8話 管理人室の点検簿

夜明け前のエレベーターは、箱の中まで眠っていた。

照明だけが白く点いている。鏡面の壁に映った私は、顔色が悪く、片手に手帳を握り、もう片方の親指の腹を擦っていた。緊張すると出る癖だ。擦るたび、皮膚の溝に残った赤い粉が薄く伸びる。

三階から一階へ降りるあいだ、エレベーターは一度だけ止まった。

表示は二階。

扉は開かなかった。誰かが呼んだのかもしれない。あるいは、誰も押していないのに制御盤が反応しただけかもしれない。私はそう考えた。考えたが、二階で止まったとき、箱の外から紙をめくる音が聞こえた気がした。

一枚。

間があって、もう一枚。

扉が開かないまま、エレベーターは一階へ降りた。

エントランスには人影がなかった。自動扉の向こうはまだ薄暗く、再開発地区の道路に沿って街路灯が等間隔に並んでいる。植栽の土は夜気を含み、湿った匂いを放っていた。新しい建物の中で、土だけが時間を急がされていないように見えた。

管理人室のガラス越しに、蛍光灯が点いている。

森下は机に向かい、点検表を広げていた。書類の端を揃え、右上に置いたボールペンを定規と平行に直す。その動作を見ていると、私が部屋で繰り返していることと、ひどくよく似ていた。

私は二度、扉を叩いた。

「入ります」

返事はなかった。

けれど、机の上で紙を押さえる音がした。森下は私が来たことを知っている。私は取っ手を握った。金属は冷たく、指先に薄い湿りが貼りついた。

「出勤前ですか」

森下は顔を上げなかった。

「その前に、確認したいことがあります」

「確認するなら、要点を」

私は鞄から手帳を出した。白い紙は持ってこなかった。昨夜、机の上に置いたままにしてある。あれを持ち出せば、何かを正式に届けることになる気がした。名前のないものを、名前のある場所へ移す。それだけのことが、今の私には危険に思えた。

「洗濯機の音がした時刻、郵便受けに紙が入っていた時刻、掲示板の貼り替え。カレンダーの赤丸と、全部が一致しています」

「一致しているように見えるだけでは」

「だから記録を見せてください」

森下は、すぐには答えなかった。

机の上の点検表を一枚めくる。薄い紙が擦れ、蛍光灯の下で乾いた音を立てた。

「管理記録は、住民に見せるためのものではありません」

「共有部分の点検記録ですよね。私の部屋の排水や郵便受けも含まれている」

「設備の記録は、設備のためにあります」

「人の出入りや、騒音の苦情も?」

森下の手が止まった。

「あなたは設備の話をしていませんね」

「最初から、そのつもりはありません」

私は自分でも驚くほど平坦な声で言った。

「前の住人の退去日と、赤丸の日付を確認したい。郵便受けの不具合、深夜の物音、点検カードの投函。分かることを、順番に見たいだけです」

「順番に見た結果、何が分かると思いますか」

「原因です」

「原因が分かれば、安心できますか」

「少なくとも、原因のないものよりは」

森下はようやく私を見た。

初めて会ったときから無愛想な男だったが、今朝の顔には別の疲れがあった。誰かに問い詰められることに疲れているのではない。問い詰められる前から、同じ場所で同じ答えを繰り返してきた人間の疲れだった。

「相川さんは、部屋の中にあるものを全部、原因のあるものとして見ようとしています」

「原因はあります」

「投函された紙には、投函した人がいる。洗濯機の音には、回した人がいる。赤丸には、付けた人がいる。そこまではいい」

「その先は」

「原因を追っているうちに、自分のしたことまで他人のせいにしたくなる人がいます」

「私はそんなことはしません」

「まだ、そうでしょう」

その言葉に、胸の内側が狭くなった。

「見せてもらえないなら、ここへ来た意味がありません」

「意味を探すために来たのですか」

「そうです」

「意味のないものを残しておくのが、そんなに嫌ですか」

「嫌です」

答えは早かった。

森下は少し目を伏せた。それから机の引き出しを開けた。中には輪ゴムで束ねた書類と、交換済みの掲示物の控えがある。紙の角は揃い、束の厚みまで均一に見えた。誰かが崩れるたびに、残ったものだけを整えてきたような並びだった。

森下は一番下から、灰色の表紙の点検簿を取り出した。

「見せるだけです。撮影はしないでください」

「理由は?」

「同じ記録が二つあると、どちらが元か分からなくなる」

「記録が増えるのが困るんですか」

「増えた記録は、元の記録を食います」

点検簿が机の中央に置かれた。

表紙は手垢で黒ずみ、背の部分が擦れて白くなっている。竣工から三年しか経っていない建物にしては古すぎる。私は椅子を引いた。脚が床を擦り、管理人室の壁で低く跳ね返った。

