9話 佐伯辰也の窓の灯り

その夜、私は手帳を閉じたまま、三〇五号室の前に立っていた。

管理人室で写した日付と、カレンダーの赤丸は、もう何度見ても同じだった。四月十四日、五月十六日、六月十三日、七月十八日、八月十五日、九月十六日。そこへ私の入居日である八月二十七日が加わっている。

日付は数字にすれば扱えると思っていた。けれど数字が増えるほど、手帳の中には自分の生活ではないものが溜まっていった。誰かの不在。誰かの苦情。誰かが開けた郵便受け。誰かが夜中に回した洗濯機。

そして、誰かが開けなかった扉。

私は手帳を鞄にしまい、廊下へ出た。

夕凪レジデンスの三階は、夜になると音のない場所ではなくなる。どこかで水が流れ、遠くの部屋で椅子が引かれ、エレベーターの機械が壁の中で低く唸っている。昼間は気にならない音ばかりなのに、ひとつを聞き分けようとすると、ほかの音まで輪郭を持ちはじめた。

私が扉を閉めると、金属のラッチが噛み合った。

少し遅れて、同じ音が廊下の奥から返ってきた。

私は足を止めた。

向かいの三〇六号室の扉は閉じている。その隣も、その先も、明かりの漏れている部屋と漏れていない部屋が一定の間隔で並んでいるだけだった。

けれど、三〇六号室の窓からは薄い茶色の光が漏れていた。

佐伯の部屋だ。

窓の向こうに、人の影が動いた。カーテンは閉じられているのに、室内の明かりが布地を通して、ぼんやりと形を浮かび上がらせている。甘くない紅茶の匂いが廊下へ流れてきた。茶葉を長く浸しすぎたような、少し渋い匂いだった。

「相川さん」

佐伯の声がした。

扉が少し開いている。いつから開いていたのか、私は気づかなかった。佐伯はその隙間から顔を出し、私の鞄と、閉じた手の位置を見た。

「こんばんは」

「こんばんは」

「管理人室へ行かれましたね」

問いでも断定でもない言い方だった。

「見ていたんですか」

「見ていたというほどではありません。エレベーターが一階で止まった時間と、相川さんが戻ってきた時間が近かったので」

「それを見ていたというんです」

「そうかもしれません」

佐伯は扉をもう少し開いた。室内から、ラジオの低い音が漏れている。何を話しているのかまでは聞き取れない。一定の音量で、誰かが遠くにいるような気配だけが続いていた。

「入りますか」

「いえ、ここで結構です」

「そうですか。では、廊下に立ったまま話しましょう」

「話したいことがあるんですか」

「相川さんの方が、話したいことがある顔をしています」

私は返事をしなかった。

佐伯は手にしていた湯飲みを口元へ運んだ。中身は紅茶だった。薄い茶色の液体が照明を受け、表面に細かな膜を作っている。彼は一口だけ飲み、冷めていることを確かめるように舌を動かした。

「この階は、音が少し違うんです」

「前にも聞きました」

「ええ。ですが、相川さんはまだ聞き終わっていない」

「音をですか」

「暮らしを、です」

佐伯は廊下の奥を見た。私はその視線を追ったが、そこには白い壁と、消えかけた非常灯しかなかった。

「夜の二時を過ぎると、洗濯機の終わり方で住んでいる人が分かります。早く止まる部屋もあれば、止まったあとに一拍だけ余韻を残す部屋もある。古い機種は脱水の音が長い。新しいものは、止まったあとに配管の中で水が戻る音がする。人間の方は、そこまで違いません」

「人間が、洗濯機と同じだと言いたいんですか」

「そういう意味ではありません。人は、生活の癖を隠せないという意味です。何時に帰るか、どこで靴を脱ぐか、郵便受けを開ける前に一度止まるか。本人は毎回違うつもりでも、建物の方は覚えている」

「建物が覚えるんですか」

「建物か、隣人か、その両方でしょう。集合住宅では、見ないふりをしても、音だけは壁の向こうへ抜けます。見なかったことにしたものほど、別の形で戻ってくる。足音になったり、洗濯の時間になったり、郵便受けを閉める音になったりする」

