2話 木剣の朝

ガルドの道場は、朝がいちばん静かだった。

まだ日が低く、町の屋根にも薄い霜が残っている。土間へ差し込んだ細い光の中を、砥石で削られた木剣の粉が白く浮かんでいた。鼻の奥に乾いた木の匂いが入り、喉の奥が少しだけざらつく。

俺は道場の中央に立ち、訓練用の木剣を両手で握っていた。

握り方ひとつで、腕の震えが変わる。

親指の位置をわずかにずらす。手のひらを締めすぎない。肩を落とし、膝を曲げ、足の裏で床の硬さを確かめる。

祭の広場で星脈石を見たとき、俺は数字に触れることすら怖がっていた。今は、数字の代わりに木剣の重さを確かめている。重さは嘘をつかない。握れば、握った分だけ掌へ返ってくる。

「遅い」

ガルドの声がした。

次の瞬間、木剣の先が俺の足首を払った。

視界が傾く。踏み直す暇もなく膝が折れ、肩から床へ落ちた。乾いた板が骨に響き、肺から空気が押し出される。

「っ……」

「声を出すな。息を戻せ」

痛みに顔をしかめたまま、俺は息を吸った。喉がひゅう、と鳴る。吸い込んだ空気が胸の奥で引っかかり、咳になりかけた。

ガルドは助け起こさなかった。

木剣を片手にぶら下げ、俺の視線が戻るまで黙って立っている。怒鳴られるより、その沈黙のほうがきつい。逃げるための言い訳を探す時間だけが、妙に長く残されるからだ。

「今のは、足が遅かったんですか」

ようやく言うと、ガルドの眉がわずかに動いた。

「違う。お前が足を出す前に、出せない理由を三つ考えた」

「三つも?」

「失敗する。届かない。次の動きが分からない。どれも大した理由じゃねえ。だが、お前は理由を考えている間に斬られる」

ガルドは木剣の先で、俺の胸元を指した。

「剣を振る前に、相手の剣を読もうとするな。まず自分の足を置け。足がなけりゃ、目も腕も役に立たん」

「でも、相手の動きを見ないと――」

「見るなとは言ってねえ。見る順番を変えろと言っている」

ガルドは木剣を脇へ置き、代わりに自分の足を半歩だけ前へ出した。

「相手の目、肩、手、刃。そこまで見てから動こうとするな。敵はお前が全部見終わるまで待ってくれねえ。足を見ろ。重心が動く前には、必ず床が鳴る。呼吸が変わる。ほんのわずかに、立っている場所がずれる」

言いながら、ガルドは俺の前へ進んだ。

「剣は相手を倒す道具じゃねえ。生き残るために、次の一歩を置く道具だ。だから、怖くても足を置け。怖い顔のまま出ろ。びくびくしている足は、敵には見えなくても自分には分かる」

その言葉が、胸の奥へ沈んだ。

あの夜の村で、俺は火の向こうに子どもを見た。逃げれば助かるかもしれない。戻れば焼けるかもしれない。頭の中にいくつもの考えが浮かび、どれも足を止める理由になった。

それでも、身体だけが先に動いた。

あのときは、動けた。

なのに今は、木剣一本を前にして、また考えすぎている。

「立て」

ガルドが言った。

俺は床へ手をついた。掌に木粉が付着し、ざらりと皮膚を擦る。膝に力を入れ、腰を上げる。肩が痛む。だが、痛みの場所が分かるぶん、まだ動ける。

立ち上がった俺の構えを見て、ガルドは剣帯を締め直した。

怒る前の癖だ。

「もう一度」

木剣が来た。

今度は足を引かなかった。引きそうになった瞬間、床板の冷たさを踏み込む力へ変える。木剣が肩へ迫る。見切るには遅い。腕で受ける。衝撃が肘から肩へ走り、指が痺れた。

「受けるな!」

ガルドが叫ぶ。

木剣を押し返す。押し返したつもりだったが、刃筋が外へ逃げた。ガルドの剣先が俺の脇腹を打つ。

鈍い痛みが広がった。

「今のは?」

「……身体が、勝手に」

「勝手に動いたなら、そこから直せ。勝手に動いたことを理由にするな」

ガルドの声は荒かった。けれど、次の瞬間には俺の手首を取り、握りを細かく修正した。

「力を入れる場所が違う。柄を潰すな。腕で止めるな。腰を落として、背中で受けろ。剣先に力を集めるんじゃねえ。足元から通せ」

「そんなこと、すぐには……」

「すぐにできると思っているから遅いんだ」

ガルドは低い声で続けた。

「お前は剣を持つと、急に自分を別人だと思いたがる。星脈が光ったから何だ。鉄剣が青く燃えたから何だ。あれは、お前を英雄にしたんじゃねえ。お前の中にあるものを、ほんの一瞬だけ外へ出しただけだ」

