第4話 流通の傷

高瀬玲子から連絡があったのは、仕事を終えて潮見台ハイツへ戻った直後だった。
「今夜、寄ってもいい?」
電話の向こうで、紙をめくる音がした。玲子は用件を先に言うことが多い。挨拶や前置きがないのは、急いでいるときではなく、すでに頭の中で話す順番を決めているときだった。
「郵便の件ですか」
「その件以外に、あなたの部屋へ行く理由はない」
「分かりました。コーヒーはあります」
「薄いのなら要らない」
電話が切れた。
私は台所へ向かい、電気をつけた。白い蛍光灯が、壁と流し台と、まだ片づけきれていない書類を平らに照らす。夕方の海風が廊下側から入り、窓のない台所の隅に、湿った空気を溜めていた。
管理人室で見た名簿の空白を、私は何度も思い返していた。削られた欄の周囲には、細かな紙の毛羽立ちがあった。田所は「古い記録の破損」と言ったが、破損した紙は、あれほど都合よく一人分の枠だけを失わない。
机代わりにしている段ボール箱の上へ、封筒を並べた。
最初に届いた神崎悠人名義の封書。相沢美咲へ宛てられたもの。海風通りの消印。湿った紙。青みを帯びた手書きの文字。
その横に、玲子から見せてもらうことになっている記録を置くための空間を空けた。
物を並べるとき、私は無意識に角を揃える。けれど、今夜は封筒の位置を何度直しても、机の上に落ち着かなかった。紙そのものが、どこか別の場所へ戻ろうとしているように見えた。
インターホンが鳴った。
私は一度手を止めてから、玄関へ向かった。
ドアを開けると、玲子が立っていた。紺色のコートの肩に、細かな雨粒が残っている。雨は降っていなかったはずだが、海風通りの先では霧雨になっていたらしい。彼女は挨拶の代わりに、薄いファイルを胸元から出した。
「先に言っておく。正式な照会結果ではない」
「分かっています」
「分かっていない顔をしている」
「どういう顔ですか」
「記録を見たら、すぐ誰かを疑う顔」
玲子は靴を脱ぎ、左右のつま先を揃えた。私もその向きを直したくなったが、今日は先に彼女が整えていた。
「上がってください」
「部屋の中は見ない。手紙の置き場所だけ確認する」
「それは、ずいぶん具体的ですね」
「郵便物は、置き場所が変わると持ち主の扱いも変わるから」
玲子は台所へ入り、机の上の封筒を一枚ずつ見た。手に取る前に、表と裏を確認する。封の端に指を添え、糊の硬さを確かめる仕草は、封筒を読むというより、そこへ至るまでの経路を探っているようだった。
「これが最初の一通?」
「はい。相沢美咲宛てで、差出人は神崎悠人。消印は海風通り」
「受け取ったのは何日前?」
「三日前です」
「届くまでに、どこを通ったと思う?」
「海風通りの郵便局から、潮見台ハイツへ」
「それでは普通すぎる」
玲子はファイルを開いた。
中には、何枚もの転送履歴の控えが入っていた。用紙の大きさも種類も揃っていない。古いコピー、新しい印字、手書きの確認欄。どれも一度は誰かの手に渡り、別の場所へ押し出された紙だった。
「これは、過去一年分で神崎悠人の名前が残っていたもの。全部じゃない。拾えた分だけ」
「過去にも届いていたんですか」
「潮見台ハイツへ、ではない。正確には、潮見台ハイツを経由して、別の住所へ転送されたものがある」
玲子は一枚目を机の中央へ置いた。
「差出人欄は神崎悠人。宛先は相沢美咲。住所はこの部屋。二〇二号室。ただし、配達処理の途中で転送先が書き換えられている。相沢さんが住所変更を出したあとなら、普通は新住所へ送られる」
「でも、これは戻ってきた」
「そう。転送先不明として、いったん海風通りの集配局へ戻っている」
二枚目が置かれる。
「二通目は、海風通りから旧市街の小さな支局へ回されている。ここで一度、保留扱いになった。保留の理由は記録上、宛名不鮮明」
「宛名は読めたんですか」
「読める。少なくとも、私なら読める。相沢美咲という文字に、崩れはない」
「では、誰かがそう処理した?」
「可能性はある。ただし、郵便局員が勝手に処理したと決めつけるには早い」