「それは、あなたの考えですか。それとも、この建物で実際に起きたことですか」

「考えと経験を分けるのは難しいですね。長く住んでいると、どこまでが自分の記憶で、どこからが建物の記憶なのか分からなくなる」

その言い方に、私は妙な苛立ちを覚えた。

「前の住人について知っていることを、最初から全部話してください」

「全部、というのは便利な言葉です。話し終えたあとに、話していないものが一つでも残れば、全部ではなかったと言われる」

「では、話せる範囲でいい」

「話せる範囲というものも、相手によって変わります」

「私が聞く相手として不適切だと?」

「そうではありません。相川さんは、聞いたものを自分の中で整えようとする。順番に並べ、原因と結果を繋げ、最後に自分の責任から外す。そういう聞き方をする人です」

胸の内側が冷たくなった。

「私の何を知っているんですか」

「知っているわけではありません。見ていれば分かることがあります」

「見ていれば、ですか」

「帰宅すると、最初に鍵へ触れる。次に財布、定期。靴を脱いだあと、玄関の床を一度見る。机の紙の角を揃える。冷蔵庫が届いてからは、中身を奥から並べ直すようになった。眠る前には、カレンダーを見上げる。たぶん、見上げたあとで、見なかったことにしようとする」

私は声が出なかった。

佐伯の観察は、ひとつひとつ正しかった。正しいからこそ、見られていたことより、自分がそれを毎日繰り返していた事実の方が怖かった。

「それを、前の住人にもしていたんですか」

「似たことはしていました」

「似たこと?」

「橘さんは、郵便受けを二度開けました。一度目は何かを確認するため。二度目は、一度目に確認したものが本当にそこにあったか確かめるためです。洗濯機が止まったあとも、すぐには動かなかった。水が戻る音が消えるまで、耳を澄ませていた。カレンダーの日付を見て、何も書かずに立っていることもあった」

「赤丸は、何の印だったんですか」

「何かが起きた日ではなく、何かが繰り返された日です」

「点検や苦情と重なっている」

「それらが原因だと思いますか」

「少なくとも、記録として一致している」

「日付が一致しているだけです。赤丸が点検を呼んだのか、点検が赤丸を生んだのか、それともどちらも別の反復を見ていたのかは分からない」

「分からないまま、あなたは見ていた」

「見ていました」

佐伯はあっさり認めた。

「夜、廊下へ出て音を確認した。郵便受けの蓋が開く回数を数えた。掲示板の紙が貼り替えられた順番を覚えた。橘さんが部屋の前に立った時間も、何度か見ました」

「なぜ止めなかったんですか」

私の声は、自分でも分かるほど低かった。

「何をですか」

「橘さんを。困っていたなら、声をかければよかった。あなたは何かおかしいと分かっていたんでしょう」

「声をかけました」

「いつ」

「最初に赤丸を付け始めた頃です。廊下で会ったとき、『何かあれば管理人さんに言った方がいい』と伝えました」

「それだけですか」

「それ以上、何を言えばよかったんでしょう。怖いことが起きていますか、と聞くのか。眠れていますか、と聞くのか。そう聞いて、橘さんが大丈夫ですと答えたら、私は安心して戻れたでしょうか」

佐伯の声に初めて、わずかな疲れが混じった。

「人は、助けを求めているときでも、助けてくださいとは言いません。代わりに、郵便受けを何度も開けたり、同じ時間に廊下へ出たり、誰かがいるはずの部屋を見つめたりする。見れば分かる。でも、分かったあとで何をするかは、別の話です」

「あなたは、何もしなかった」

「何もしませんでした」

「見ていただけで?」

「見て、覚えて、何もなかったことにはしないようにしていました」

「覚えているだけなら、何も変わらない」

「そうですね」

佐伯は湯飲みを持ったまま、窓の方へ視線を戻した。薄い茶色の灯りが、彼の頬の片側だけを照らしている。部屋の奥でラジオが低く笑い声を発し、すぐに雑音へ変わった。

「ある夜、三〇五号室の前で、ずっと物音がしていました。洗濯機ではない。家具を動かす音でもない。何かを何度も床へ置く音でした。私は廊下へ出て、扉の前まで行った。ノックをすればよかった。でも、音が止まったんです。止まったあとに、橘さんが郵便受けを開けた。二度。私はそれを見て、部屋へ戻りました」

「なぜ」

「音が止まったからです」

「止まったなら、なおさら確認すべきだった」

「そう言われると思いました」

「あなた自身も、そう思っているんじゃないですか」

佐伯はしばらく黙った。

「思っています。今でも、あの夜のことを思い出します。ですが、後悔は記録にできない。日付を書き、時刻を書き、音の種類を書いても、最後に『ノックしなかった』と書けば、それで終わってしまう。終わらせたくないことほど、書類にすると小さくなる」

私は手帳の入った鞄へ目をやった。

「だから、あなたは記録を嫌うんですか」

「嫌いではありません。記録は必要です。管理人さんの点検簿がなければ、誰も何も覚えていないでしょう。ただ、記録は残すものを選ぶ。選ばれなかったものは、残らないのではなく、残っているのに名前を持てなくなる」

