかかっていた。片耳だけにイヤホンを入れ、もう片方は首へ垂らしている。薄いパーカーの袖から伸びた指が、手すりの錆を避けるように宙で止まっていた。
「見ていたんですか」
「見てたというか、聞いてた。古いポストは蓋を閉めるとき、最後に一回だけ鳴るんだよ。高見沢さんのは、その前に息を吸う音がした」
「郵便受けを開ける前に、いつも少し止まるんです」
「知ってる」
「知っている?」
「同じ棟に住んでるからね。人の癖って、顔より先に廊下へ出るんだよ」
蓮は笑った。軽い笑い方だったが、視線は私の手元に残っていた。私は新しく届いた封筒をまだ持っていない。玲子が帰ったあとに見つけた二通目は、濡れた角だけを確認してから、机の上のクリアファイルへ戻していた。
「三上さんは、神崎悠人という名前を知っていますか」
名前を出すと、蓮の笑顔が一度だけ薄くなった。
階段の下から、掃除機を引く音が上がってきた。蓮はすぐに身体をずらし、踊り場の壁際へ寄った。掃除機の先端が階段の角を擦り、古い塗料の粉が細く舞う。蓮はその粉を見ながら、掃除をしている女性が二階へ上がりきるのを待った。
「知ってるよ。というより、名前を知ってる人を知ってる」
「どういう意味ですか」
「この団地、名前そのものより、名前を聞いた人の顔を見たほうが早いんだ」
「顔ですか」
「うん。神崎って言うと、だいたい三種類に分かれる。知らない顔。思い出そうとする顔。それから、思い出したくない顔」
蓮は階段の手すりを指で二度叩いた。
「高見沢さんは、どれ?」
「私は、調べている顔でしょう」
「それは四つ目。いちばん面倒なやつ」
彼は冗談めかして言ったが、すぐにポケットから小さなノートを出した。表紙は何度も濡れて乾いたように波打っている。角には透明なテープが貼られ、ページの端から細い付箋が何枚も飛び出していた。
「頼まれていたもの、少し集めた。十年前の夜について、聞けた範囲だけ」
「誰に聞いたんですか」
「聞いたというより、聞かないふりをして近くにいた」
「それは聞き込みとは言わないと思います」
「でも、ここの人たちは正面から聞くと答えを作るからね。作った答えは、だいたい立派すぎる。自然な話には、もっと余計なところがあるんだよ」
蓮はノートを開いた。
最初のページには、部屋番号と時刻が並んでいた。
二〇四号室、夜九時過ぎに帰宅。 三〇一号室、雨戸を閉めたまま。 一階東側、屋上階段付近で足音。 管理人室前、会話の中断。 古い掲示板の前、誰かが立ち止まる。
「これ、どうやって調べたんですか」
「足音」
「足音だけで?」
「階段は便利だよ。人は階段を上るとき、嘘をつく余裕がないから」
「嘘をつく余裕がない?」
「息が上がる。足を置く場所を考える。誰かに会いたくないときは、踊り場で一度止まる。逆に、会いたいときは止まらずに上がる。音には、話す前の気持ちが出るんだよ」
蓮はページの端を親指で押さえた。
「十年前の夜のことを聞くとね、みんな話の順番が変わるんだよ」
「順番が?」
「最初は覚えてないって言う。次は雨だったかもしれないって言う。最後は、そんな夜はなかったって顔をする」
彼は共用掲示板の前へ歩き出した。私も後を追った。
掲示板は、階段脇の暗い壁に取りつけられている。回覧板の順番表や、清掃当番の紙が貼られていた場所だが、今はほとんど使われていない。画鋲の穴と、紙を剥がした四角い跡だけが幾層にも重なっていた。古い通知の一部が剥がれきらず、端を丸めて残っている。
蓮はその一枚へ指を伸ばした。
「これ、十年前のだと思う」
紙は茶色く変色し、表面に細かな斑点が出ていた。文字は途中で切れている。
屋上防水工事に伴う立入制限について。
下の部分は剥がされていた。日付も、工事の業者名も残っていない。ただ、紙の右下に、青いインクの線が二本だけ見えていた。
