第3話 空白の名簿

管理人室へ向かう廊下は、夕方になると海の匂いが濃くなる。
潮見台ハイツの建物は、海に向いた側だけが古びていた。外壁の白い塗装はところどころ剥がれ、鉄の手すりには赤茶色の錆が浮いている。廊下の床には、昼間に乾いたはずの湿気が薄く残っていた。歩くたび、靴底がわずかに吸いつく。
私は手帳をポケットへしまい、管理人室の前で立ち止まった。
扉には「管理人室」と書かれた札が掛かっている。札の角は丸く擦れていたが、文字だけは新しく黒い。誰かが定期的に書き直しているらしい。古いものを古いままにしておかない。その几帳面さが、かえって不自然に思えた。
ノックを二度する。
「どうぞ」
返事はすぐには来なかった。
内側で椅子が引かれる音がしてから、田所勝の声がした。私は扉を開けた。
管理人室には、濃い茶と朱肉、それから湿った紙の匂いが混じっていた。窓は少し開いているのに、空気は動いていない。壁際には古い掃除道具が並び、机の上には帳面と鍵束が置かれている。鍵束は大きかったが、金属同士がぶつからないよう、田所の指が輪の根元を押さえていた。
田所は私を見ず、机上の紙を一枚ずつ揃えていた。
「何か用か」
「居住者名簿を見せていただけますか」
田所の指が止まった。
「何のために」
「十年前の記録を確認したいんです」
田所はすぐに答えなかった。喉の奥で一度だけ音を鳴らし、机の端に置かれたペンを拾った。ペン先を紙に当てることもなく、向きを変えて置き直す。
「名簿は住民の個人情報だ。誰にでも見せるものじゃない」
「私も、誰にでも見せてほしいとは思っていません。ただ、前の住人宛に届いた手紙の差出人が、十年前に失踪した人物の名前だったので」
「警察へ行け」
「その前に、ここで確認できることを確認したいんです」
「確認して何になる」
「分かりません。だから確認します」
田所はようやく私の顔を見た。
目が合ったのは一瞬だった。すぐに視線は私の靴へ落ちた。廊下の湿り気を拾った靴底、それから手に持っていた手帳、最後に胸元のポケットへ移る。そこに封筒を入れていると思ったのかもしれない。
「神崎の名前を聞いたのか」
「ご存じなんですね」
「この辺りに長くいれば、名前くらいは聞く」
「失踪した人の名前を、ですか」
「失踪した人間の名前は、残る。残ったからといって、何かが分かるわけじゃない」
「でも、名簿には残っているかもしれない」
「名簿は住んでいた人間を記録するものだ。いなくなった人間を探すものじゃない」
「だから見たいんです」
田所は鍵束へ手を伸ばした。
金属音が鳴ると思ったが、彼は輪の根元を押さえたまま、鍵を一本だけ抜いた。音はほとんどしなかった。その静かさが、耳に残った。
机の脇の引き出しを開ける。中には朱肉、印鑑、封筒、折りたたまれた書類が、紙の厚みごとに分けて収められていた。田所は一番下から黒い表紙の帳面を取り出した。
表紙には、潮見台ハイツ居住者名簿とある。
田所は帳面を机へ置く前に、表紙の角を指でなぞった。そこに付いた埃を払うような仕草だった。
「見るだけだ。写真は撮るな」
「分かりました」
帳面を開く。
紙は黄ばんでいた。端は何度もめくられたことで柔らかくなり、ページの中央には指の脂が薄く光っている。部屋番号と名前、入居日、退去日。文字はほとんどが田所の筆跡だった。細く、癖のない字で、同じ間隔に揃えられている。
私はページを順にめくった。
四〇二号室。入居者、退去者。四〇三号室。単身。四〇四号室。家族四人。
十年前の欄に差しかかる。
私は指を止めた。
神崎悠人の名前があるはずの位置だけ、紙が白く抜けていた。
単なる空欄ではなかった。
名前を書く枠そのものが、細長く切り取られている。上下の罫線は途中で途切れ、左右には古い紙を削ったような毛羽立ちが残っていた。切り抜いた上から別の紙を貼ったのではない。欄だけを、何か硬い刃物で薄く削り取ったように見える。
田所の手が、帳面の右端へ伸びた。
私はその手より先に、ページの端を押さえた。
「ここだけ、ありません」
「古い記録だ。破損もある」
「破損なら、なぜこの欄だけですか」
「湿気で紙が傷むことはある」
「周囲の文字は残っています」
「紙の質が違ったんだろう」
「枠ごと削れるほどですか」
田所は帳面を閉じようとした。
私は手を離さなかった。
力を込めたわけではない。押さえているだけだった。けれど、田所の指が止まった。鍵束を押さえているときと同じ指だった。金属の音も、紙の音も、彼の手の中では同じように閉じられる。
「神崎さんは、この団地に住んでいたんですね」