木剣を握る指が固くなる。

「俺は、英雄になりたいわけじゃありません」

「なら、何になりたい」

すぐには答えられなかった。

銀翼亭の裏口。木札。荷袋。祭の広場。低い数字を見たときの、あの周囲の目。俺には何もないと決めつけられ、それを否定する言葉も持てなかった。

でも、火の中で子どもの手を掴んだときだけは、考えるより先に動けた。

「……役に立つ人間に」

「役に立つ?」

「はい」

「誰にだ」

「困っている人に。俺を拾ってくれた村に。銀翼亭の人たちに」

「それだけか」

ガルドは俺の目を見た。

「役に立つという言葉は便利だ。荷物を運ぶ奴にも、兵を殺す奴にも使える。お前は何を守りたい」

道場の外で、風が軒先の布を揺らした。遠くから、町の荷車が石を踏む音が聞こえる。

守りたいもの。

問いを向けられるたび、胸の奥に焼けた匂いが戻ってくる。崩れた家。泣き声。掴んだ手の小ささ。あの手を離したら、二度と戻れない気がした。

「失いたくないんです」

言葉が、思ったより低く出た。

「自分が何もできないまま、誰かが目の前で消えていくのを、もう見たくない。怖いです。今でも火を見ると、足が止まる。悲鳴を聞くと、頭の中が真っ白になる。でも、だからって、怖くない人が来るまで待っていたら、また誰かがいなくなる」

ガルドは黙っている。

「だから……怖いままでも、足を出せるようになりたいです。俺が強いかどうかじゃなくて、あのとき動けなかった自分に戻らないために」

長い沈黙のあと、ガルドは木剣を持ち直した。

「今の言葉を、戦場で忘れるな」

「覚えていられるか分かりません」

「忘れる。人間だからな。忘れたら、思い出せ。思い出せなければ、足元を見ろ。足が床についているなら、まだ終わっちゃいねえ」

ガルドが構える。

「もう一度だ」

昼までに、俺は十七回倒れた。

数えていたのは最初だけで、途中から分からなくなった。肩は上がらず、掌の皮は赤く膨れ、木剣を握るたびに熱が刺さる。水を飲もうとすると、ガルドは先に俺の呼吸を見て、まだだと首を振った。

休みを許されたのは、俺が倒れたまま木剣を手放さなかったときだった。

「握ったまま休む奴があるか」

「離したら、次に取るのが遅くなるので」

ガルドは一拍置いた。

「……馬鹿だが、覚えは早い」

それが褒め言葉だと気づくまで、少し時間がかかった。

昼過ぎ、道場の隅に置かれた桶の水で顔を洗った。冷たさに息が詰まる。汗が首筋から背中へ流れ、衣服が肌に張りついている。腕を上げるだけで筋肉が細かく震えた。

ガルドは古い革手袋を外し、壁に掛けられた訓練刀の刃を布で拭いていた。

「その木剣、持って帰れ」

「いいんですか」

「貸すだけだ。折ったら弁償しろ」

差し出された木剣には、何本もの傷があった。柄の端には、誰かが刻んだ小さな線がいくつも残っている。名前なのか、日付なのか、俺には読めなかった。

「誰のものですか」

「昔の弟子だ」

「今は?」

ガルドの布が止まった。

「知らん奴もいる。死んだ奴もいる。逃げた奴もいる。剣を置いた奴もいる」

「……ガルドさんは、それでも教えているんですか」

「教えるのをやめたら、いなくなった奴らが戻るのか」

ガルドは刃を見たまま言った。

「俺は昔、守るべき場所へ届かなかった。足が遅かったわけじゃねえ。判断を間違えた。自分なら間に合うと思っていた。だから若い奴が、自分だけは大丈夫だと勘違いするのが嫌いだ」