森下は点検簿を開いた。

最初の数ページは、工事中の設備点検だった。配管の圧力、排水の流れ、非常灯、エレベーターの停止位置。数字と判定が並び、どの欄にも「異常なし」とある。

その後に、入居者の生活が始まっていた。

二〇五号室、郵便受けの蓋が戻らない。部品交換。

五〇二号室、深夜の洗濯音。振動を確認。住民へ注意。

七〇一号室、長期不在。点検カード投函。応答なし。

四〇六号室、退去確認。残置物なし。

短い記録だった。何かが起き、誰かが対応し、最後に処理済みの印が押されている。文章の端が磨かれ、出来事の尖った部分だけが最初から存在しなかったことにされている。

「同じ部屋で、何度も退去があるんですか」

「入れ替わりはあります」

「退去理由は、全部残っていない」

「退去理由は、管理記録に必要ありません」

「では、何が必要なんですか」

「退去日、鍵の返却、残置物の有無。次の入居者が困らないための情報です」

「前の住人に何があったかは、困ることではない?」

「知っても、部屋は変わりません」

「知れば、住み方を変えられるかもしれない」

森下の指が、ページの端を押さえた。

「住み方を変えれば、何かを避けられると思いますか」

私は答えなかった。

森下はページをめくり、三〇五号室の欄を探した。紙が擦れる音が、部屋の中で妙に大きく響く。三〇五号室。入居時の設備確認、換気扇、給湯器、排水、鍵の受け渡し。

その前年の欄に、赤丸と同じ日付が並んでいた。

五月十六日――宅配ボックス関連の投函。

六月十三日――自治会回覧未返却。

七月十八日――夜間騒音に関する苦情。

八月十五日――居住者不在。室内確認延期。

私は身を乗り出した。

「この八月十五日の確認延期は?」

「確認できなかった、ということです」

「なぜ」

「不在だったからです」

「橘千景さんは、その日に部屋にいなかった」

「記録上は」

「記録上ではなく、実際には?」

森下は私を見た。

「記録にないことを、実際という言葉で補うのは危険です」

「あなたは何を見たんですか」

「見ていません」

「見ていないのに、不在と書いた?」

「点検カードが投函され、応答がなかった。だから不在です」

「人がいないことと、応答しないことは違う」

「違います」

「違うと分かっているなら、なぜ同じ欄に入れるんです」

森下はすぐに返さなかった。

管理人室の壁の向こうで、配管を水が通った。細い水音が上から下へ落ち、床の下で一度だけ膨らんだ。私はその音に、昨夜の洗濯機の振動を重ねた。

「記録は、事実をそのまま残すものではありません」

「違うんですか」

「事実を扱える形にして残すものです。人がいるかいないかは、管理人には確認できないことがある。応答があったか、鍵が開いたか、点検できたか。そういうものなら書ける」

「書けないことは、なかったことになる」

「なかったことにはなりません」

「でも、記録からは消える」

「消えるのではなく、記録の外に置かれる」

「それは同じです」

「違います。外に置かれたものは、誰かが拾えば戻せる」

森下の声は低かった。いつもの短い返事ではなく、言葉を崩さないように一つずつ置いている。

「ただし、拾った人間が自分のものにしなければ、です」

「自分のものにする?」

「前の住人の音を、自分の音だと思う。前の住人の紙を、自分への知らせだと思う。誰かの不在を、自分の未来だと思う。そうして拾ったものを、自分の生活に組み込む人がいる」

