第2話 前住人の部屋

翌朝、目を覚ますと、窓の外で金属の手すりが鳴っていた。
風は強くなかった。けれど海に近い建物では、弱い風ほど長く残る。廊下の端から入り込んだ空気が、階段の踊り場で向きを変え、古い窓枠の隙間を細く震わせていた。
私は布団から出る前に、昨夜の便箋を思い出した。
窓枠の右端。押し入れの上段。廊下側から入る海風。
紙に書かれた三つの事実が、部屋の中でまだ乾かずにいるようだった。
顔を洗い、湯を沸かし、薄いコーヒーを淹れた。段ボールの一つを椅子代わりにして、昨夜の封筒をクリアファイルから取り出す。紙は一晩で乾いていたが、波打った跡は戻らなかった。湿り気を吸った部分だけが、海の地図のように淡く色を変えている。
私は封筒の表と裏を交互に見た。
相沢美咲。神崎悠人。
二つの名前が同じ紙の上にある。そのこと自体が、部屋の中に置かれた家具よりも大きな存在感を持っていた。
けれど、先に確かめるべきなのは手紙ではない。部屋だった。
私は台所の棚を開けた。
棚は二段しかなく、上段には私が買ってきた紙コップとインスタントのスープ、下段には洗剤と新しい布巾を置いていた。奥まで手を入れると、壁側に古い布巾が一枚残っているのに気づいた。
薄い灰色の布だった。端が少しほつれている。洗濯されたまま、きれいに四つ折りにされていた。
私はすぐには触らなかった。
布巾の表面には、乾いた洗剤の匂いが残っていた。指先を近づけると、わずかに紅茶のような甘い香りが混じる。誰かが使い終えたものを、捨てることも持ち出すこともせず、ここへ戻した匂いだった。
私は祖母から譲られた小さな裁縫箱を開け、薄い手袋を取り出した。調査のために用意したものではない。古いボタンや糸を整理するときに使う、綿の手袋だった。
布巾を持ち上げる。
裏側に、細い糸で縫い直した跡があった。白い糸の中に、一本だけ青い糸が混じっている。縫い目は不揃いだったが、途中で糸を切らず、端から端まで続けてある。誰かが急いで繕ったのではなく、破れを目立たせたくないと思いながら、時間をかけて直したように見えた。
私は布巾を元の位置へ戻した。
そのとき、棚の奥で何かが乾いた音を立てた。
古い輪ゴムだった。二本が絡まり、奥の板に貼りついている。輪ゴムの一本は茶色く変色し、もう一本はまだ赤みを残していた。私はそれも捨てず、棚の手前へ出してから、元の位置に近い場所へ置き直した。
ものを動かすたび、前の住人の生活が自分の指の下で形を変えてしまう気がした。
次に押し入れを開けた。
上段には、引っ越しの際に詰め込んだ寝具がある。私は布団を一枚ずつ手前へ出し、畳の上に置いた。押し入れの中には、古い木と乾いた埃の匂いがこもっていた。
奥から三枚目の板は、便箋に書かれていた通り、わずかに浮いていた。
指を差し込めば持ち上げられそうだった。
だが私は、板の周囲に残った埃の筋を見た。右端だけが薄く、左側には細い擦れがある。板は長い間固定されていたわけではない。何度か持ち上げられ、そのたびに同じ場所へ戻されている。
私はスマートフォンで写真を撮った。板には触れなかった。
押し入れの脇に、封筒の束が寄せられているのを見つけた。
薄い白封筒が十数枚。どれも宛名はなく、表面に細かな灰色の斑点が浮いていた。紙の厚みは、昨夜の封筒とよく似ている。だが、こちらの束は角が揃っていた。誰かが何度も並べ直した跡があり、最上部の一枚だけ、ほかより少しずれている。
私は手を止めた。
中身を確認するには、前住人の私物に触れなければならない。管理会社から残置物として処分を許可されたものかもしれない。しかし、許可の範囲は聞いていなかった。
そのとき、玄関のインターホンが鳴った。
昨夜と同じ音だった。
短く、途中で途切れる。
私は封筒の束から手を離し、玄関へ向かった。ドアスコープを覗くと、女が一人立っていた。淡い色のコートに、髪を後ろでまとめている。顔を上げず、両手を身体の前で重ねていた。
昨夜、階段の踊り場で見た背中と同じだった。
ドアを開ける。
「突然すみません」
女は頭を下げた。声は低く、柔らかかった。
「相沢美咲です。以前、こちらに住んでいました」
私は一歩下がり、廊下側へ身体をずらした。
「高見沢です。手紙の件で、こちらから連絡しようと思っていました」
美咲は私の顔を見て、それから室内へ視線を移した。靴を脱ぐ場所、壁際の段ボール、台所の棚。その順番で見た。
「手紙、届いたんですね」
「ご存じだったんですか」
「届くかもしれないとは思っていました。届かないかもしれないとも思っていました」
「どちらですか」
美咲は答えず、玄関の木製の扉へ手を伸ばした。表面の傷を指先でなぞり、すぐに手を引っ込める。
「ここは、湿気が多いので。郵便物は、少し置いておくとすぐに傷みます」
「その話をしに来られたわけではないですよね」
「ええ」
彼女は一度だけまばたきをした。