玲子は三枚目を置いた。
「三通目は、住所変更の棚に入っていた。ここが変」
「どう変なんですか」
「住所変更の棚は、転送届が未処理だったり、確認が必要な郵便物を一時的に置く場所。そこへ入ったものは、通常なら翌日か翌々日に確認される。けれど、この封書は四日間動いていない」
「四日間?」
「正確には三日と十六時間。郵便物がそこに置かれた時刻と、次の処理時刻が残っている」
私は用紙の端を押さえた。
「誰かが、意図的に止めたんでしょうか」
「人が止めたかどうかは、まだ分からない。仕分けの混乱、棚の取り違え、引き継ぎ漏れ。郵便の現場には、説明できる不具合がいくらでもある」
「玲子さんは、説明できると思っていますか」
玲子は返事をせず、ファイルの角を揃えた。
紙の端が一度だけ机に当たり、乾いた音がした。
「説明できる不具合は、同じ形で何度も起きない」
「同じ形?」
「経路が毎回違う。止まる場所も違う。なのに、最後はこの団地へ戻ってくる。流れを止めている人間がいるなら、同じ場所で止める必要はない。むしろ、毎回違う場所に置いたほうが、ただの事務処理に見える」
私は最初の封筒へ目を落とした。
湿った紙肌。波打った角。糊のひび。封筒だけが古く、切手は新しい。
「誰かが、神崎悠人の名を使って手紙を出している」
「そう考えるのが自然」
「本人の可能性は」
「十年前に失踪した人が、今も手紙を出している可能性を、あなたは何パーセントにする?」
「数字では決められません」
「あなたは書類の不一致には数字を使うのに、人間の不在になると急に使わなくなる」
「人間の不在は、書類の空欄とは違います」
「違うから厄介。郵便は、いない人間の名前でも運ぶ。宛先が残っていれば、名前は働き続ける」
玲子の声は平らだった。冷たいわけではない。感情を表に出さないぶん、言葉の一つひとつがそのまま机の上へ置かれる。
「郵便局では、差出人の本人確認はしないんですか」
「通常の封書なら、しない。差出人欄に誰の名前を書くかは、差出人の自由。郵便局は、そこに書かれた名前の人生までは確認しない」
「では、神崎悠人と書けば、誰でも彼になれる」
「郵便の上ではね」
「それなら、手紙を書いた人間を絞ることはできない」
「名前だけなら。でも、紙と経路は別」
玲子は最初の封筒を裏返した。
「封筒の紙は、一般的な市販品ではない。少なくとも、今の流通量は少ない。表面の繊維が粗く、糊の乾き方も古い。あなたは印刷所の紙かもしれないと言っていた」
「神崎さんは印刷所で働いていました」
「それだけでは結びつかない。けれど、手紙を出した人間がこの紙を選び、しかも海風通りを通しているなら、旧市街の印刷所周辺を知っている可能性は高い」
「成瀬さんも、あの辺りのことを知っています」
「喫茶店主?」
「神崎さんを知っているようです」
「相沢さんも?」
「その反応がありました」
玲子はファイルの端に指を置いたまま、しばらく黙っていた。
「知っている、というのは便利な言葉ね」
「どういう意味ですか」
「顔を知っているのか、名前を知っているのか、事情を知っているのかで意味が変わる。郵便の記録では、そこまでは分からない」
「でも、経路なら分かる」
「経路は人の代わりにはならない。ただ、人が隠したつもりの動きは残る」
玲子は、地図を一枚取り出した。海風通りを中心に、細い線が幾つも引かれている。集配局から支局へ、支局から団地へ、団地から転送先へ。線は何度も折れ、同じ場所へ戻っていた。
「見て」
彼女は赤ペンで三つの点を囲んだ。
「最初の封書が止まったのは、海風通りの旧商店街に近い集配箱。二通目は、小さな支局。三通目は、潮見台ハイツの管理人室に近い配達区分」
「管理人室に近い?」
「配達員が団地内の郵便受けへ回る前に、いったんまとめて置く場所がある。管理人室の脇を通る。通常、管理人が郵便物を触ることはない。でも、古い団地では、住民が不在のとき管理人が預かる場合もある」
「田所さんが、郵便に関わっている?」
「関わっているとまでは言っていない」
