第10話 白紙に戻る住所

朝、目が覚めたとき、部屋の中には洗濯機の低い振動が残っていた。
私はしばらく天井を見ていた。洗濯機は回していない。昨夜、寝る前に蛇口を閉め、電源も抜いた。そうした記憶はある。けれど、床の下から伝わってくるような細かな揺れは、確かに続いていた。
振動は、一定ではなかった。
回っているというより、止まったものが、止まりきれずに震えているようだった。
私はベッドを降りた。裸足の裏に床の冷たさが貼りつく。寝室の扉は半分開いていた。昨夜、閉めたはずだと思ったが、確信は持てなかった。
玄関へ向かう途中、机の上の白紙が目に入った。
端は揃っていない。
昨夜、わざと揃えなかった。紙の左上が少しだけ浮き、窓から入った風もないのに、薄く上下している。
私はそれを手に取らなかった。
玄関の扉を開けると、廊下の照明はまだ夜の色をしていた。外は明るくなり始めているのに、共用廊下には薄い湿気が残っている。壁紙の継ぎ目に沿って、灰色の影が伸びていた。
三〇六号室の前を見た。
佐伯の扉は閉じている。
私は一歩、前へ出た。
「おはようございます」
返事はなかった。
昨日の夜、挨拶を返す必要はないと言われたわけではない。返事がなくても、もう一度だけ言えばいい。そう思い、私は声を重ねた。
「佐伯さん。おはようございます」
扉の内側で、何かが床へ置かれた。
軽い音だった。湯飲みか、紙の束か。続いて、ラジオの音が途切れた。
私は扉へ近づいた。
「佐伯さん?」
しばらく待った。
中から、鍵を回す音がした。
それは扉の鍵ではなかった。部屋の奥、別の場所で、何かを閉じ込めるような金属音だった。
私は手を伸ばしかけ、やめた。
佐伯の言葉が戻ってきた。
見たものを、自分のものにしない。
私はその場を離れ、エレベーターへ向かった。
一階の郵便受けには、何通かの封筒が差し込まれていた。私は自分の名札の前で足を止めた。蓋の隙間から、白い紙が見えている。
昨日と同じ紙かもしれない。
開ける理由を、私は考えなかった。
鍵を差し込み、蓋を開いた。
中には、白い紙が一枚と、薄い茶色の封筒が入っていた。封筒には宛名がない。表面の右下に、赤鉛筆で小さな丸が付いている。
私はその場で封筒を開けなかった。
郵便受けの前には防犯カメラがある。レンズの赤い点が、こちらを見ている。以前なら、誰が投函したのか確かめるために、周囲を見回していた。今日はしなかった。
封筒を鞄へ入れ、白紙だけを手に持った。
エントランスの自動扉を出ると、朝の空気が顔へ触れた。街路樹の葉には細かな水滴が残り、車道を走るトラックの音が、建物の壁にぶつかって薄く戻ってくる。
交番へ向かう途中、私は白紙を何度も折りそうになった。
紙の表面はざらついている。何も書かれていないのに、指の腹に文字の跡が触れるようだった。
交番の前には藤堂がいた。自動販売機の横で缶コーヒーを持ち、巡回手帳を開いている。私に気づくと、帽子のつばへ指を添えた。
「おはようございます。何かありましたか」
「相談があります」
藤堂はすぐに中へ入ろうとはしなかった。私の手元の紙を見てから、交番の扉を開けた。
中は暖房が効いていて、紙と缶コーヒーの匂いが混じっていた。私は椅子に座り、白紙を机の上へ置いた。藤堂は紙に触れず、まず時刻を書いた。
「これは、どこで?」
「郵便受けです」
「ご自宅の?」
「はい」
「差出人はありませんか」
「封筒もあります。ただ、まだ開けていません」
私は茶色の封筒を鞄から出した。
藤堂は手袋を使うようなことはしなかったが、すぐには受け取らなかった。
「開封する前に、確認だけさせてください。誰かに脅された、あるいは危害を加える内容だと思われますか」
「分かりません」
「そうですか」
「白紙なんです」