「手紙を返していただけますか。読まれたことを責めるつもりはありません。あの封筒は、開けなければ文字が崩れてしまう状態でしたから。高見沢さんが開けたのは、たぶん間違いではなかったと思います」
「そう言っていただけると助かります。ただ、相沢さん宛の手紙を、こちらで保管しておくのも違う気がします」
「保管してくださっていたんですね」
「紙が貼りつかないようにしています」
私はクリアファイルを取り出し、封筒と便箋を分けた状態で見せた。
美咲の視線が便箋の端に止まった。触れようとはしなかった。けれど、呼吸がわずかに浅くなった。
「文面は、覚えていらっしゃいますか」
「短いものだったので」
「そうですか」
「窓枠の傷や押し入れの板のことが書いてありました。あの部屋にいた人でなければ、知り得ないようなことが」
「部屋は、人が出ていってもすぐには空になりません」
美咲はそう言って、室内へ一歩入った。
靴を脱いだあと、左右のつま先を揃えた。私はその靴を直したくなる癖を、手のひらを握って抑えた。
「家具を置いた場所には、家具の跡が残ります。壁紙を張り替えても、日焼けの差が残る。台所の棚には、よく使うものほど指の脂がついている。そういうものを、知っている人は知っています」
「相沢さんは、急いで退去されたんですか」
美咲は台所へ向かい、棚の前で立ち止まった。
布巾を見た。
ほんの少し、肩が下がった。
「何をもって急いだとお考えですか」
「棚の中に、使い終えた布巾が一枚だけ残っていました。押し入れには封筒の束があります。壁には、塗り直したような修繕跡がある。荷物を全部持ち出した人の部屋には見えません」
「全部持ち出せる人は、あまりいないと思います」
「相沢さんは、持ち出すものを選んだ」
「誰でも引っ越しのときは選びます」
「では、何を置いていったのかは覚えていない?」
美咲は棚を開けた。布巾を指でつまみ上げる。手つきは軽く、布が空気に触れる音さえ立てない。
「覚えていることと、覚えていないことは、同じように生活の中へ残ります」
「分かりにくい言い方ですね」
「分かりやすく言うと、置いていったものを全部覚えているわけではありません。けれど、ここにあるものを見れば、私が何を忘れたのかは少し分かるかもしれません」
彼女は布巾を畳み直した。四つ折りにする前に、縫い目のある面を内側へ隠した。
「この布巾は、相沢さんが繕ったものですか」
「たぶん」
「たぶん、というのは?」
「似たものを持っていました。けれど、これは私が縫ったものではないかもしれません」
「誰かが縫った?」
美咲は返事の代わりに、布巾を棚へ戻した。
「高見沢さんは、物をよく見ますね」
「仕事でも、書類の端を確認することが多いので」
「見つけたものを、すぐ意味のあるものにしないほうがいいと思います。縫い目は縫い目のまま置いておくこともできます。誰が、いつ、何のために縫ったかを決めてしまうと、そのものが別のものになります」
「それは、手紙にも言えることですか」
彼女の指が、棚の縁で止まった。
「手紙は、書いた人がいなくなっても、読む人の中で形を変えます。だから怖いんです」
「神崎悠人さんは、相沢さんに何を書いたんですか」
名前を口にした瞬間、美咲は窓の外を見た。
廊下を、買い物袋を提げた住民が通り過ぎていく。誰もこちらを見なかった。けれど、美咲の視線はその影の動きを追っていた。

「その名前を、ここで呼ばないでください」
「失礼しました」
「いえ。あなたが悪いわけではありません。名前は、呼んだ人より、聞いた人のほうに残るものですから」
「では、手紙の差出人欄にその名がある理由を教えてください」
美咲はしばらく黙っていた。
窓の隙間から風が入り、台所に置いた紙コップを一つだけ倒した。乾いた音がして、床を転がる。私は反射的に拾い上げた。美咲も同時に屈みかけたが、私の手が先に届いた。
「すみません」
「いえ。私が端を揃えていなかったので」
「そういうところは、相変わらずですね」
言ってから、美咲は自分でその言葉に気づいたようだった。
「相変わらず、というのは」
「……失礼しました。新しい生活に慣れていないだけです」
「誰のことを言われたんですか」
美咲は笑った。笑顔というより、返事の形を整えたような表情だった。
「高見沢さんは、知りたいことを知るために、相手の逃げ道まで塞ぐんですね」
「塞ぐつもりはありません。答えたくないことを無理に聞くつもりもない。ただ、分からないままにしておくことが、誰かを守るとは限らないと思っています」
「守れないこともあります」
「それでも、黙らせることとは違うでしょう」
美咲の目が、初めて私の顔を正面から見た。
その目には怒りがなかった。もっと重く、古い疲れがあった。十年分の時間が、表情の奥で乾かずに残っているようだった。
「高見沢さんは、正しいことを言いますね」
「正しいかどうかは分かりません」
「分からないことを、分からないまま言える人は少ないです。多くの人は、正しいふりをして踏み込みます。相手のためだとか、真実のためだとか言いながら、実際には自分が納得したいだけなのに」