「玲子さんは、いつもそうやって言葉を止めるんですね」
「止めているんじゃない。確認できていない部分を、確認できたように言わないだけ」
「私もそうしたいと思っています」
「あなたは、思ったことを手帳に書くでしょう。書いたものは、あとで自分の推測を事実の隣に並べる。並んだものは、時間が経つと同じ重さになる」
私は返事をしなかった。
手帳には、田所の鍵束に白い塗料のついた鍵があったこと、相沢美咲が「残る時間がなくなった」と言ったこと、屋上の鍵穴だけが新しかったことが記されている。
そこへ今、郵便の経路が加わった。

紙の上で点と線が増えていく。人の姿はないのに、動いた跡だけが残っている。
「この手紙は、相沢さんに届く必要があったんでしょうか」
「届かないと困る人間がいた可能性はある」
「相沢さん本人が読むために?」
「それは分からない」
「では、誰かに見せるため?」
「郵便物は、宛先に届くまでの間に、いろいろな人の手を通る。差出人が相沢さんに届けたいと思っていても、別の人間が途中で読むことはある。逆に、届かせたくない人間が、届いたように見せることもできる」
「この手紙は、届かせたかったのか、届かせたくなかったのか」
玲子は、濡れた封筒の角を見た。
「戻しながら隠している。私にはそう見える」
その言葉が、部屋の中でゆっくり沈んだ。
誰かが手紙を出す。誰かが途中で流れを曲げる。届くはずのない部屋へ、古い名前だけが戻ってくる。
郵便は、何かを運ぶための道具だと思っていた。けれど、道具は使う人間の手つきを隠さない。むしろ、何度も使われるほど、使った癖を残す。
「玲子さん」
「何」
「この記録の中に、神崎さん本人が出したと分かるものはありますか」
「ない」
「では、本人ではないと分かるものは」
「それもない」
「同じですね」
「違う。分からないことと、分からないまま放置することは別」
玲子はファイルを閉じた。
「私は仕事として、ここまでしか言えない。これ以上は正式な照会が必要になる。ただ、ひとつだけ言える」
「何ですか」
「この郵便は、自然には戻ってきていない」
玲子の指が、封筒の裏面をなぞった。
「差出人欄の名前、宛先、紙、消印、転送の順番。どれか一つなら偶然で済む。でも、全部が同じ方向を向いている。誰かが神崎悠人という名前を、郵便の流れの中で生かしている」
「生かしている?」
「正確には、消えないようにしている」
その言葉に、私は名簿の空白を思い出した。
田所は名前を削った。郵便は名前を戻している。
ただし、戻ってくるのは人間ではなく、紙の上の名前だけだった。
「消えないようにしているのなら、誰かが神崎さんを守ろうとしているんでしょうか」
玲子はすぐに答えなかった。
窓の外で、雨粒が手すりへ当たった。風が強くなり、廊下のどこかで古いポストの蓋が震えている。
「守るために名前を使う人もいる。追い詰めるために使う人もいる。名前を借りるだけで、本人が何を望んでいるかは分からない」
「相沢さんは、手紙を見ていました。怖がっていた」
「怖がっている人は、必ずしも悪いことをした人ではない」
「分かっています」
「なら、相沢さんの沈黙を証拠にしないで」
玲子の声が初めて強くなった。
「あなたが今やろうとしているのは、記録の空白を埋めることじゃない。空白の周りにいる人間を、一人ずつ疑うことになりかねない。手紙が届いたからといって、前の住人が何かを知っているとは限らない。知っていたとしても、話せるとは限らない」
「では、黙っていればいいんですか」
「そうは言っていない」
「玲子さんは、配達の誤りを放置しないと言いました」
「郵便の誤りと、人の沈黙は違う」
「違うから、難しいんです」
「難しいから、雑に扱うなと言っている」
玲子は一度息を吸い、机の上の封筒を私の側へ押し戻した。
「私は、郵便物を正しい宛先へ届ける仕事をしている。届かなければ、理由を調べる。けれど、人の記憶まで正しい場所へ届けられるわけじゃない。受け取る準備がない人間のところへ、真実だけを投げ込めば、届いたことにならない」