「名簿に名前がない」
「だから聞いています」
「住んでいたとは言っていない」
「では、なぜ欄が削られているんですか」
田所はしばらく黙っていた。
管理人室の外を、誰かが通り過ぎた。足音は扉の前で少し遅くなり、そのまま階段のほうへ消えた。部屋の中には、壁時計の秒針だけが残った。
「記録に残すべきでないこともある」
田所が言った。
「それは、誰が決めるんですか」
「管理する側だ」
「住んでいた人間より、管理する人間の判断が優先されるんですか」
「共同住宅は、個人の思い込みだけで保てる場所じゃない」
「思い込みではありません。名簿の欄が削られている」
「見れば分かることを、言葉にするな」
「言葉にしなければ、なかったことになる」
田所の顔から、わずかに血の気が引いたように見えた。
けれど、声は変わらなかった。
「なかったことにしたいなら、欄を削るだけでは足りない。名前を忘れさせる必要がある。住民の口を閉じさせ、郵便を止め、古い掲示を剥がし、部屋の鍵を替える。そういう手間を、誰が好き好んでかける」
「誰かが、かけたんでしょう」
「手間をかけたからといって、悪意があるとは限らない」
「善意ですか」
「善意だけでもない」
田所は帳面の上に手を置いた。
「この団地では、誰かが倒れれば、別の誰かが救急車を呼ぶ。水漏れがあれば、下の階へ知らせる。夜中に子どもの泣き声が続けば、管理人が見に行く。住民同士が近すぎれば揉めるし、離れすぎれば何か起きても誰も気づかない。だから、余計なものを広げないようにする。そういう判断をする人間が必要なんだ」
「余計なものというのは、何ですか」
「生活を壊すものだ」
「事実が生活を壊すんですか。それとも、事実を隠していたことが壊すんですか」
田所の指が、名簿の余白をなぞった。
「高見沢さん。あなたはまだここへ来たばかりだ。部屋の壁が薄いことも、誰が何時に帰るかも、どの家の子どもが夜泣きするかも知らない。知らないから、記録の空白を見て、そこへ自分の正しさを詰めようとする」
「詰めたいわけではありません」
「では、何をしたい」
問われて、私は答えに迷った。
手紙を返すだけなら、ここまで来る必要はなかった。前住人の私物を調べ、郵便の経路を気にし、押し入れの板の周囲に残る埃を見て、相沢美咲の沈黙を何度も思い返す必要もなかった。
それでも、答えを言葉にすると、急に自分の行動が軽くなる気がした。
「何があったのか知りたいんです」
「誰のために」
「自分のためではありません」
「そう言う人間は多い」
「私も、自分が納得したいだけかもしれません。ただ、それでも、知ろうとすることまで誰かに決められたくはない」
田所は黙った。

窓の隙間から海風が入り、机の上の書類の端がわずかに浮いた。田所は反射的に手を伸ばし、一枚ずつ押さえた。紙を押さえる動作は丁寧だった。乱れたものを戻しているだけなのに、そこには、戻してはいけないものまで元へ押し込めるような力があった。
「屋上の鍵を見せてください」
言うと、田所の手が止まった。
「屋上は立入禁止だ」
「鍵があるんですね」
「ない」
「今、見せてくださいと言っただけです」
「ないものは見せられない」
「では、どうして立入禁止にしているんですか」
「危険だからだ。防水工事の後、床面が傷んでいる。柵も古い。事故が起きたら誰が責任を取る」
「十年前からですか」
「建物の危険は、年数だけでは決まらない」
「神崎さんが失踪した夜も、屋上は立入禁止でしたか」
田所は答えなかった。
代わりに、鍵束を机の端へ移した。金属が木に触れ、低い音がした。
「その話は、警察にしてください」
「西岡さんは、当時の失踪届を扱ったそうです」
田所の瞼が、ほんの少し動いた。
「だから何だ」
「彼は、書類と現場が合わないと言っていました」
「刑事の勘だろう」
「田所さんも、書類と現場が合わないと感じているんじゃないですか」
「私は管理人だ。勘で書類を扱わない」
「では、何で扱うんですか」
「責任でだ」
田所の声は低かった。
「住民が安心して眠れるように、余計な騒ぎを起こさない。誰かの事情を別の誰かの口へ渡さない。管理人が守るのは、真実そのものじゃない。住民が暮らせる状態だ」
「そのために、名前を削るんですか」
「名前を残せば、暮らせるとは限らない」
「消せば、暮らせるんですか」
「少なくとも、消した直後はな」
その言葉は、まっすぐ私の胸へ入ってきた。
怒りより先に、冷たい驚きがあった。田所は自分が何をしたのか、忘れていない。忘れたふりをしているだけでもない。削られた欄の白さを、十年分の時間ごと抱えている。