「私もそうかもしれません」
「そう思っているなら、まだ大丈夫です」
彼女はそこで言葉を切り、押し入れのほうへ目を向けた。
封筒の束が、布団の脇に寄せられている。
「それは開けないでください」
声は小さかったが、これまでで初めて、はっきりとした制止だった。
「中身を見ないことは約束できます。ただ、処分したほうがいいものなら、管理会社に確認します」
「捨てないでください」
「では、相沢さんにお渡しします」
「それも、今は困ります」
「どうすればいいんですか」
美咲は答えなかった。
代わりに、押し入れの前へ歩き、封筒の束の上に置かれていた一枚を拾った。白い封筒ではなく、薄い紙片だった。端が海風で波打ち、中央に鉛筆で短い線が引かれている。
彼女は紙片を裏返し、指先で折り目をなぞった。
「これは、もう意味がないものです」
「意味がないなら、なぜ残したんですか」
「意味がなくなったことを、確認できなかったからです」
「確認するには、見る必要があります」
「見たら、意味が戻ることもあります」
彼女は紙片を元の場所へ置いた。
「前の方は、急いで出られたんですか」
私は、昨夜から考えていた問いをもう一度口にした。
美咲はすぐには答えなかった。カップの縁を指でなぞるように、押し入れの板の端をなぞった。爪の先が木に触れ、乾いた小さな音を立てる。
「急いだのではなく、残る時間がなくなったんです」
「誰のためにですか」
「……それを聞くと、あなたも残る時間がなくなります」
美咲は立ち上がった。窓の外では、廊下を通る住民の影が一つ、二つと伸びていた。夕方の光が建物の角に沈み、海風が古い木製の扉を冷たく撫でている。
「手紙は、返していただけますか」
「はい」
私は封筒と便箋をファイルから取り出した。
美咲は両手で受け取った。封筒の角を揃え、便箋を重ね、紙が擦れないように一度だけ息を吹きかける。その手つきは、手紙を読む人ではなく、壊れやすいものを片づける人のものだった。
「相沢さん」
玄関へ向かう彼女を呼び止めた。
「はい」
「神崎さんは、生きているんですか」
彼女はドアノブに手を置いたまま、長く黙った。
開ければ海風が入る。閉じていれば、部屋の中の匂いが残る。彼女はそのどちらも選ばず、古い扉の木目を見ていた。
「生きているかどうかを、私は知りません」
「それは、亡くなったとも思っていないということですか」
「違います」
「では?」
「知っていることと、知らないことの間には、名前のつかない時間があります。そこへ誰かが勝手に名前をつけると、残された人はその名前に縛られます」
「手紙は、その時間に名前をつけるためのものではないんですか」
「手紙は、名前を呼び戻すものです」
美咲は私を見た。
「呼び戻された名前が、誰のものかは分かりません。書いた人のものか、読んだ人のものか、それとも、黙っていた人たちのものか」
ドアが開いた。
冷たい海風が、廊下から部屋へ入り込む。台所の布巾がわずかに揺れ、押し入れの封筒の束が一枚だけ滑った。
美咲はその音を聞き分けたように振り返った。
「押し入れの板は、持ち上げないでください」
「理由を聞いても?」
「理由を知ると、持ち上げない理由がなくなるからです」
彼女はそれだけ言って、廊下へ出た。
階段へ向かう足音は、三段目で一度だけ止まった。私は玄関から動かず、その音の消え方を聞いた。美咲が振り返ったのか、手すりに触れたのかは分からない。
やがて足音は下へ遠ざかっていった。
私は部屋へ戻り、押し入れの前にしゃがんだ。
滑った封筒を拾い上げる。表面には何も書かれていない。だが、裏側の折り目に、薄い青い線が残っていた。昨夜の便箋に使われていたインクと同じ色だった。
封筒を束へ戻す。
そのとき、最上部の一枚がわずかにずれた。私は角を揃えようとして、指を伸ばした。
伸ばした指は、板から数センチ手前で止まった。
触れれば、痕跡は私のものになる。
私は手帳を開いた。
日付の下に、昨日の記録とは別の行を加える。
布巾、裏に青い糸。 封筒の束、開封せず。 壁の修繕跡、窓側から押し入れへ向かう高さに集中。 相沢美咲、質問に答えず。 ただし「残る時間がなくなった」と言った。
最後に、少し迷ってから書き足した。
片づけが早い。 視線が窓へ逃げる。
私はペンを置いた。
記録は事実だけでできていると思っていた。けれど、事実を残す順番にも、書き手の意志が混じる。何を書かずにおくか。その空白もまた、誰かの生活を形づくる。
窓の外で、夕方の廊下を住民たちが行き来していた。
誰もこちらを見ない。
それでも、誰かが私の部屋の前で足を緩め、郵便受けの投函口を確かめるように立ち止まった。すぐに足音は離れていった。
私は玄関へ行き、郵便受けを見た。
中には何もなかった。
ただ、底に残った古い砂粒が、昨夜より一つ増えていた。
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