「赤丸は、名前を持たない記録?」

「赤丸は、名前を付ける前の印です。起きたことを説明できない人が、せめて日付だけを囲む。日付があれば、その日まで戻れる。戻れば、何かを見つけられるかもしれない。けれど、何度も同じ日へ戻るうちに、今いる日付の方が分からなくなる」

私はカレンダーのことを思い出した。

九月十六日。まだ来ていない日付。そこに付いた赤丸を、私は毎晩見上げている。来る前から、その日を待っている。待つことで、今日をやり過ごしている。

「橘さんは、赤丸を消そうとしたんですか」

「何度か。消しゴムで擦った跡がありました。でも、紙が薄くなるだけで、赤は消えない。消えたように見えても、光に透かすと残っている」

「だからカレンダーを残した?」

「残したのか、残ってしまったのかは分かりません」

「あなたは、何でも分からないで済ませる」

「分からないものを分かったことにするよりは、ましです」

「でも、分からないままでは、誰も助けられない」

「相川さんは、助けたいんですか」

その問いに、私は答えられなかった。

橘千景を助けたいのか。自分を助けたいのか。部屋を出て、カレンダーも紙も手帳も置き去りにすれば、少なくとも今夜の恐怖からは離れられる。しかし、出ていったあとに何をするのかは決めていない。何もなかったことにして、別の部屋で同じ鍵を確認し、同じ紙を揃え、同じ音に耳を澄ますだけかもしれない。

「私は、前の住人のことを調べているつもりでした」

私は言った。

「でも、実際には、自分が何を繰り返しているかを確認しているだけなのかもしれない。鍵、財布、定期。白紙の数。カレンダーの日付。どれも、失くしてはいけないものだから確認していると思っていた。でも、確認するたびに、失くしたものが何か分からなくなっている」

佐伯は口を挟まなかった。

私は続けた。

「以前、別の部屋に住んでいました。ここから遠くない場所です。そこでも、夜にノックがあった。私は聞こえていたのに、開けなかった。翌朝、仕事へ行った。帰ってきたら、何もなかった。少なくとも、そういうことにした。荷物をまとめて、会社には忙しいから引っ越したと言った。誰かに迷惑をかけるより、私が黙って出れば済むと思った」

「誰かが、部屋の中にいたんですか」

「分かりません」

「分からないのに、出ていった」

「分からないからです。確認すれば、何かを背負うことになる。警察を呼べば大げさになる。隣人へ相談すれば、生活に問題がある人間だと思われる。だから、鍵と財布と定期を確認して、全部持っていることにして、出ていった」

言葉にした途端、胸の奥で固まっていたものが少し崩れた。

佐伯は窓の外を見たまま、静かに言った。

「そのときも、郵便受けを二度開けましたか」

私は息を呑んだ。

「……覚えていません」

「覚えていないことを、覚えているように扱ってきたんですね」

「あなたに何が分かるんですか」

「分かりません。見ていないことは、分からない。ただ、相川さんが今、何度も自分の部屋の前で足を止めていることは見ています」

佐伯はようやく私の方を向いた。

「見ることは、助けることではありません。そこは私も間違えました。けれど、見なかったことにするのも、助けることではない。人は、他人の沈黙を尊重しているつもりで、自分が傷つかない距離を守っているだけのことがあります」