私は帳面から手を離した。
田所はすぐにページを閉じなかった。空白の上へ視線を落としたまま、親指で紙の端を押さえている。
「神崎さんは、ここに住んでいたんですね」
「そういうことは言っていない」
「けれど、欄を削った」
「言葉にするな」
「相沢美咲さんも、ここに住んでいた」
田所の手が、名簿の別のページへ移った。
相沢美咲の名前は、十年前の欄から少し離れた場所に残っていた。入居日と退去日の間隔は短い。退去日の数字だけが、他の記録より濃かった。何度も上から書き直したように、紙の表面がわずかにへこんでいる。
私はその数字を見た。
「相沢さんの退去日も、直されています」
「訂正しただけだ」
「何度も?」
「日付を間違えた」
「入居者の名前を削り、退去日を直し、屋上の鍵はないと言う。全部、別々のことですか」
田所は帳面を閉じた。
「高見沢さん。記録は、人間の代わりにはならない」
「だからこそ、記録を壊してはいけない」
「記録は人間を守ることもある」
「誰を」
田所は、すぐには答えなかった。
窓の外で、海鳥の声がした。白い影が管理人室のガラスを横切り、夕方の光が一度だけ薄暗くなる。田所の顔に、長い年月の疲れが浮かんだように見えた。
「それを知る必要はない」
彼は立ち上がり、名簿を引き出しへ戻した。
私は机の上に残った紙片へ目を向けた。名簿を閉じたあと、罫線の一部が紙の端にかすかに残っている。削られた欄の内側には、鉛筆の跡があった。名前ではない。部屋番号の末尾らしい数字が、白い部分の下から透けて見えている。
私はそれを記憶に留めた。
「最後に一つだけ」
「もう十分だ」
「屋上の鍵は、本当にないんですか」
田所は引き出しを閉めた。
「ない」
鍵束が、今度は鳴った。
金属が一つ、別の金属へ触れた。短い音だったが、音の奥に重さがあった。私は田所の右手を見た。彼はいつの間にか、古い鍵を一本、指の間に挟んでいる。錆びた頭部には、白い塗料の跡がついていた。
田所はそれをすぐポケットへしまった。
「屋上は立入禁止だ」
同じ言葉を、今度は少しだけ低く繰り返した。
私は管理人室を出た。
扉が閉まると、廊下の空気が急に広くなった。海風が階段のほうから流れてくる。湿った手すりに触れると、冷たさが掌へ染みた。
私は管理人室の前を離れ、屋上へ続く階段の下まで歩いた。
階段は三階で途切れ、さらに上へ続く鉄扉には古い札が掛かっていた。
立入禁止。
札の下に、錆びた錠前がある。鍵穴の周囲だけ、塗装が新しかった。誰かが最近、何度も鍵を差し込んでいる。
私は屈み、鍵穴の下の床を見た。
砂埃の中に、細い紙片が落ちていた。
拾わずに、目を近づける。紙には鉛筆で短い線が二本引かれていた。相沢美咲が押し入れの前で触れていた紙片と、よく似た線だった。
そのとき、階下から足音がした。
私は立ち上がった。
田所の足音ではない。もっと軽く、途中で一度止まる歩き方だった。三上蓮かもしれない。あるいは、別の住民かもしれない。
足音は二階で止まり、しばらくして遠ざかった。
私は鉄扉へ手を伸ばしかけた。
錠前には触れなかった。
触れれば、私の痕跡が残る。そう思ったからではない。ここで急いで扉を開ければ、私もまた、田所が言ったように、自分の正しさで空白を埋めようとする人間になる気がした。
ポケットから手帳を出す。
名簿の空白。 相沢美咲の退去日の濃い筆跡。 屋上の錠前、鍵穴だけが新しい。 田所の鍵束に、白い塗料のついた古い鍵。
私はそこまで書き、少し考えてから、もう一行を加えた。
「ない」と言う前に、鍵が鳴った。
夕暮れの団地で、どこかの部屋のインターホンが鳴った。
一度だけ。すぐに途切れた。
誰かが扉を開ける気配はなかった。廊下を風が抜け、鉄扉の札を揺らした。立入禁止の文字が、古い金具に擦れてかすかな音を立てる。
私は階段を下りた。
管理人室の前を通ると、扉の下から細い光が漏れていた。中で田所が何かをめくっている。紙の擦れる音が、閉じた扉越しにも聞こえた。
私は足を止めなかった。
部屋へ戻り、玄関の郵便受けを開ける。
中には何もない。
ただ、底に残った砂粒の間に、白い紙の繊維が一つだけ挟まっていた。濡れた封筒から剥がれたものか、別の紙から落ちたものかは分からない。
私はそれを拾い、手帳の最後のページへ挟んだ。
空白は、何もない場所ではなかった。
誰かが削り、誰かが閉じ、誰かが見ないふりをしたあとにだけ残る、薄く硬い手触りだった。
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