私は無意識に手帳へ触れた。管理人室の名簿の空白を見たあと、屋上の錠前の下で見た紙片。相沢美咲が押し入れの前で拾った紙にも、似た線が引かれていた。
「この掲示は、いつからここに?」
「俺が住み始めたときにはもうあった。剥がされかけてたけど、田所さんが完全には取らなかった」
「田所さんが?」
「掲示板の紙は、管理人が剥がすんだよ。普通はね」
「では、どうして残っているんですか」
「残したのか、剥がせなかったのか。そこまでは分からない」
「三上さんは、分からないことを分からないままにするんですね」
「高見沢さんに言われると、ちょっと嫌味に聞こえるな」
蓮は笑ったが、すぐに掲示板へ顔を近づけた。
「でも、分からないまま置いておくと、あとで誰かが見つける。見つけた人がどう扱うかは、その人次第だけど」
「あなたは、噂を集めているだけではないんですか」
「噂は、集めるだけなら楽しいよ。人の秘密を小さくして、ポケットに入れられるから。でも、小さくしたまま持ってると、いつか重くなる」
蓮の声から、軽さが少し消えた。
「昔、この棟で急にいなくなった人がいた。引っ越しだって言われたけど、その人の部屋には洗った食器が残ってた。冷蔵庫の中には、開けたばかりの牛乳もあった。次の日から、誰もその人の話をしなくなった」
「神崎さんですか」
「違う。俺が小学生のころの話」
「それでも覚えている」
「覚えるよ。いなくなった人より、いなくなったことを見なかったことにする周りのほうが、ずっと目立つから」
掲示板の向かいに、二階の住民らしい女性が立っていた。買い物袋を片手に、古い張り紙を見上げている。蓮が気づくと、彼は急に声を張った。
「あ、そうだ。奥さん、去年の清掃当番表ってまだ持ってます? 僕、提出したか忘れちゃって」
女性は振り返り、蓮の顔を見た。
「三上さん、またですか。あなたのところは先月でしょう」
「ですよね。じゃあ、去年じゃなくて一昨年か」
「そんなに前のもの、取ってあるわけないでしょう」
「いや、うちの母が何でも残すんで。古い領収書とか、病院の薬袋とか」
「それは、あなたのところだけですよ」
女性は呆れたように笑った。だが、蓮がさりげなく「十年前の掲示って、まだ残ってるんですね」と言うと、笑い声が途中で細くなった。
「ああ……それは田所さんに聞けばいいんじゃないですか」
「屋上の工事の紙ですよね。雨漏りでもしたんですか」
「さあ。昔のことだから」
「神崎さんが失踪したころの?」
女性の手から、買い物袋の持ち手がわずかに滑った。
中で瓶が触れ合い、硬い音がした。
「その話は、もう終わったことでしょう」
「終わったんですか?」
蓮の声は明るかった。けれど、私は彼の右足が階段側へ半歩引かれているのを見た。相手を追い詰めないための距離だった。
「終わったというより、誰も話さなくなっただけです」
女性はそう言ったあと、私を見た。
「新しい方には関係ないことです。古い団地では、住んでいる人間が変われば、話も変わりますから」
「話が変わるというのは、事実が変わるということですか」
私が尋ねると、女性は目を伏せた。
「高見沢さん、だったかしら。あなたは、言葉を揃えすぎるんですよ。暮らしの中には、揃わないまま置いておくものもあります」
それだけ言って、女性は階段を下りていった。
三段目で足音が止まった。
振り返ったのかもしれない。けれど、私には確認できなかった。少しして、足音は一階へ消えた。
「今の人、何か知っているんでしょうか」
「何かは知ってる」
「断言するんですね」
「顔じゃなくて、帰り方を見たから」
「帰り方?」
「本当に何も知らない人は、話のあとすぐ歩き出す。さっきの人は、三段目で止まった。あそこからなら掲示板が見える。自分が何を置いてきたか、確認したんだと思う」