「白紙でも、投函されたこと自体が気になる、ということですね」
「それだけではありません」
私は言葉を探した。
「前の住人も、白い紙を受け取っていたそうです」
「誰から聞きましたか」
「隣人です」
「その方は、現物を見たんですか」
「見たと言っていました」
藤堂は手帳のページをめくった。
「前の住人というのは、橘千景さんですか」
名前を聞いた瞬間、白紙の上に薄い影が落ちた。藤堂の手の影だった。紙の上で、指が五本に分かれている。
「ご存じなんですか」
「以前、相談を受けたことがあります」
「失踪届は出ていますか」
藤堂は答える前に、ペンの先を紙から離した。
「届出の有無を、ここで詳しくお話しすることはできません」
「でも、橘さんはこの部屋からいなくなった」
「退去された、という管理上の記録はあります」
「それとは別に、失踪届があるか聞いています」
「相川さん」
柔らかな声だった。
「いま確認できる事実と、相川さんが感じていることは、分けておいた方がいいです」
「分けた結果、何もなかったことになる」
「そうは言っていません」
「橘さんも、そうやって分けられたんですか」
藤堂の表情がわずかに硬くなった。
「その方について、私からお伝えできることには限りがあります」
「では、私のことなら話せますか」
「何をですか」
「私が以前、この建物に住んでいたこと」
藤堂のペンが止まった。
止まっただけだった。驚いた顔も、否定もなかった。ただ、記録を書く姿勢から、聞き取る姿勢へ変わった。
「そうなんですか」
「自分でも、はっきり思い出せません」
「旧住所は分かりますか」
私は鞄から、古い引越し書類の束を出した。クリアファイルの角が擦れ、紙の匂いが立った。旧住所控えを開き、机の中央へ置く。
そこには、夕凪レジデンスの別の部屋番号が書かれていた。
二〇五号室。
数字を見た瞬間、昨夜のエレベーターが二階で止まったことを思い出した。
開かなかった扉。
外から聞こえた、紙をめくる音。
一枚。
間があって、もう一枚。
「この部屋に、いつ頃お住まいでしたか」
藤堂が尋ねた。
「分かりません。書類では、三年前になっています」
「橘さんが入居された時期と、近いかもしれません」
「同じ建物に?」
「記録を確認しないと、断定できません」
「確認してください」
藤堂は私を見た。
「何を確認したいのか、もう少し具体的に言っていただけますか」
私は白紙へ目を落とした。
その中央に、赤い点がひとつあった。
さっきまでなかった。鉛筆の粉が落ちたのかもしれない。私の指に付いていたものが移ったのかもしれない。そう考えようとしたが、点は小さな丸へ変わりつつあった。
紙の下から、赤がにじんでくる。
「三年前の二〇五号室で、夜にノックがあったかどうか」
自分の声が、遠く聞こえた。
「誰かが部屋の中にいたかどうか。私が、何を聞いて、何をしなかったのか」
藤堂は白紙を見た。
「その出来事は、記録にありますか」
「分かりません」
「記録がない場合は?」
「それでも調べてください」
藤堂はしばらく黙っていた。
白紙の赤い点は、今度ははっきりと丸になった。丸の中心には、細い線が一本だけ残っている。数字の一部のようにも、名前の最初の筆画のようにも見えた。
藤堂が巡回手帳を閉じた。
「確認できる範囲で、確認します」
その言葉を聞いたとき、安心より先に、郵便受けへ戻らなければならない気がした。
茶色の封筒の中身を、まだ見ていない。
見ていないものは、まだ自分のものではない。
そう思った。
交番を出ると、夕凪レジデンスの三階の窓に、薄い茶色の灯りが点いていた。
三〇六号室ではない。
二〇五号室だった。
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