長い沈黙が落ちた。

廊下の奥で、水が配管を通っていく。どこかの部屋で洗濯機が回り、低い振動が床を伝わってきた。私は足の裏で、その振動を数えようとした。

一、二、三。

数え始めたところで、やめた。

「佐伯さん」

「はい」

「前の方は、二度、同じ夜に郵便受けを開けていたと言いましたね」

「ええ」

「そのあと、何があったんですか」

「一度目には、何かを取り出した。二度目には、何も入っていないことを確かめた」

「何を取り出したんですか」

「白い紙です」

廊下の空気が、わずかに湿った。

「文字は?」

「ありませんでした」

「それを、あなたは見た」

「郵便受けから出した紙を、橘さんが部屋の灯りの下で見ていました。折り目を開き、裏返し、また折った。何度も同じことをしていた。私は向かいの窓から見ていたんです」

「なぜ声をかけなかった」

「声をかければ、紙の意味を聞かれると思ったからです」

「意味を知らなかったのに?」

「知らなかったからです。知らないものを見ているとき、人は自分が知っているように振る舞いたくなる。私は、知っているふりをするのが嫌でした」

「それで、黙っていた」

「ええ」

「それは、私と同じです」

「そうかもしれません」

佐伯は湯飲みを廊下の床へ置いた。底が床材に触れ、かすかな音がした。

「相川さん。部屋へ戻るなら、今夜は郵便受けを二度開けないでください」

「なぜですか」

「二度目は、確認ではなく、同じ動作を選んだことになります」

「一度ならいい?」

「一度でも、開ける理由を自分で言えないなら、同じです」

「では、どうすればいい」

佐伯はすぐには答えなかった。窓から漏れる茶色の灯りが、彼の背後の壁を淡く照らしている。灯りの中で、古い案内図らしい紙が一枚、壁に貼られているのが見えた。夕凪レジデンスの入居当初の案内図だった。ところどころに細い黒い書き込みがある。

「自分が見たものを、自分のものにしないことです」

「意味が分かりません」

「紙を見たなら、紙を見た。音を聞いたなら、音を聞いた。そこへ、誰かの意思や未来や罪を足さない。自分がしたことも、見たことも、見なかったことも、同じ重さで置くんです」

「そんなことができますか」

「できないから、皆さん印を付けるんでしょう」

佐伯は湯飲みを拾い、扉の内側へ戻った。

「最後に一つだけ、言っておきます」

「何ですか」

「明日の朝、三〇五号室の前を通ります。もし相川さんが出てくるなら、私に挨拶をしてください。返事がなくても、もう一度だけ」

「それに何の意味が?」

「意味はありません。挨拶をしたという事実を、残すためです。返事があったかどうかは、あとで考えればいい」

佐伯は扉を閉めかけた。

私はその隙間へ、反射的に手を伸ばした。

「佐伯さんは、あの夜、何もしなかったことを後悔していますか」

扉の向こうで、彼の気配が止まった。

薄い茶色の灯りが、閉じかけた扉の隙間から廊下へ細く流れている。紅茶の匂いはもう弱く、代わりに、冷めた紙のような乾いた匂いがした。

「後悔は、毎日同じ時刻に戻ってきます」

佐伯の声が、扉の向こうから聞こえた。

「戻ってきたものを、追い返すことはできます。仕事をしたり、眠ったり、別のことを考えたりして。でも、追い返しただけで、なくなったわけではない。だから私は、夜に廊下へ出て、音を確かめます。あの部屋が空いているか、誰かがいるか、洗濯機が止まったあとに余韻が残るか。見ておけば、少なくとも次に何か起きたとき、私はまた『何も聞こえなかった』とは言えない」

「それで、誰かを救えるんですか」

「救えないでしょう。けれど、救えなかったことまで、なかったことにはしないで済む」

扉が閉まった。

私はしばらく、佐伯の部屋の前に立っていた。

廊下の照明が白く床を照らし、私の影を細長く伸ばしている。影は三〇五号室の扉の下まで届き、そこで途切れた。扉の向こうには、カレンダーがある。机の上には白い紙がある。手帳には、私の字で書かれた「不在」がある。

私は自分の部屋へ戻った。

鍵を差し込む前に、いつもの確認をしようとした。鍵、財布、定期。

指が止まった。

私は確認しなかった。

鍵を回し、扉を開けた。

部屋の中は暗い。玄関脇のカレンダーだけが、廊下の光を受けて浮かんでいた。九月十六日の赤丸は、前より濃くなっている。その輪郭が、日付を囲むというより、数字の外側へゆっくり滲んでいた。

机の上の白紙を見た。

紙は一枚だけだった。

私はそれを手に取り、裏返した。何もない。表にも何もない。折り目の内側にも、赤い粉は付いていなかった。

何もないことを、何もないまま置く。

私は紙を机へ戻した。端は揃えなかった。

そのとき、廊下の向こうで、佐伯の扉がもう一度閉まる音がした。

少し遅れて、私の寝室の扉が閉まった。

私は振り返った。

寝室には誰もいない。

ただ、扉の下から伸びた影が、床の継ぎ目に沿って細く続いている。私はそれを追わなかった。追わずに、玄関の前へ立った。

郵便受けの蓋は閉じている。

私は一度だけ、そこへ手を伸ばした。

開ける前に、手を止める。

紙のざらつきが、まだ指先に残っている気がした。佐伯の声が、壁の内側から戻ってくる。

見たものを、自分のものにしない。

私は蓋を開けなかった。

代わりに、廊下へ向かって声を出した。

「こんばんは」

返事はなかった。

それでも私は、もう一度言った。

「佐伯さん。おやすみなさい」

白い廊下に、声が出ていく。

少し遅れて、どこか遠くから、扉のラッチが噛み合う音が返ってきた。

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