蓮はノートへ何かを書き込んだ。
「それも記録するんですか」
「する。事実かどうかは後で考える」
「でも、推測でしょう」
「推測を推測のまま書く。高見沢さんは、そういうの嫌い?」
「嫌いではありません。事実と同じ場所に置かれるのが嫌なんです」
「なら、場所を分ければいい」
蓮はノートを開き直し、ページの中央へ一本の線を引いた。
「こっちは見たこと。こっちは俺の考え。混ぜなければ、噂も使える」
その言葉に、私は少しだけ黙った。
会社では、数字と推測を同じ表へ入れないようにしていた。けれど、団地の人間関係は表のように整わない。誰かの沈黙、足音の止まり方、扉の閉じる速さ。どれも単独では証拠にならないが、重ねれば、空白の周囲に形を作る。
蓮は別のページを開いた。
「神崎悠人の名前を出したとき、目を伏せた人を記録してる」
「何人ですか」
「五人。うち二人は、すぐ話題を変えた。ひとりは田所さんの名前を出した。もうひとりは、屋上じゃなくて階段のことを話した」
「階段?」
「そう。神崎が屋上へ行ったかどうかを聞いたら、その人は『屋上なんか誰も行かない』と言った。そのあとで、三階から二階へ降りる足音の話を始めた」
「矛盾しています」
「だから気になる」
「何時の足音ですか」
「夜の十時半ごろ。でも、その人は最初、夜九時には寝ていたと言ってた」
蓮は、鉛筆の先をページへ置いた。
「ねえ、高見沢さん。屋上に行った人間がいるとして、どうしてみんな屋上の話を避けると思う?」
「立入禁止だったから」
「それだけなら、規則違反の話で済む」
「何かを見たから?」
「見た人がいるなら、見たものがある」
「では、見たものを言いたくない理由は」
蓮はすぐに答えなかった。
廊下の端で、古いインターホンが鳴った。
音は一度だけで、途中から掠れた。誰かが応答する気配はない。蓮は反射的に階段の上を見た。私は玄関の郵便受けへ視線を向けた。
音が消えたあと、建物の中に薄い振動が残った。
「今の、二〇二号室じゃない」
「分かるんですか」
「音の反響が違う。三階の端。たぶん三〇五」
「あなたは、部屋番号まで分かるんですね」
「毎日聞いてるから」
蓮は軽く言ったが、指先はノートの端を強く押さえていた。
「もし、見たものが誰かの生活を壊すものだったら、どうしますか」
「あなたなら?」
「俺? まず、見なかったことにするかな」
「それは、見た人間の責任から逃げることではありませんか」
「そうだね。でも、見たことを言ったせいで、別の人が壊れることもある。団地って、誰か一人の正しさで全員を救えるほど広くないんだよ」
「それなら、誰も何も言わなくなる」
「そう。だから、みんな同じ顔で黙る」
蓮はノートを閉じた。
「でも、俺はその顔を覚えておく。話さないことと、何も見ていないことは違うから」
彼は階段を上り始めた。
私はその後ろを歩いた。蓮はエレベーターを使わず、いつも通り階段を選んだ。足音は軽い。けれど、踊り場へ差しかかるたび、ほんの少しだけ速度を落とす。誰かがこちら側から来ていないか、音の重なりを確認しているようだった。
三階へ着くと、屋上へ続く鉄扉が見えた。
立入禁止の札が、風もないのに揺れている。
蓮は扉の前を通り過ぎかけて、急に足を止めた。
「ここ、夜になると音が変わるんだ」
「どんなふうに」
「下から誰かが上がってくると、三階の踊り場だけ足音が一つ消える。鉄扉の前で、音が吸われるみたいに」
「扉が厚いからでは?」
「昼はそう。でも夜は、扉の向こうから返ってくる音がある」
「誰も入れないはずなのに」
「だから、変なんだよ」
蓮は札へ手を伸ばしたが、触れる寸前で止めた。私と同じように、痕跡を残すことを避けたのかもしれない。
