1話 湿った封書

潮見台ハイツへ引っ越してきた日の夕方、私は郵便受けの前で、鍵を回す手を一度止めた。

新しい鍵は、古い金属の匂いがした。表面には細かな傷が幾筋も走り、鍵穴の縁だけが周囲より黒ずんでいる。前の住人も、ここで何度となく同じ動作を繰り返したのだろう。鍵を差し、少し持ち上げてから回す。そんな癖まで、金属の擦れ方に残っているように見えた。

郵便受けは、棟の入口に並んだ集合型のものではなかった。各戸の玄関脇に一つずつ取り付けられた、古い箱型のポストだった。潮見台ハイツの外壁は海に向いた面だけ白く粉を吹き、廊下の手すりには薄い錆が浮いている。夕方の風が吹くたび、どこかで金属がかすかに鳴った。

鍵を回すと、扉は途中で引っかかった。

私は力を入れず、いったん戻してから、もう一度ゆっくり回した。中で何かが倒れたような音がした。郵便物が一枚か二枚、底へ滑ったらしい。

扉を開けると、広告の束の下に、濡れた封筒があった。

指先を差し入れた瞬間、紙が皮膚に吸いついた。封筒は乾いた紙の軽さを失い、海水を含んだ布のように柔らかかった。端が波打ち、宛名の墨もわずかに滲んでいる。

私はすぐには引き抜かなかった。

封筒の角が、ポストの底に残った古い砂粒へ貼りついていた。無理に引けば紙が裂ける。右手の親指で紙の端を押さえ、左手で砂を払う。引っ越し初日に、前の住人宛の郵便物を破損させるのは避けたかった。

ようやく取り出した封筒の表には、こう書かれていた。

相沢美咲様。

住所は私の部屋だった。部屋番号も合っている。差出人の欄には、縦に揃えた文字で名前があった。

神崎悠人。

その名前を見たとき、私は封筒より先に、周囲の音を聞いた。

エレベーターが一階で止まる音。遠くの部屋で蛇口をひねる音。廊下の向こうで、誰かがビニール袋を持ち替えた音。どれも普段の生活音だった。けれど、名前の後ろに置かれた空気だけが、そこから切り離されているように感じられた。

神崎悠人という名を、私は引っ越しの手続きで見たわけではない。町へ来る前に、旧市街の図書館で地域紙の縮刷版を眺めていたときに見かけた。十年前の小さな記事だった。

旧市街の印刷所に勤務していた二十代の男性が、勤務先を出たあと行方不明になった。

記事は短かった。写真はなく、捜索が続いているという一文と、家族からの呼びかけが載っていた。事件として大きく扱われた形跡もない。私はその名前を覚えていたわけではない。ただ、見慣れない土地の記録を読むとき、固有名詞だけは妙に残ることがある。

その名が、今、私の部屋の前にあった。

封筒を裏返す。差出人の住所はない。消印は海風通りの郵便局のものだったが、日付の下半分が擦れて読みにくい。切手は十年前のものではない。最近のものだ。封筒だけが古く、紙の色は日に焼けた灰色をしている。糊の部分には細いひびが入り、誰かが一度開けかけて、やめたようにも見えた。

私は封筒を玄関の明かりの下へ持っていった。まだ荷ほどきしていない部屋には照明がなく、窓から入る夕方の光だけが畳の上に細長く落ちていた。壁際には段ボールが積まれ、台所には買ったばかりの紙コップと、祖母から譲られた小さな封筒用の糊を置いた袋がある。

封筒を光に透かす。

中には便箋が一枚。折り方は三つ折りではなく、二つ折りだった。折り目の位置が中央から少しずれている。差出人は、紙をきっちり半分にすることより、書いた文字を傷つけないことを優先したらしい。

私は靴を脱ぎ、封筒を玄関脇の小さな棚へ置いた。置いたあと、封筒の角が棚の縁と揃っていないことに気づき、指先で二度、位置を直した。

封を切る前に、前の住人へ連絡するべきかもしれない。

不動産会社から渡された書類には、前住人の氏名が記載されていた。相沢美咲。退去後の連絡先は空欄だった。管理会社には転居先を知らせてあるはずだが、個人情報を理由に教えてもらえない可能性が高い。そもそも、相手の私信を自分が開いてよいのかという問題もある。

私は封筒を見下ろした。

切手は、すでに水気を吸っていた。今ここで放置すれば、文字も糊もさらに崩れる。

封を切ることが正しいのかは分からなかった。ただ、封筒がこのまま傷んでいくのを見過ごすこともできなかった。

私は万年筆の先を使わず、祖母の糊に添えられていた薄いペーパーナイフを取り出した。刃を封の端へ差し込む。紙が裂ける音はしなかった。湿った封筒は、切られるというより、息を吐くように開いた。