私は手帳を閉じた。

「赤丸は、そういうものですか」

森下は答えなかった。

点検簿のページに、細い赤い線が付いている。日付の横に小さな印があり、その上から黒いインクで「確認済」と押されていた。赤を消すために、黒を重ねたように見えた。

「この赤い線は誰が付けたんですか」

「私ではありません」

「橘さんですか」

「分かりません」

「カレンダーと同じ筆跡に見えます」

「筆跡を鑑定したわけではないでしょう」

「見れば分かることがあります」

「見たものを、分かったことにしないでください」

「あなたは、見たものを分からないままにするんですか」

「管理人は、分からないものを分からないまま記録します。分かったふりをして書いた記録は、あとで建物を壊します」

「建物が壊れる?」

「住民が、記録を信じなくなる。掲示板の紙を剥がし、点検日を勝手に変え、苦情を口頭だけで済ませる。そうなると、設備より先に暮らしが壊れます」

森下は、点検簿の端を軽く叩いた。

「ここでは、音も不在も、いったん書類に入れます。書類に入れば、人は少し安心する。怖いものが怖いままでも、欄があれば手順を踏めるからです」

「手順を踏めば、終わるんですか」

「終わったことにできます」

その言葉は、私が自分に使ってきたものと同じだった。

忙しかった。仕方がなかった。確認できなかった。仕事へ行かなければならなかった。手順に従って荷物をまとめ、鍵を返し、次の部屋へ移った。

「三〇五号室は、以前にも同じような記録があるんですか」

「同じような、というのは」

「不在。騒音。紙。急な退去」

森下は点検簿を閉じた。

「三〇五号室は、三〇五号室です」

「答えになっていません」

「部屋番号は答えではありません。場所です」

「場所に何が起きたのかを聞いている」

「場所には、住んでいる人のことが起きます」

「それなら、住人が変われば終わるはずです」

「そう思って、皆さん出ていかれます」

皆さん。

その言葉が、胸の底へ落ちた。

「何人ですか」

「何がですか」

「この部屋から出ていった人は」

「契約書を見れば分かります」

「人数を聞いているんです」

「それは個人情報です」

「あなたは前の住人の名前を知っている。カレンダーも知っている。なのに、人数だけは言えない?」

「名前を知っているのは、退去届に書いてあるからです。人数は、契約の履歴を辿らなければ分からない。調べれば分かることと、今ここで言えることは別です」

「その線引きは、誰のためですか」

「建物のためです」

森下の答えは早かった。

「住民のためではない?」

「建物が保たれなければ、住民も保たれません」

机の奥に、古い掲示物の束があった。クリップで留められた紙の間から、赤い線が何本も覗いている。私は手を伸ばしかけた。

「それは」

森下の声が、初めて私を止めた。

「交換済みの掲示物です」

「見せてください」

「必要ありません」

「赤い線がある」

「見間違いです」

「見間違いではありません」

「相川さん」

森下は私の名前を呼んだ。最後の音を言い切るまでに、わずかな間があった。

「部屋の中にあるものを、全部つなげようとしないでください。つながったように見えるものの中には、ただ重なっているだけのものもあります。日付、音、紙、退去。それぞれ別の出来事です」

「それを別々にしているのは、あなたでしょう」

「別々にしないと、建物は管理できません」

「人間は?」

「人間も、ある程度は同じです」

「ある程度?」

「全部を一つのこととして抱え込んだら、暮らせなくなります」

私は手帳へ目を落とした。

仕事と私生活を分ける。過去と現在を分ける。見たものと感じたものを分ける。そうしておけば、どれも壊れずに済むと思っていた。

けれど、私の手帳には、見覚えのない「不在」が書かれている。

白い紙は机の上にある。

九月十六日の赤丸は、まだ先の日付なのに、夜ごと濃くなっている。

「前の住人は、点検簿を見ましたか」

「見せていません」

「では、どうして赤丸の日付が記録と一致するんです」

「点検カードや掲示板を見れば分かることです」

「彼女は、何を知っていたんですか」

「知っていたかどうかは分かりません」

「あなたは何も分からないと言いながら、彼女が記録していたことは知っている」

「記録が残っていたからです」

「その記録を見たんですね」

森下は沈黙した。

蛍光灯が低く唸った。管理人室の奥で、古い紙の束がわずかに膨らみ、また沈んだ。

「橘さんは、赤丸を付けていました」

森下が言った。

「毎朝、出勤前にカレンダーを見ていた。夜、帰宅すると、同じ場所を見ていた。何か起きた日だけではありません。何も起きなかった日にも、丸を付けることがあった」

「何も起きなかった日に?」

「起きなかったことを確認するためです」

「それは、記録としておかしくないですか」

「おかしくありません。人は、何も起きなかった日をいちばん忘れますから」

「彼女は、何を待っていたんですか」

「待っていたのではないと思います」

「では、何をしていた」

「確かめていた」

「何を」

森下は、閉じた点検簿に手を置いた。

「自分が、自分の生活を続けているかどうかを」

その言葉が、胸の中へ冷たい水のように入ってきた。

自分で起き、仕事へ行き、帰宅し、洗濯をし、郵便受けを開ける。その一つ一つが自分の意思で行われているのか、それとも部屋に残った手順をなぞっているだけなのか。

私はここ数日、毎朝同じ時刻に起き、同じ銘柄の飲み物を買い、帰宅すると鍵、財布、定期を確かめていた。机の上の紙を数え、カレンダーを見上げ、聞こえた音を手帳に書いた。