代わりに、扉の下へ視線を落とす。
床には砂埃が薄く積もっていた。その中央だけ、細い線が途切れている。何かが引きずられたような跡だった。
「これ、いつから?」
「昨日はなかった」
「見たんですか」
「見た。俺、階段の段差も数えてるから」
蓮は冗談のように言ったが、今度は笑わなかった。
鉄扉の向こうから、何かが擦れる音がした。
紙のような、乾いた音だった。
私は息を止めた。蓮も動かなかった。建物の奥で水道管が鳴り、遠くの部屋からテレビの笑い声が流れてくる。その平凡な音の間に、もう一度、何かが擦れた。
蓮が私の袖をつまんだ。
「下りよう」
「なぜですか」
「今、聞いたことを誰かに見られたくないから」
「誰に?」
「分からない。分からないけど、ここで立ち止まる人間を、誰かが数えている気がする」
彼の指はすぐに離れた。
私は鉄扉を見た。錠前は閉じている。鍵穴の周囲だけ、塗装が新しい。そこに、細い青い繊維が一本貼りついていた。
私は触れずに目へ焼きつけた。

階段を下りるとき、蓮は一段ごとに足音を数えた。三階から二階へ、二階から一階へ。途中で一度、彼の数が止まった。
「どうしました」
「今、誰かが上ってきた」
下からは誰の足音も聞こえない。
蓮は壁際へ寄り、息を潜めた。私も同じように立ち止まる。湿った階段の空気が、皮膚へ薄く貼りついてくる。古い木製の扉の隙間から、夕方の海風が細く流れ込んでいた。
やがて、一階の廊下から金属が触れ合う音がした。
鍵束の音だった。
田所が管理人室の前で、鍵を数えている。
足音は一つも近づいてこないのに、階段の空間だけが狭くなったように感じられた。
「田所さんが、上を見ています」
蓮が囁いた。
「見ている?」
「管理人室の窓から、階段の踊り場が見えるんだよ。ここに誰かいると、足元だけ映る」
「では、今も」
「うん。俺たちの靴が見えてる」
私は階段の下を見た。
田所の姿は見えない。けれど、管理人室の窓ガラスに、濃い影が一度だけ動いた。
蓮が私の袖を引いた。
「今は、降りないほうがいい」
「なぜですか」
「見られてると分かって降りると、見られていることを認めることになるから」
「それは、あなたの考えですか」
「そう。だから、事実とは別のページに書く」
彼はノートを取り出そうとしたが、ポケットへ手を入れたところで止めた。
階下から、田所の声がした。
「三上」
呼び方は短かった。怒鳴ってはいない。それでも、階段の壁を伝って上がってくる声には、鍵束より強い重さがあった。
「そこにいるなら、降りてこい」
蓮は返事をしなかった。
私は息を整えた。ここで黙り続ければ、蓮が巻き込まれる。私の調査に付き合っているだけの彼を、私の疑いの中へ引き入れるべきではない。
「行きましょう」
私が言うと、蓮はわずかに首を振った。
「高見沢さん、今の声、聞いた?」
「聞きました」
「怒ってない」
「そうですね」
「怒ってない人の声じゃない。怒る必要がない人の声だよ」
私は階段の下を見た。
田所は、私たちがそこにいることを知っている。知っていて、声を荒らげない。逃げ道を塞ぐのではなく、こちらから降りてくるのを待っている。
その静かな待ち方が、かえって怖かった。
蓮は一歩下がり、屋上へ続く鉄扉を見た。
「高見沢さん。あの夜、屋上へ行った人間がいたとしても、階段を上った音だけでは誰か分からない」
「服装や時刻が食い違うからですか」
「それもある。でも、もっと大事なのは、みんなが同じ場所で話をやめること」
「鉄扉の前?」
「うん。屋上のことを聞くと、誰も扉の向こうの話をしない。扉へ行くまでの階段の話ばかりする」
「どういう意味ですか」
「階段なら、あとから言い換えられる。誰が上った、何時だった、雨だった。けど、扉の向こうで何があったかは、見た人間しか言えない」