便箋を取り出す。

文字は細く、黒ではなく、少し青みを含んでいた。印刷ではない。筆圧の弱い手書きだった。

そこには、短くこうあった。

――窓枠の右端に、爪を立てたような傷がある。  ――押し入れの上段は、奥から三枚目の板だけが少し浮く。  ――夕方、海風は台所ではなく、廊下側から入る。  ――美咲さん。あの夜のことを、まだ部屋に置いたままですか。

署名はなかった。

私は便箋を読んだあと、すぐに部屋の中を見回した。

窓枠の右端には、確かに細い傷があった。爪で引いたような、白く乾いた線だった。押し入れを開けると、上段の板は埃をかぶっている。奥から三枚目だけ、わずかに色が違っていた。指を伸ばしかけて、私は止めた。

そこは私の部屋だ。だが、私のものではない。

便箋の言葉を確かめるために、前の住人の痕跡へ勝手に触れることが許されるのか。私は押し入れの前にしゃがんだまま、しばらく手を膝へ戻せなかった。

海風が廊下側から入った。

玄関の隙間を抜け、紙の束をわずかに揺らす。台所の窓は海に面しているのに、風はそちらから来なかった。古い団地の建物は、風をまっすぐ通さない。棟と棟の間で折れた風が、廊下を伝って部屋へ入り込む。

手紙の書き手は、この部屋にいたことがある。

それだけは、書かれていることから判断できた。

私は便箋を机代わりの段ボール箱の上へ置き、封筒の裏面をもう一度確認した。紙質は、現在使われている一般的な封筒とは違う。表面に細かな繊維が浮いている。旧市街の印刷所で使われていた紙なのかもしれない。神崎悠人が印刷所で働いていたという記事の記憶が、後から無理に結びつこうとしているだけかもしれなかった。

人は、知っている名前を見つけると、関係のないものまで同じ線上へ並べたがる。

私は手帳を開き、日付を書いた。

その下に、見たものだけを記す。

濡れた封筒。宛名、相沢美咲。差出人、神崎悠人。消印、海風通り。便箋一枚。窓枠、押し入れ、風向き。最後に「あの夜」という言葉。

「あの夜」と書いたところで、ペン先が止まった。

その言葉だけは、私の見たものではない。手紙に書かれていたものだ。けれど、書かれているという事実と、意味が分かることは別だった。

玄関の外で、インターホンが鳴った。

私は立ち上がった。

荷物の搬入はすでに終わっている。不動産会社の担当者も、鍵を渡して帰った。夕方六時を過ぎて、訪ねてくる相手に心当たりはなかった。

もう一度、鳴る。

古いインターホンの音は、途中で途切れた。音が鳴り終わったあとも、壁の内部に小さな振動だけが残っている。

私は玄関へ向かった。廊下の床板は、歩く場所によって音が違う。入口付近は低く、部屋の前だけ乾いた音が返った。ドアスコープを覗く。

誰もいない。

海風が廊下を抜け、向かいの棟の手すりに干されたタオルを揺らしていた。階段の踊り場には、買い物袋を提げた女性の背中が見える。彼女はこちらを振り返らず、三階へ上がっていった。

私はドアを開けなかった。

床に置いた便箋が、風で少しだけ動いた。

しばらくして、隣室から食器を置く音がした。硬い陶器が木の台へ触れる、控えめな音だった。誰かが夕食の支度をしている。テレビの音は聞こえない。水の流れる音と、引き出しを閉める音だけが、壁を薄く震わせていた。

団地は静かだった。

引っ越してくる前、私はこの静けさを気に入っていた。駅から遠く、建物は古いが、夜になると車の音が少ない。海の近くにしては潮の匂いも強すぎず、生活の音が互いの部屋を侵さない距離に収まっている。

だが、今は違った。

静けさは音がないことではなく、音を立てないようにしているものの集まりに聞こえた。誰かが扉を閉める。誰かが名前を呼ばない。誰かが言葉の途中で息を止める。そのすべてが、壁と床と古い配管の中に沈んでいる。

私は封筒をクリアファイルへ入れた。濡れた紙が貼りつかないよう、便箋とは別にする。封筒の角が折れないよう、薄い紙を一枚挟んだ。

相沢美咲に返すためだった。

返せるかどうかは、まだ分からない。それでも、前の住人の生活を自分の好奇心で散らかしたくはなかった。

押し入れの上段へは、触れなかった。

部屋の電気をつけると、白い光が畳と段ボールを平らに照らした。窓枠の傷は、さっきよりはっきり見えた。押し入れの板の浮きも、視界の端に残っている。

机の上で、便箋の最後の一文だけが何度も目に戻ってくる。

あの夜のことを、まだ部屋に置いたままですか。

紙は乾き始めていた。けれど、湿った匂いは指先から消えなかった。私は蛇口をひねり、石鹸で手を洗った。泡の白さが薄い傷の間へ入り込む。何度すすいでも、紙と海の混じった匂いが残った。

隣室で、また食器の触れ合う音がした。

私は蛇口を閉め、濡れた手を布巾で拭いた。

その夜、私は段ボールを一つも開けなかった。 giendoftext.

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