それを生活と呼んでいた。

「それで、彼女はどうなったんですか」

「退去しました」

「今どこにいるんですか」

「分かりません」

「失踪届は」

森下の目が、点検簿から離れた。

「それは警察へ聞いてください」

「届は出ている?」

「管理人の仕事ではありません」

「でも、あなたは退去届を見た」

「退去届は管理記録です」

「失踪届は?」

「公的な記録です」

「違いは何ですか」

「書いた人間と、書かれた場所が違う」

「それだけですか」

「それだけで、扱いは変わります」

森下は点検簿を引き出しへ戻した。鍵を掛ける音がした。小さな金属音だったが、管理人室の中ではひどく大きく響いた。

「今日のところは、これで終わりです」

「まだ確認したいことがあります」

「十分です」

「私が決めます」

「ここは管理人室です」

森下の声に、初めて硬さが混じった。

「ここで見せられるものには、範囲があります。範囲を越えると、見たものを持ち帰ることになる。持ち帰ったものは、部屋で育ちます」

「何を言っているんですか」

「生活の話です」

「脅しではなく?」

「脅しなら、もっと簡単に言います」

私は椅子から立った。

森下は机の上の鍵束を取り、いつもの順番に並べ直した。大きい鍵から小さい鍵へ。最後に識別札の付いた一本を、指先で押さえる。

私は手帳を開いた。

そこには、赤丸と重なる日付が並んでいた。宅配、回覧、騒音、不在。最後に今日の日付。私はその横に、何も書かなかった。

書けなかった。

管理人室を出ると、廊下の空気が湿っていた。朝の清掃が終わったばかりなのか、床の表面に薄い水分が残っている。靴底が一歩ごとに吸いつき、離れる。エレベーターの機械音が壁を伝い、手すりに触れた指先へ細かな振動を送ってきた。

三階へ戻る前に、私は踊り場の窓のそばで立ち止まった。

外では、建設中の棟が朝の光を受けていた。どれも同じ高さ、同じ窓、同じ外壁を持っている。道路を作業車がゆっくり走り、白い防音壁の向こうで、金属を打つ音が一定の間隔で響いていた。

同じ形の建物が増えていく。

同じ間取りの部屋が増えていく。

同じ設備、同じ掲示、同じ生活の手順が、別々の人間に繰り返される。

私は手帳を開き、書き写した日付を見た。

四月十四日。

五月十六日。

六月十三日。

七月十八日。

八月十五日。

九月十六日。

そして八月二十七日――入居者変更。

日付の列は、赤丸より整っていた。整いすぎていて、誰かが私の手帳を見ながら書いたようだった。

背後で、足音がした。

三つ。

間を置いて、二つ。

私は振り返った。

踊り場には誰もいなかった。

ただ、手すりの上に細い赤い粉が付いている。指で触れると、乾いた粉が皮膚の溝へ入り込んだ。赤鉛筆の芯を削ったときに出る粉に似ている。

私はすぐに手を離した。

下の階でエレベーターの扉が開いた。誰も乗っていない箱が、ゆっくり上がってくる。表示灯が三階で止まり、扉が開く。

中は空だった。

鏡面の壁に、私の姿だけが映っている。

その肩越しに、廊下を横切る影が見えた。

私は振り返らなかった。

影を追えば、何か分かるかもしれない。エレベーターの中を確認し、階段を下り、掲示板を見ればいい。原因と結果を順番に並べれば、少なくとも説明はできる。

だが、足が動かなかった。

追いかけることが、以前にもあったような気がした。

薄暗い廊下。

閉じた扉。

壁の向こうの生活音。

その音が止まったあと、私は何も言わずに荷物をまとめた。

記憶の表面に、別の部屋の白い壁が浮かんだ。壁紙の継ぎ目。床に落ちた水滴。洗濯機の低い振動。玄関の内側に置かれた、誰かの靴。

私は目を閉じた。

思い出せない。

思い出してはいけない。

そう考えたところで、逆に、何かが浮かんだ。

誰かが扉の内側に立っていた。

私は外側にいた。

中から、何度もノックが返ってきた。

私は鍵を持っていた。財布も、定期もあった。三つともあることを確かめて、私は扉を開けなかった。

そのあと、仕事へ行った。

帰宅したとき、部屋は静かだった。

私は何もなかったことにした。

私は目を開けた。

エレベーターの扉は閉じていた。廊下には、私の部屋へ戻るための白い床が伸びている。

三〇五号室の前に立ち、鍵を出した。

鍵、財布、定期。

三つともある。

鍵を回す前に、郵便受けを見た。

蓋は閉じている。

その内側から、紙を押しつけるような音がした。

かすかに、ざらり、と。

私はすぐには開けなかった。

カレンダーの赤丸は、扉の向こうにある。白紙も机の上にある。点検簿の写しは手帳の中にある。

誰かの記録を持ち帰ったつもりだった。

けれど実際には、記録の方が私の生活へ戻ってきていた。

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