蓮はノートを胸へ抱えた。
「だから、そこだけみんな黙る」
そのとき、鉄扉の向こうで、はっきりと音がした。
金属が床へ落ちた音だった。
私と蓮は同時に振り返った。錠前は動いていない。扉も閉じたままだ。けれど、向こう側に何かがあることだけは分かった。
田所が階下で、もう一度私の名を呼んだ。
「高見沢さん」
私は手帳へ触れた。
屋上の扉の下にあった青い繊維。 三階で消える足音。 住民が避けるのは、屋上へ上がった事実ではなく、扉の向こうで見たもの。 田所は、私たちが階段にいることを知っている。
蓮が囁く。
「今夜、郵便受けをもう一度見たほうがいい」
「なぜですか」
「さっき、管理人室の窓から見えた。田所さん、鍵を数えたあと、古いポストのほうを見てた」
「郵便受けを?」
「うん。投函口じゃなくて、底を見るみたいに」
私たちは階段を下りた。
管理人室の前を通ると、田所は窓際に立っていた。目は合わなかった。けれど、彼の右手には、白い塗料の跡がついた古い鍵が握られていた。
「何をしていた」
田所が訊いた。
「階段を歩いていました」
蓮が答えた。
「用がないなら、上へ行くな」
「階段を歩くのにも用が要るんですか」
「団地の中では、どこへ行くにも理由がある」
「それなら、田所さんが何を見ていたかも、理由があるんでしょうね」
蓮の声は軽かった。だが、田所の鍵を見ていた。
田所はしばらく黙り、古い鍵をポケットへしまった。
「余計なことを聞くな」
「聞くなと言われると、聞きたくなる性格なんで」
「若いから許されると思うな」
「若いから、見えたものを忘れにくいんですよ」
田所の喉が鳴った。
私は蓮の肩へ手を置いた。これ以上続ければ、彼の軽口が場をつなぐものではなく、刃になる。
「すみません。屋上へ行ったわけではありません」
「行っていないなら、何も言うな」
田所の視線が私へ移った。
「高見沢さん。ここは、あなたが思っているほど簡単な場所じゃない」
「簡単だと思っていません」
「なら、住民の話を集めるな。噂は人を壊す」
「噂ではなく、足音を聞いています」
「同じことだ」
「違います。噂は誰かが広げるものですが、足音は本人が残したものです」
田所の目が、ほんの少しだけ細くなった。
「残したものを、誰かが勝手に拾っていいと思うか」
「拾われたくないなら、最初から消せばいい」
「消したものまで拾う人間がいる」
「だから、消すことに意味があるんですか」
田所は答えなかった。
管理人室の奥で、壁時計の秒針が進んでいる。金属の針が一周するたび、室内の空気が薄く切られていくようだった。
やがて田所は、視線を私の手帳へ落とした。
「記録するなら、間違えるな」
「間違えないために、見ています」
「見たものを、そのまま書ける人間はいない」
「それでも、見なかったことにはしない」
田所は、ほんの一瞬だけ顔を上げた。
その表情に、怒りとも諦めともつかないものが浮かんだ。すぐに消えたが、私は見逃さなかった。
「帰れ」
田所はそれだけ言った。
私と蓮は管理人室を離れた。外へ出ると、夕方の風が廊下をまっすぐ吹き抜けた。海の匂いに、古い紙と錆びた金属の匂いが混じっている。
「怒られたね」
蓮が言った。
「あなたは、楽しんでいませんか」
「半分は」
「残りの半分は?」
「本気で怖い」
彼は笑わなかった。
私たちは古いポストの前で足を止めた。蓮は投函口へ顔を近づけず、ポストの側面を見ていた。塗装の剥がれた金属に、細い擦り傷がいくつもある。
「ここ、最近使われた跡がある」
「どこですか」
「底じゃない。蓋の裏」
私は身を屈めた。蓋の内側に、白い紙の繊維が貼りついている。濡れた封筒から剥がれたものに見えたが、そのすぐ脇に、鉛筆で短い線が二本引かれていた。
