第1話 白い手袋と名札の列

王都アストレアの広場は、選定の祭の朝から、人の体温と香の煙で息苦しかった。
石畳を踏む靴音が、絶え間なく足元から跳ね返ってくる。焼いた果実を売る屋台の甘い匂い、獣脂を煮る鍋の重い臭い、聖堂の柱に焚かれた香草の煙。それらが混ざり合った空気を、正午を告げる前の鐘が冷たく押し分けていた。
俺は群衆の端に立ち、荷運び用の革紐を指で弄んでいた。
革紐の結び目は、何度も濡れて乾いたせいで硬くなっている。ほどけかけた箇所を爪で探り、見つけるたびに結び直す。手を動かしていれば、胸の奥で浅くなった呼吸を隠せる気がした。
広場の中央には、白い布を掛けた台が置かれている。その上に、星脈石があった。
人の頭ほどもある透明な石だ。内部には細い光の筋が幾重にも閉じ込められ、誰かが手を触れるたび、眠っていた魚のように淡く身をくねらせる。
その前に立つ女が、クラリスだった。
白い手袋。整えられた黒髪。余計な動きのない立ち姿。彼女は手元の記録帳を開き、列の先頭にいる若者へ視線を上げた。
「名前を」
「ハーヴェン・ロウです」
「手を」
若者が右手を星脈石へ置く。
石の中を光が走った。青、黄、そしてわずかな赤。表面に数字が浮かび上がり、クラリスはそれを読み上げた。
「魔力三十七。筋力五十二。剣術適性、第四級。魔術適性、第二級。配属候補、聖堂魔術兵補佐」
列の後ろから、短い歓声が上がった。
若者は胸を張り、クラリスから金属製の名札を受け取った。名札の表には聖堂の紋章が刻まれている。裏には、本人の名前と数値が細かく打ち込まれていた。
次の若者が進み出る。
今度は、石の光がほとんど動かなかった。
「魔力九。筋力二十一。適性、確認できず」
ざわめきが、さざ波のように広がった。
測られた少年は、最初から結果を知っていたように笑っていた。だが、笑い声は途中で引きつり、唇の端だけが不自然に持ち上がった。
「辺境詰所への配属候補です。異議がある場合は、聖堂記録局へ申し出てください」
「異議なんて、聞いてくれるんですか」
少年が言った。
クラリスの白い手袋が、記録帳の端を押さえた。呼吸が一度だけ浅くなる。それでも声の高さは変わらなかった。
「申し出る権利は、全員にあります」
「権利があるだけで、結果は変わらない」
「記録を改ざんしない限り、変わりません」
「じゃあ、俺が何をしたって、九と二十一のままですか。剣を握った日数も、誰かを助けた回数も、夜通し見張ったことも、全部関係ない。石がそう言えば、俺は弱い。弱いから、辺境へ行け。そういうことでしょう」
クラリスはすぐには答えなかった。
広場の喧騒が、その沈黙へ流れ込んでくる。誰かが笑い、屋台の鉄鍋が鳴り、遠くで子どもが泣いた。
「星脈石が測るのは、現時点の魔力回路と筋力、適性です」
「人間の価値じゃない、と言いたい?」
「私は、そこまで言いません」
「言えないだけだ」
少年の声が震えた。
俺は革紐を握った。硬い結び目が掌へ食い込む。
クラリスは白い手袋の指先を一度だけ整えた。
「言葉を足せば、記録が曖昧になります。曖昧な記録は、あとで別の誰かに都合よく使われる。私は、あなたの数値を低く見せることも、高く見せることもできません。ですが、あなたが何を言ったかは記録できます」
「そんなものが、何になる」
「後から、あなた自身が確認できます。少なくとも、最初から何もなかったことにはならない」
少年は目を伏せた。
クラリスは記録帳へ何かを書き込み、金属札を差し出した。少年は受け取らなかった。白い手袋と金属札のあいだに、薄い空気だけが残る。
やがて少年は札を奪うように取り、列の脇へ退いた。
俺はその背中を見ていた。
辺境へ来てから、俺も何度も同じ札を見た。銀翼亭の裏口で荷を受け取るとき、名前の代わりに渡される木札。数字も紋章もない。ただ、運ぶ荷の数と行き先だけが書かれている。
俺には、それで十分だと言われていた。
名前がなくても荷は運べる。腕が細くても、二度に分ければいい。力が足りなければ、早く起きればいい。そうしているうちに、俺は自分が何者なのかを考えなくなった。
考えたところで、答えはいつも同じだったからだ。
役に立つか、立たないか。
呼ばれた若者たちが、次々と星脈石へ手を置いていく。高い数値が出れば、周囲の視線が柔らかくなる。低ければ、視線はすぐに別の場所へ逃げる。
その光景を見ていると、胸の中に冷たいものが沈んでいった。
俺も一度、測られたことがある。