「それでも、届かないままにするよりは」
「あなたは、届ける側の責任ばかり考えている」
玲子の指が、ファイルの端をきっちり揃えた。
「受け取った側が、そのあと何を抱えるかも考えて。郵便は、投函した人の手を離れた瞬間から、受け取る人の生活へ入る。そこへ入る以上、正しさだけでは足りない」
私は封筒を見た。
紙は乾いていた。けれど、最初に触れたときの柔らかさをまだ覚えている。水気を含んだ紙は、指の形をしばらく返さなかった。誰かの手から離れても、触れられたことだけは消えない。
「相沢さんは、何を受け取ったんでしょう」
「手紙ではなく、名前かもしれない」
「名前?」
「神崎悠人という名前が、十年ぶりに自分の部屋へ戻ってきた。それだけで、過去は現在の形になる」
玲子は立ち上がった。
「明日、もう少し古い記録を探す。十年前の転送履歴が残っているかもしれない」
「そこまで調べてくれるんですか」
「あなたが頼んだからではない」
「では?」
「私の仕事の中に、戻ってこない郵便物があるから」
玲子はコートの袖を整えた。
「戻ってこないものは、行方不明として扱える。でも、戻り続けるものは扱いに困る。何度も同じ名前が戻ってくるなら、どこかで誰かが流れを作っている。仕事として、それを見過ごしたくない」
「ありがとうございます」
「礼は要らない。代わりに、明日から郵便受けを開ける前に、周囲を見て」
「周囲?」
「投函された直後の郵便物は、紙より先に人の気配を残す。誰かが見ているかもしれない」
玲子は玄関へ向かった。
ドアを開けると、湿った廊下の冷気が部屋へ入り込んだ。古い木製の扉が、海風に押されて低く軋む。
「玲子さん」
呼び止めると、彼女は振り返った。
「この手紙を出した人は、今もこの町にいると思いますか」
「紙がこの町を知っているなら、出した人間も知っている可能性はある」
「本人かもしれない?」
「本人だとしても、十年前の本人と同じ人間だとは限らない」
それだけ言って、玲子は廊下へ出た。
階段を下りる足音が、踊り場ごとに薄く反響する。私は玄関に立ったまま、その音が一階へ消えるまで聞いていた。
部屋へ戻ると、机の上の書類が一枚だけずれていた。
風のせいだと思った。
けれど、その紙は窓から最も遠い場所に置いていた。私は紙を拾い、角を揃える前に表面を見た。
転送履歴の控えだった。
最下部の備考欄に、玲子が先ほど見せなかった小さな記載がある。
転送先不明。差出人へ返送。
その下に、鉛筆で薄く書かれた文字があった。
返送先、該当なし。
私は何度もその四文字を読んだ。
差出人へ返すはずの郵便が、差出人へ戻れない。戻る場所がないのではなく、戻るべき場所を誰かが消している。
台所の蛍光灯が一度だけ明滅した。
その瞬間、封筒の紙肌に浮いた繊維が、海底の細い道のように見えた。道は集配局から支局へ、支局から団地へ、そして誰かの手元へ戻っている。
私は手帳を開いた。
神崎悠人名義の郵便。複数回。経路は毎回違う。最終的に潮見台ハイツへ戻る。 差出人への返送先、該当なし。 名前だけが、戻る場所を失ったまま流れている。
書き終えたところで、玄関の外から音がした。
郵便受けの蓋が、ゆっくり閉じる音だった。
私は手を止めた。
玲子が出てから、まだ数分しか経っていない。廊下を歩く住民の足音は聞こえない。風も一度止まっていた。
もう一度、金属が触れ合う。
私は玄関へ向かった。ドアノブに手を置き、すぐには回さなかった。外の気配を確かめる。古い木の扉は、冷たく、わずかに湿っている。
ドアスコープを覗く。
誰もいなかった。
郵便受けを開ける。
中には、白い封筒が一通だけ入っていた。
宛名は、相沢美咲。
差出人欄には、やはり神崎悠人の名があった。
私は封筒を取り出さず、暗い箱の底に残る紙の重さを見つめた。新しい封筒なのに、角だけが濡れている。海風にさらされた廊下の冷たさが、指先へ先回りしてくる。
名前は、また戻ってきた。
今度は、私が見ている前で。
← 横にスクロールして読み進められます
