6話 第六話「三分の剣」

魔獣が跳び込んできた。

結界の裂け目を抜けた獣は、黒い毛皮を血で濡らし、一直線に俺へ牙を突き出してくる。足が重い。腹の痛みで呼吸が浅くなる。それでも、剣を上げた。

正面から受ければ、押し負ける。

グラウスに叩き込まれた衝撃が、まだ腕の奥に残っている。力を比べるな。足を置け。ガルドの声が、遅れて頭の中に響いた。

俺は半歩だけ横へずれた。

魔獣の爪が胸当てをかすめる。鉄が裂け、冷たい空気が肌を撫でた。すれ違いざま、剣を斜めに引く。刃へ流した魔力は弱い。それでも、毛皮の下へ食い込むには足りた。

魔獣が石畳へ倒れる。

止まるな。

次が来ていた。

「右、二体!」

フィアの声が飛ぶ。

彼女は崩れた石壁の上に立ち、短剣を投げた。一本が魔獣の眼へ突き刺さり、もう一体の足元へ小石が弾ける。獣がわずかに向きを変えた。その一瞬に、俺は懐へ入り込んだ。

「ユウ、三歩下がって!」

リシェが叫ぶ。

理由を訊く前に、俺は後ろへ跳んだ。地面に白い線が走り、魔獣の足元で小さな爆発が起こる。熱風が頬を叩き、焦げた毛の匂いが鼻を刺した。

喉が狭くなった。

火の色が、あの夜の景色と重なる。

「見るな!」

ガルドの怒声が響いた。

「敵を見ろ。過去を見るなとは言わん。だが、今いる場所を忘れるな!」

魔獣が煙の中から立ち上がる。片脚を引きずり、なおこちらへ向かってくる。

俺は剣を握り直した。

今いる場所。

石畳。城門。隣にいるフィア。背後で術式を組み替えるリシェ。城壁の上から兵を動かすガルド。

手のひらに残った熱が、現実の形を取り戻していく。

「リシェ、中央の線を借りる!」

「勝手に借りないでください。流す量を合わせて!」

「分からない!」

「なら、私の合図だけを見て!」

彼女が指を振る。空中に三本の白線が浮かんだ。

「今!」

剣へ魔力を流す。

いつもなら、自分の内側から外へ押し出す。だが今回は、リシェの術式へ一度預けた。魔力が白い線を伝い、剣身へ戻ってくる。青白い光が細く伸び、刃の縁だけを照らした。

魔獣の爪を受け流す。

硬い骨の感触が剣越しに伝わった。腕が痺れる。けれど、刃は折れなかった。

踏み込む。

魔力が走る。

喉元へ刃を差し込み、身体をひねって引き抜いた。魔獣が倒れ、爪先が石を引っ掻く。

「今の、悪くないじゃん」

フィアが屋根から飛び降りた。

「褒めてるのか」

「半分ね。残り半分は、あたしが先に隙を作ったことへの感謝を要求してる」

「ありがとう」

「素直すぎ。気持ち悪い」

軽口を叩きながら、彼女の耳は城外へ向いていた。

咆哮が薄くなっている。

魔王軍の兵士たちが、崩れた結界の前で足を止めていた。左翼へ進めという命令に従ったはずの群れが、こちらを抜けきれずに滞留している。

「三分、過ぎましたか」

リシェが訊いた。

城壁の杭が、ひとつ、またひとつと明滅する。薄青い膜が縮み、裂け目の端から黒い火花が散った。

「まだ二分半だ!」

ガルドが答える。

「なら、あと半分だ。押し返せ!」

兵士たちが動いた。

槍が一斉に突き出され、魔獣の群れが押し戻される。俺もその列に加わった。剣を振るたび、腹の傷が熱を持つ。呼吸が乱れれば、魔力の光も揺れた。

以前なら、力を強めて押し切ろうとしていた。

今は違う。

フィアが敵の流れを割り、リシェが術式の隙間を埋め、ガルドが崩れかけた兵の前へ立つ。その動きを見て、俺は自分の一歩を決める。

全部を一人で抱える必要はない。

捨てないために、預ける。

その考えが、初めて身体の中で形になった。

「ユウ、左!」

フィアの声に反応し、剣を返す。

魔獣の牙が刃へ噛みついた。腕が引かれる。力が足りない。だが、背中から別の槍が伸び、獣の首を貫いた。

「助かった」

俺が言うと、若い兵士は目を丸くした。

「い、いえ……こちらこそ」

その兵士の声が震えていた。

俺も同じだ。剣を握る手は汗で滑り、傷は痛み、喉は乾いている。

それでも、隣に立てている。

結界杭が低く鳴った。

「時間です!」

リシェが叫んだ。

白い術式が一気に収束し、裂け目の周囲へ薄い壁が戻る。完全ではない。ところどころ黒い亀裂が残っている。それでも、魔獣の群れを押し返すには十分だった。

城外から、角笛が鳴った。

魔王軍が退いていく。

最後尾に、黒い鎧の背中が見えた。

グラウスは振り返らなかった。

俺は追おうとして、足を止めた。膝が折れかける。フィアが肘を掴んだ。

「追わないよ」

「分かってる」

「本当に?」

「……今は」

グラウスの姿が、白み始めた霧の向こうへ消える。

勝ったわけではない。俺はあの男に傷一つつけられなかった。ただ、三分を使い切り、ここを通さなかっただけだ。

それでも、前とは違った。

以前は、届かない背中を見ているしかなかった。今は、届かないままでも守る場所を選べた。

リシェが結界杭の前にしゃがみ込む。

「おかしいですね」

「何が?」

彼女は答えず、砕けた石の周囲を指でなぞった。地面の下から、細い白い線が伸びている。城壁に刻まれた術式とは違う、古い線だった。

ガルドも近づき、靴先で石を払う。

下から、白い石室の縁が現れた。

「こんなもの、城壁の設計図にはねえぞ」

フィアが耳を立てた。

「地下から音がする」

俺も手を伸ばした。

白い線に触れた瞬間、指先へ冷たい感触が走る。魔力ではない。もっと静かで、深いものだった。

石室の奥で、何かが一度だけ光った。

白い光が、朝の空へ細く伸びる。

リシェの帳面から、羽ペンが落ちた。

「……これは、古代封印式」

ガルドが低く問う。

「何を封じている」

リシェは答えなかった。

白い光の中心に、剣の柄のような影が見えていた。誰かの手を待つように、石の奥で静かに立っている。

俺の指先に、かすかな震えが戻った。

あの光を、俺は知っている気がした。

白い傷跡の向こうで、何かが目を覚まそうとしていた。

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