異界門をくぐった直後、言葉も身分も持たなかった俺を、聖堂の役人が石の前へ立たせた。魔力十一。筋力二十六。剣術適性、判定不能。魔術適性、判定不能。
記録の端に、仮名として「ユウ」と書かれた。
それが俺の名前になった。
名前まで、誰かに決められたような気がした。
「そこの荷運び」
声に振り返ると、聖堂の係員が立っていた。俺の足元に置かれた木箱を指している。
「記録札を西側の控え所へ運べ。祭の列を横切るなよ。人にぶつかって札を落としたら、弁償はお前の賃金から引く」
「はい」
返事の前に、一拍置いた。
木箱を抱える。思ったより重かった。腕に力を込めると、革紐が肩へ食い込む。群衆の隙間を探しながら歩き出した。
そのとき、星脈石の前でクラリスが顔を上げた。
視線が合った、と思った。
彼女は俺ではなく、俺の胸元に下がった木札を見ていた。木札には、辺境の銀翼亭の印と、雑務係を示す簡単な記号が焼き付けられている。
「あなた」
足が止まった。
「はい」
「その木札を見せてください」
周囲の何人かが振り返った。俺の肩が固くなる。人の視線が集まると、身体が勝手に小さくなる。
「荷物を届けるだけなので……」
「記録の照合です」
クラリスは淡々としていた。けれど、その声には先ほどより長い間があった。
俺は木箱を地面へ置き、木札を外した。白い手袋が伸びてくる。指先が触れる寸前で止まり、彼女は札の刻印を読んだ。
「ユウ。登録番号、未確定。異界門経由」
その言葉が、喉の奥に残った。
クラリスは記録帳をめくった。紙の擦れる音がやけに大きく聞こえる。
「以前の鑑定記録があります。魔力十一。筋力二十六。剣術、判定不能。魔術、判定不能」
「……はい」
「この記録に間違いは?」
「ありません」
「再鑑定を受ける意思は」
俺は星脈石を見た。
透明な石の中で、光が誰かの手を待っている。あの冷たい光に触れたとき、周囲の人間が俺を見ていた。人間ではなく、低い数値の組み合わせを見る目だった。
革紐を握っていた指が、今度は空を掴んだ。
「ありません」
声は思ったよりも小さかった。
クラリスは俺を見た。無表情のまま、記録帳へ筆を置く。
「理由を」
俺はすぐに答えられなかった。
再鑑定を受けても、数値が変わるとは思えない。変わったところで、今度は何をさせられるのか分からない。俺は剣士でも魔術師でもない。ただ、荷を運び、言われた場所へ行き、邪魔にならないように息をしてきただけだ。
それなのに、胸の奥には別の声があった。
低いままで終わるのか。
誰かに決められたまま、何も返さずにいるのか。
「……怖いからです」
やっと言った。
クラリスの筆先が止まった。
「何が」
「石を見るのが。数字を見た人が、俺を見る目が。低いなら低いで、最初から期待されないほうが楽です。何もできないなら、何もできないままのほうが、失敗したときに笑われずに済む」
言葉が一度出ると、止めにくかった。
「でも、楽なだけです。楽だから、ずっとそこにいる。誰かが困っていても、俺には無理だって考えて、動かない。動かなければ、何も失敗しない。何も失敗しない代わりに、何も守れない。そういうのが嫌だと思うこともあります。でも、嫌だと思うだけで、結局は荷物を運んでいるだけです」
クラリスは黙って聞いていた。
白い手袋の指が、記録帳の端をきれいに揃える。広場を渡る風が、彼女の袖をわずかに揺らした。
「あなたの理由を、記録しても?」
「……俺の名前の横に?」
「名前の横に」
俺は頷いた。
クラリスは細身の筆を取り、記録帳へ一行を書き足した。書き終えると、筆を置き、木札を返してくる。
「記録は、あなたを救いません」
「分かっています」
「数字も、あなたを救いません」
「はい」
「それでも、残るものはあります。あとで誰かが読み、あなたが何を恐れ、何を選ばなかったかを知る。記録とは、その程度のものです」
「それなら、意味はないんじゃないですか」
「意味があるとは言っていません」
クラリスの声は冷たかった。
「ただ、消えないだけです」
木札が掌へ戻る。白い手袋はすぐに離れた。
俺は木箱を抱え直し、人波の中へ戻った。背中に広場の視線が刺さる。誰かの笑い声が聞こえ、別の誰かが高い数値を称えている。
門を抜けると、祭の音が少し遠くなった。
それでも鐘の余韻は耳の奥に残っていた。俺は荷袋の重みを確かめ、木札の角を親指でなぞった。
選ばれることだけが価値なら、俺は最初からここに立てない。
そう思ったのに、喉のあたりだけが妙に熱かった。
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