4話 黒い境界

城壁の上へ出た瞬間、風の温度が変わった。

冷たい朝風の中に、獣の息と鉄の臭いが混じっている。城外の草原は黒く波打っていた。魔獣の群れが地面を埋め、低い唸り声を重ねながらこちらへ押し寄せてくる。数えようとしたが、数える意味がなかった。視界の端から端まで、牙と爪と濁った眼が続いている。

弓兵が一斉に弦を引いた。

「まだだ!」

誰かが叫ぶ。

魔獣の先頭が、城壁から百歩ほどの距離まで近づいた。四つ足のもの、角を持つもの、背中から骨の棘を生やしたもの。その後ろに、鎧を着た影が見える。

魔王軍の兵士。

喉が鳴った。

グラウスではない。だが、あの男の軍勢だと思うだけで、手のひらに汗が滲む。

「撃て!」

矢が空を覆った。

黒い雨が群れへ降り注ぎ、先頭の魔獣が何体も倒れる。だが、後ろから来るものが死骸を踏み越えて進んでくる。矢が肉へ食い込む音、兵士の怒号、魔獣の咆哮が一つになり、城壁そのものが鳴っているようだった。

リシェが片手を上げた。

「ユウ、左手側の結界杭を見てください!」

指された先で、城壁に埋め込まれた青い石が明滅している。光が一度消え、遅れて別の杭が光る。術式の流れが途中で途切れていた。

「壊れてるのか」

「破壊ではありません。魔力の流入が偏っています。このままだと、魔獣が密集した地点から結界が薄くなる」

「薄くなったら?」

「通ります」

リシェはそれだけ言うと、魔導符を三枚、石壁へ貼りつけた。指先が空中を走り、白い線が浮かぶ。だが線は途中で震え、ほどけかけた。

「足りない……」

彼女の声が初めて乱れた。

城壁の下から、鈍い衝撃が響く。

魔獣が門へ体当たりしたのだ。石が震え、足元の砂が跳ねた。二度目の衝撃で、兵士の一人が膝をつく。

「リシェ!」

「声を荒げないでください。計算が散ります」

「でも、門が――」

「門よりこちらです!」

リシェが俺を睨んだ。

「結界杭へ魔力を流してください。剣に通すときと同じ要領で。ただし、刃ではなく術式の線へ。私の合図に合わせて、呼吸を三つ」

「俺に、そんなことができるのか」

「できるかどうかを考える時間はありません」

その言葉が、ガルドの声と重なった。

俺は結界杭の前へ走った。石壁に手を触れる。冷たい。表面には細い亀裂が走り、内部から押し返すような振動が伝わってくる。

剣へ魔力を流したときとは違った。あのときは、身体の奥から外へ押し出す感覚だった。今は逆に、広がった線の中へ自分を沈めていくような感触がある。どこまで流せばいいのか分からない。

「急がないで」

リシェの声が背後から届く。

「あなたは力を出そうとしすぎる。術式は押し切るものではなく、流れを妨げないものです。私の線を探して。白く光っている場所ではなく、光が消えかけている場所を」

目を細めた。

青い光の網の中に、薄暗い箇所がある。線と線の間に、黒い溝のようなものが伸びていた。

あれだ。

指先から魔力を流す。最初は細く、呼吸に合わせて少しずつ。

一つ。

魔力が石へ吸い込まれる。

二つ。

暗い溝の縁が青く明るむ。

三つ――。

その瞬間、城壁の下で爆発音がした。

身体が跳ね、魔力が一気に膨らんだ。視界が白く弾ける。流れ込んだ力が術式の中で暴れ、結界杭から火花が散った。

「ユウ、止めて!」

止めようとした。だが、指が石から離れない。

焼けた匂いがした。

喉の奥が塞がる。赤い壁。崩れる梁。泣き声。小さな手の感触。あの夜の景色が、目の前の白い光へ重なった。

足が動かない。

まただ。

また俺は、何もできないまま――。

「ユウ!」

フィアの声が、すぐ横で弾けた。

彼女が俺の腕を掴み、爪を立てる。

「見て! あたしを見な!」

獣耳が伏せ、金色の瞳が俺を射抜いていた。

「火じゃない。これは石。焦げてるのはあんたの手袋で、あたしはここにいる。聞こえる? あんたを置いていかない」

息が戻った。

指先の熱さ。掌に食い込む石の角。耳元で鳴るフィアの荒い呼吸。その一つひとつが、今ここにあるものだった。

「でも、制御が……」

「制御できないなら、分ければいい!」

リシェが叫ぶ。

「一人で抱えないでください。私が流れを切ります。あなたは中央の線だけを維持して!」

魔導符が弾け、白い線が術式の中へ走った。暴れていた魔力が二つに分かれ、片方が壁の奥へ吸い込まれていく。

残った流れを、俺は両手で押さえた。

剣を握るときと同じだ。

力で止めるのではなく、足元から通す。呼吸を合わせ、逃げ道を作り、次の一歩を置く。

結界杭が、低く鳴った。

城壁の外側に薄青い膜が広がり、魔獣の群れを押し返す。先頭の獣が見えない壁へ叩きつけられ、後ろの兵士たちが足を止めた。

「今だ!」

ガルドの声が響いた。

弓兵の矢が再び放たれた。フィアは城壁の階段を駆け下り、門前へ向かう。俺も続こうとしたが、足が一歩遅れた。

「ユウ!」

ガルドが振り返る。

「今の術式を維持しながら戦えるか」

「分かりません」

「なら、分からねえまま来い。分かるまで死ぬな」

粗い言葉だった。

けれど、俺の足はもう止まらなかった。

結界の青い光を背に、俺は階段を駆け下りる。門前では、押し返された魔獣の一体が立ち上がっていた。額に矢が刺さり、血を垂らしながらこちらを向く。

剣を抜く。

魔力を流す。強くではなく、細く。刃の先に青白い光が灯った。

魔獣が跳ぶ。

俺は足を置いた。

恐怖は消えていない。焼けた匂いも、悲鳴も、まだ胸の奥にある。それでも、視線を逸らさずに剣を振った。

刃が魔獣の爪を弾き、そのまま喉元へ滑り込む。

重い身体が石畳へ落ちた。

息を整える暇もなく、門の向こうから地面を踏み砕くような音が響いた。

一歩。

また一歩。

魔獣の群れが左右へ割れていく。

その中央から、黒い鎧の男が姿を現した。手には、見覚えのある巨大な大剣がある。

俺の指が、剣の柄を強く握り直した。

グラウスが、こちらを見ていた。

← 横にスクロールして読み進められます