掲示板の紙片。屋上の下に落ちていた線。相沢美咲が残した封筒の束。
同じ形だった。
蓮が低い声で言った。
「これ、神崎の手紙と同じ線じゃない?」
「まだ分かりません」
「高見沢さんは、分からないって言いながら、もう手帳に書く顔をしてる」
私は線へ触れなかった。
紙の表面には、指で押したような浅いへこみが残っている。誰かが鉛筆を強く押しつけ、同じ長さの線を二本だけ引いた。署名ではない。宛先でもない。けれど、誰かにとっては意味がある印だった。
私は手帳を開いた。
蓮のノートに記された、住民の足音と沈黙。 屋上へ続く階段。三階で消える音。 掲示板、鉄扉の下、古いポストに残る二本の線。 田所は、鍵を数えたあとポストの底を見ていた。
書き終える前に、蓮が言った。
「もう一つある」
彼はポストの脇に落ちた小さな紙片を拾い上げた。今度は躊躇がなかった。紙片の端には、古い青いインクが残っている。
「これ、見覚えある?」
私は紙片を受け取らず、目だけで確かめた。
印刷された文字の一部だった。
――夜十時三十分、屋上階段の照明交換。
その下は破れている。
蓮は紙片を掌の中で折りたたんだ。
「これ、俺が持っていていい?」
「勝手に持ち出すと、あとで困るかもしれません」
「じゃあ、写真を撮る」
彼はスマートフォンを取り出し、紙片を床へ戻した。撮影したあと、紙片の向きを元へ戻す。軽い口調のわりに、物の位置を変えないところだけは几帳面だった。
私はその動作を見ていた。
「三上さん」
「なに?」
「噂を集めるのは、面白いからですか」
蓮は少し考えた。
「最初はね。人の話って、動画より暇つぶしになるし。でも、誰かがいなくなったあと、みんなで同じ方向を見ないふりするのを知ってから、面白がれなくなった」
「それでも続けている」
「続けるしかないことってあるよ。見たものを、見た人の中だけに置いておくと、その人がいなくなったとき一緒に消えるから」
彼は古いポストを見上げた。
「神崎って人も、そうだったのかもしれないね」
海風が吹き、ポストの蓋が一度だけ鳴った。
私は蓋を押さえた。金属の冷たさが、指先から腕へ伝わる。中には何もない。けれど底には、白い紙の繊維と、二本の青い線が残っている。
誰かが言葉ではなく、線だけを運んでいる。
階段の足音。住民の沈黙。古い掲示板。封印された扉。郵便受けの底。
それらはまだ一つの答えにはならない。けれど、同じ場所を指していた。
屋上へ上がった人間がいた。
その人間を見た者がいた。
そして、見たことを言わないために、団地の中で何かが少しずつ削られていった。
私はポストの蓋を閉じた。
今度は、最後の金属音が鳴る前に手を添えた。音を止めたつもりだったが、指の腹には小さな振動が残った。
蓮が階段の上を見た。
「高見沢さん」
「はい」
「今夜、三階の踊り場を見張る?」
私は答える前に、屋上の鉄扉を思い出した。
扉の向こうで落ちた金属音。田所の白い鍵。紙片に印刷された十時三十分という時刻。誰も話さない夜。
「見張るのではなく、聞きます」
「それ、似たようなものじゃない?」
「違います。見張ると、相手を疑うことになる。聞くなら、まだ残されたものを確かめられる」
蓮は口元だけで笑った。
「高見沢さん、そういうところ、神崎に似てるかもね」
名前が、また廊下に落ちた。
今度は誰も目を伏せなかった。けれど、二階のどこかで扉が閉まり、少し遅れて、三階の窓が一つだけ開いた。
風が入る。
古い階段を上っていく風は、紙の端をめくるように静かだった。私はその向きを確かめながら、手帳の最後に一行を書き足した。
十時三十分。 階段は、誰かの足音を待っている。
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