声には怒りより、乾いた疲れが混じっていた。

「お前を特別扱いするつもりはねえ。星脈がどうだろうが、異界から来た者だろうが関係ない。倒れるなら倒れろ。だが、倒れた場所で自分を決めるな。そこに寝転がったまま、役立たずだの何だのと札を貼るな」

胸の奥が、わずかに揺れた。

「俺が、立てなかったら」

「立つまで教える」

「何度でも?」

「俺が先に死ななきゃな」

冗談には聞こえなかった。

ガルドは木剣を俺へ押しつける。受け取った瞬間、腕に重みが落ちた。朝よりも重く感じる。けれど、その重さの下に、ほんの少しだけ自分の手が馴染んでいるのも分かった。

夕方、最後の稽古が始まった。

西日が道場の壁を赤く染めていた。赤い光が床へ伸び、木粉の白さを薄く塗り替えている。その色を見たとき、胸が固くなった。焼けた家の壁と、燃える梁の色が重なった。

呼吸が浅くなる。

ガルドの木剣が迫ってきた。

足が止まる。

熱い空気。煙。子どもの泣き声。手のひらから滑り落ちた何か。

「ユウ!」

怒鳴り声が、記憶を断ち切った。

木剣が頬の脇を通り、壁へ突き刺さる。俺は反射的に後ろへ下がった。

「火を見て止まるなら、止まった自分を見ろ」

ガルドは剣を抜き、低く言った。

「怖がるなとは言わん。怖がったまま、何をするか決めろ。逃げるなら、誰を連れて逃げる。踏み込むなら、どこへ踏み込む。何も決めずに固まるのが、一番人を殺す」

俺は木剣を握り直した。

掌の皮が裂け、血が滲んでいる。木粉と混じって、赤黒くなっていた。

「怖いです」

「知っている」

「また、動けなくなるかもしれない」

「なるだろうな」

「それでも?」

「それでもだ。剣士ってのは、怖くなくなる奴じゃねえ。怖さを抱えたまま、次の一歩を他人に預けない奴だ」

ガルドの剣先が、俺の胸を指した。

「お前が次に踏み出すかどうかは、俺が決めることじゃねえ。星脈石も、聖堂も、俺もだ。お前自身が決めろ」

俺は息を吸った。

肺の奥が痛い。肩が重い。足は震えている。それでも、床の感触は分かった。右足の踵が板を捉え、左足の爪先がわずかに浮いている。

ガルドの重心が動いた。

今までなら、見てから考えていた。

俺は考える前に、右足を置いた。

木剣がぶつかった。衝撃で腕が痺れる。だが、身体は崩れなかった。腰を落とし、背中へ力を通す。押し返すのではなく、斜めへ流す。

ガルドの剣先が外れた。

ほんの一瞬、道場の空気が止まった。

俺は踏み込んだ。木剣を振る。狙った肩には届かず、ガルドの袖をかすめただけだった。

それでも、当たった。

ガルドは身を引き、木剣を下ろした。

「遅い」

朝と同じ言葉だった。

だが、今度の声には、朝にはなかった何かが混じっていた。

「けど、今の一歩は悪くねえ」

俺は返事をしようとした。喉が乾いて、声が出ない。

ガルドはそれ以上褒めなかった。代わりに、俺の血の滲んだ掌を見て、眉間へ深く皺を刻む。

「手当てをする。明日、木剣が握れなくなったら意味がねえ」

「まだ、できます」

「できるかどうかを聞いてねえ。続けるために何が要るかを聞いている」

その言葉に、俺は黙った。

ガルドは道場の奥から布を持ってきて、乱暴な手つきで掌を包んだ。結び目だけは妙に丁寧だった。革紐の結び方に似ている。ほどけないように締めるのではなく、次に解くとき指が迷わないように結ぶ。

外では、日が落ちかけていた。

道場の床に伸びた光が消え、木剣の粉だけが薄闇の中に残る。俺は借りた木剣を抱え、まだ痛む肩をゆっくり回した。

朝より、足が前へ出やすくなっていた。

それは一歩にも満たない変化だった。星脈石に浮かぶ数字なら、記録する価値もないほど小さい。

けれど、その一歩は誰かに与えられた名札ではなかった。

俺が、倒れた場所から選んだものだった。

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木剣の朝 - 白と黒の境界 - 誰でも作家life