3話 薄青の城壁

夜明け前の王都アストレアは、まだ眠りきらない青の底に沈んでいた。

城壁の上では弓弦がきしみ、石畳には避難民の足音が雨のように重なり、遠くでは魔法が裂けるたびに空が淡く白んだ。俺はその騒音のなかで、妙に静かな自分に気づいていた。耳に入るのは喧噪ではなく、焼けた木の匂いだった。

あの夜、辺境の村で鼻を刺した焦げの臭いが、城壁の湿った石の匂いを押しのけて立ち上がる。石畳を踏み鳴らす兵たちの列、女が子を抱えて走る背中、遠くで誰かが名前を呼ぶ声――どれもがあの晩と同じ形をしていて、俺の呼吸を浅くさせた。

荷を下ろす兵の列の脇で、俺は無意識に剣の柄をなぞっていた。

銀翼亭で笑われていた頃と同じ癖だ。緊張すると指先が勝手に動く。あの頃は木札の角をなぞっていた。今は柄の革の擦れ具合をなぞっている。変わったのはそれだけだ、と自分に言い聞かせようとしたが、続かなかった。

だが今は、笑う者はいない。

ガルドは避難路を見下ろしながら、無駄のない動きで兵を一人ずつ押し分け、崩れかけた隊列の隙を埋めていく。リシェは石壁の陰で帳面を開き、短く呼吸を整えるたびに魔導符を一枚ずつ指先へ滑らせていた。フィアは城壁の縁に身を伏せ、獣耳を揺らしながら風向きと魔獣の匂いを拾っている。

三人とも忙しいのに、誰ひとり俺を置いていかなかった。

そのことが、逆に俺を落ち着かなくさせる。守られる側にいる感覚が、どうしても消えない。荷運びだった頃の癖なのか、それとももっと深いところに根を張った何かなのか、自分でもよく分からなかった。

「そんな辛気くさい顔しないでよ」

通りすがりざま、フィアが俺の肩を軽く叩いた。振り向くより先に、彼女は唇の端だけで笑う。

「城壁の上ってのは、笑ってちゃいけない場所だと思ってた」

「逆逆。笑えなくなったら、もう終わりの合図。あたしはね、仲間を送り出すときは必ず一回笑うって決めてる。しかめっ面で見送った相手は、大抵帰ってこないから」

「験担ぎか」

「験担ぎで済むなら安いもんでしょ」

フィアの声はいつも通り軽かった。だが、その軽さの下に、俺には測れない重みがあることを、もう知っていた。彼女が失った仲間の話を、これまで一度も詳しく聞いたことはない。聞かなくても、風向きを読む横顔の端に、それが滲んでいる時があった。

「フィア、風は」

「北から。魔獣の群れの匂いが強くなってる。血と、獣脂と、あと――焦げた匂い。誰かがもう火をつけられたんだと思う」

その言葉に、胸の奥で何かが軋んだ。焦げた匂い。あの夜と同じ言葉。だが今度は、足が止まる代わりに、拳の中の柄が熱を持った気がした。

「怖い?」

フィアが横目でこちらを見た。

「怖いよ。ずっと怖い」

「なら安心。怖くない奴のほうが、あたしは信用できない」

短く言い残し、彼女は城壁の縁へ戻っていった。尾の先が緊張でわずかに逆立っているのを、俺は見逃さなかった。

石壁の陰では、リシェが最後の魔導符を確かめていた。

「制御式は組み終えました。あなたの星脈に合わせて、剣に流す魔力の上限を再計算してあります。前回の遺跡での暴走を踏まえて、上限を三割落としました」

「弱くなるってことか」

「精度が上がる、と言い換えてください。力を出し切れずに崩れるより、七割の力を確実に通す方が、戦場では役に立ちます。ガルドの言葉を借りるなら――足を置ける剣のほうが、届く剣より先に必要でしょう」

リシェは帳面から顔を上げず、淡々と続けた。

「星脈理論において、あなたの反応速度は測定開始時から二割向上しています。これは訓練の成果であり、偶然の産物ではありません。私は、あなたを例外として観測することをやめました。あなたは今、私が組んだ式の中で、もっとも安定した戦力です」

「褒めてるのか、それ」

「事実を述べているだけです」

言葉の硬さの裏に、以前にはなかった何かが混じっているのを感じた。研究対象を見る目ではない、別の何かだ。名前をつけるには、まだ早すぎる気がした。

ガルドが最後に、崩れかけた隊列の隙を埋め終えて戻ってきた。剣帯を一度だけ締め直す、あの癖。怒る前の合図ではなく、これから始まることへの、彼なりの覚悟の示し方だと、今なら分かる。

リシェが投げて寄越した補助術式の紙片が、風に揺れながら俺の足元に落ちた。拾い上げ、剣の柄に結びつける。革紐を結ぶ手つきは、あの日、銀翼亭で荷を縛っていた頃と変わらない。変わったのは、結ぶ理由だけだった。

ガルドの低い声が、最後に一拍置いて届く。

「止まるな」

それだけだった。

だが、その一言でようやく視線を上げた。城壁の向こうに押し寄せる黒い群れが、もう目に見える距離まで来ている。

怖い。今でも怖い。焼けた匂いを嗅ぐたびに、あの夜の悲鳴が耳の奥で鳴る。子どもの手の小ささを、いまだに手のひらが覚えている。

だが、その怖さはもう、自分を地面に縫い留める鎖ではなかった。

俺は息を吸い、白く濁る吐息を剣先の震えと一緒に飲み込むと、城壁の上へ駆け出した。

背後で、フィアの軽い足音と、リシェの帳面が閉じる音と、ガルドの重い一歩が続く。

誰も、俺を置いていかない。

だから俺も、もう誰の後ろにも隠れない。

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薄青の城壁 - 白と黒の境界 - 誰でも作家life