第5話 白い傷跡

グラウスは、魔獣の群れを押し分けて歩いてきた。
黒い鎧には朝の光がほとんど反射しない。濡れた鉄のような鈍い光が、肩と胸当ての縁にわずかに浮かんでいるだけだった。大剣の切っ先が石畳を擦り、耳障りな音を引きずっている。
その音を聞いた瞬間、喉の奥が乾いた。
前に会ったときも、同じだった。
何かを叫んだわけでもない。剣を振り上げたわけでもない。ただ立っているだけで、こちらの足元から力を抜いていく。自分の身体が、勝てない相手を先に理解してしまう。
「ユウ、下がって!」
フィアの声が飛んだ。
俺の前へ滑り込んだ彼女が短剣を逆手に構える。だが、その肩はわずかに上下していた。耳が伏せられている。彼女も知っているのだ。目の前の男が、いつもの魔獣とは違うことを。
「退路は?」
俺が訊くと、フィアは一瞬だけこちらを見た。
「門の内側は兵で詰まってる。右は魔獣、左は崩れた石壁。逃げるなら、あんたが一人で走るしかないね」
「それは退路じゃない」
「でしょ?」
彼女は笑った。いつもの、少しだけ人を食った笑い方だった。けれど尾の先は石畳に触れそうなほど下がっている。
グラウスが足を止めた。
「また、お前か」
声は低く、驚きも怒りもなかった。まるで、以前折った枝がまだ道端に転がっているのを確認するような響きだった。
「覚えていたのか」
「忘れる理由がない。未熟な力ほど、戦場では目につく」
大剣がゆっくりと持ち上がる。
その動きだけで空気が押し潰された。兵士たちの怒号が遠のき、魔獣の唸りさえ薄くなる。俺は剣を握り直した。指先が震えている。
リシェが城壁の上から叫んだ。
「ユウ、正面から受けないで! あなたの出力では――」
「聞こえてる!」
返事をした瞬間、グラウスが踏み込んだ。
地面が沈んだ。
大剣が横薙ぎに走る。俺は反射的に身を屈め、刃の下をくぐった。頭上を風が裂き、背後の門柱へ大剣が叩き込まれる。石が爆ぜ、白い粉が視界を覆った。
速い。
前回よりも、速く感じる。
いや、違う。俺が見えている。見えているのに、身体が追いつかない。
右足を踏み出し、刃へ魔力を流した。青白い光が剣身を走る。グラウスの脇腹へ斬り込む。
硬い音がした。
大剣の柄が、俺の刃を受け止めていた。
「その光は、前より乱れている」
押し返される。
両腕が痺れ、足の裏が石畳を滑った。
「結界を維持しながら戦っているな。二つを同時に扱えることが、強さだと思ったか」
「……違う」
「なら、なぜ力を割く」
「守るためだ」
言葉が口から出た。
グラウスの目が、ほんのわずかに細くなる。
「守るために、勝てる力を捨てるのか。戦場では、それを贅沢と呼ぶ」
大剣が押し込まれた。刃が軋み、肩の筋が引きつる。剣を落としそうになった。
そのとき、背後から風を切る音がした。
フィアの短剣がグラウスの手首を狙う。だが男は見もせずに腕を引き、刃を鎧の籠手で弾いた。フィアの身体が空中で回転し、石畳へ落ちる。
「フィア!」
俺が視線を逸らした一瞬、グラウスの膝が腹へ突き刺さった。
息が消えた。
身体が折れ、視界が暗くなる。次の瞬間には胸当てを蹴り飛ばされ、俺は門前の石畳を何度も転がっていた。背中を打ち、肺の奥から濁った息が漏れる。
剣が手から離れていた。
数歩先に落ちた鉄剣が、青白い光を失っている。
「ユウ!」
リシェの声が震えた。
立たなければならない。
そう思った。だが腕に力が入らない。喉に鉄の味が上がり、石畳の冷たさが頬へ染みてくる。
グラウスが近づいてくる。
「お前は前よりましになった。だからこそ、同じ誤りがよく見える」
「誤り……?」
「守るものを増やしすぎている」
大剣の切っ先が、俺の剣を指した。
「剣、術式、仲間。すべてを同時に抱えようとしている。どれか一つを捨てられぬ者は、最後には全部を失う」
腹の奥が熱くなった。
銀翼亭で荷を抱え、何もできないまま立っていた自分が脳裏をよぎる。あの頃は、抱えるものすらなかった。誰かの役に立つことも、誰かの背中を守ることもできなかった。
だから、捨てるという言葉が嫌だった。
「……捨てない」
声が掠れる。
「俺は、捨てない」
「ならば、力を示せ」
グラウスが大剣を振り上げた。
空が暗くなる。
身体が勝手に動いた。剣へ手を伸ばす。指先が柄へ触れた瞬間、青白い光が爆ぜた。魔力が腕を駆け上がり、傷ついた身体を無理やり立たせる。
だが、足元が崩れた。
結界杭の一つが、鈍い音を立てて砕けたのだ。
城壁の外側を覆っていた薄青い膜に、黒い亀裂が走る。魔獣の群れが一斉に咆哮した。
「ユウ、結界が!」
リシェの声が裂ける。
グラウスは俺ではなく、崩れた結界へ視線を向けた。ほんの一瞬だった。その一瞬で、彼が何を優先したのかが分かった。
「全軍、左翼へ進め」
低い命令が響く。
魔王軍の兵士たちが一斉に動いた。グラウスは俺を倒しきることより、裂け目から侵入する群れを選んだのだ。
それが、ひどく悔しかった。
俺は敵の前に立つことすらできず、戦場の都合で捨て置かれた。
「待て!」
立ち上がり、剣を振る。
光が伸びた。だが届かない。グラウスの大剣が背を向けたまま振り抜かれ、俺の魔力を正面から叩き潰す。衝撃が腕を痺れさせ、膝が石へ落ちた。
白い火花が、視界の端で散った。
「ユウ!」
フィアが駆け寄り、俺の肩を掴んだ。
「今は追わない! あいつの狙いは左翼、あたしたちは結界を戻す!」
「でも、グラウスが――」
「負けた相手を追いかけて、門の中まで壊されたら誰が喜ぶの!」
フィアの爪が食い込む。
怒っている。いや、怯えているのだ。俺を失うことを、あの軽口の奥で恐れている。
リシェが階段を駆け下りてきた。息を乱しながらも、帳面を開いている。
「左の杭が破損しました。完全修復は不可能です。ですが、流れを隣の杭へ移せば、三分だけ持たせられる」
「三分で何ができる」
「三分あれば、兵を動かせます。三分しかないなら、その三分を使うしかありません」
彼女の指先が震えていた。けれど筆は止まらない。
俺は立ち上がろうとした。膝が笑う。腹に力を入れるたび、内側が裂けるように痛んだ。
それでも、剣を拾った。
遠くで、グラウスの背中が魔獣の群れに呑まれていく。黒い鎧はすぐに見えなくなった。
勝てなかった。
何も届かなかった。
なのに、剣を握る手だけは、前より強く柄を締めていた。
リシェが俺の横に立つ。
「記録します」
「何を」
「敗因を。あなたが、何を捨てなかったせいで崩れたのか」
彼女は一度、俺の顔を見た。
「次は、捨てずに通す方法を探します」
その言葉に、胸の奥で消えかけた光がわずかに明るんだ。
結界の裂け目から、最初の魔獣が跳び込んでくる。
俺は剣を構えた。
グラウスには届かなかった。けれど、ここを通すわけにはいかない。
白み始めた空の下で、俺はもう一度、足を置いた。
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