第7話 空白の扉

その内側から、紙を押しつけるような音がした。
かすかに、ざらり、と。
私はすぐには郵便受けを開けなかった。鍵を持ったまま、三〇五号室の前に立ち尽くしていた。廊下の照明は白く、床の継ぎ目は昨日と同じ間隔で並んでいる。向かいの三〇六号室の扉にも、エレベーターの表示灯にも、変わったところはない。
それでも、郵便受けの内側には紙がある。
そのことだけが、建物の整った表面からわずかに浮いていた。
私は息を止め、蓋を開けた。
薄いメモ用紙が一枚、底に落ちていた。白紙だった。何も書かれていない。けれど、紙の中央には深い折り目があり、開いたあとも二つ折りの形を忘れていない。指でつまむと、ざらついた繊維が皮膚に引っかかった。
紙の裏も白かった。
私はそれを手にしたまま、鍵を回した。
扉が開く。
部屋の中は暗かった。帰宅時に点けるはずの玄関灯が、なぜか点いていない。私は壁に手を伸ばし、スイッチを押した。蛍光灯が一度だけ明滅し、白い光が廊下へ流れた。
誰もいない。
リビングの机には手帳があり、その横には白紙が一枚置かれている。私は今、郵便受けから取り出した紙を持っている。机の上の紙とは別のものだった。
そう確認しようとした。
しかし、机の上には二枚の白紙があった。
一枚は、昨日から置いていたもの。もう一枚は、いつ置いたのか分からないものだった。
私は玄関で靴を脱がずに立っていた。部屋の空気が、外の廊下より湿っている。洗濯物を乾かしきれないまま畳んだときのような匂いが、壁紙と床のあいだに沈んでいた。
私は郵便受けから出した紙を机へ運び、二枚の紙を並べた。
端を揃える。
同じ大きさに見える。折り目の位置も同じだった。けれど、紙の質感が違う。古い方は繊維が少し膨らみ、新しい方は表面が乾いている。私は一枚ずつ持ち上げ、窓の明かりに透かした。
新しい方の紙には、中央の折り目に沿って、薄い赤色が見えた。
赤鉛筆の粉だった。
私は指先で擦った。赤は消えず、紙の表面に細い線を残した。その線は、カレンダーの日付を囲む丸の一部と同じ太さだった。
郵便受けから出した紙を裏返す。
こちらにも赤い粉があった。
二枚の紙が、同じ手で扱われたものだと分かる。だが、誰の手なのかは分からない。私は自分の指を見た。爪の脇には、以前から落ちない赤い色が残っている。洗っても、擦っても、皮膚の溝に入り込んだ粉だけが消えなかった。
私は手帳を開いた。
日付の欄には、赤丸と関連づけた記録が並んでいる。深夜の洗濯機、郵便受け、掲示板、点検簿。七月十八日には、覚えのない字で「不在」と書かれている。
その下に、今朝までなかった文章が増えていた。
九月十六日――扉を開ける。
私はペンを落とした。
黒いボールペンは机の端に当たり、床へ転がった。家具の少ない部屋では、その音が必要以上に響いた。壁に当たり、廊下へ抜け、少し遅れて戻ってくる。
扉を開ける。
誰が書いたのかは考えなくても分かった。文字の形は私のものだった。横線の長さ、日付の数字の傾き、最後の「る」の払い。何度も見てきた自分の字だった。
私は手帳を閉じた。
閉じたはずなのに、ページの隙間から赤い粉が落ちた。机の上に小さな点が三つ、並んでいる。
私は寝室へ向かった。
廊下を三歩進み、右へ曲がる。いつもの動線だった。寝室の扉は閉まっている。朝、出勤前に開けたままにしたはずだった。布団を畳み、窓を閉め、照明を消した。その記憶はある。
扉の前に立つと、床の継ぎ目に薄い擦れが見えた。
掃除したときにはなかった線だった。
線は扉の下から伸び、部屋の中央へ向かっている。家具を引きずったような跡だが、寝室にはまだベッドしかない。ベッドは壁際に置いてある。動かした覚えはない。
私はドアノブに手をかけた。
金属の冷たさが、指の腹に貼りついた。
回す。
扉は、抵抗なく開いた。
誰かが立っている気配はなかった。代わりに、押し戻されたばかりの空気が、部屋の奥から廊下へ流れてきた。冷たいわけではない。肌に触れたあと、そこに残る湿りだけが異様だった。
布団の端が乱れている。
私は朝、端をきっちり揃えた。枕の位置も、壁から十五センチ離した。寝具の向きは、窓から入る光が顔に直接当たらないように決めている。
今は、枕が反対向きになっていた。
私は部屋へ入った。足の裏に、床の冷たさが伝わる。ベッドの下を覗く。何もない。収納箱も、靴も、誰かの忘れ物もない。
ただ、床の上に細い赤線が伸びていた。
赤線はベッドの脇から始まり、窓の下を通り、壁際で途切れている。丸を描こうとした途中で、手を止めたような線だった。
私はしゃがみ込み、指先で触れた。
粉は乾いていた。
赤鉛筆で床に印を付けたのではない。誰かが紙の上で何度も線を引き、その粉が落ちたような跡だった。私は線の先を目で追った。
壁の継ぎ目に、紙の端が挟まっている。
壁紙と床の境目を、細い紙片が縫うように塞いでいた。私は爪を立て、慎重に引き抜いた。紙は簡単には抜けなかった。誰かが意図的に押し込んだように、奥へ食い込んでいる。
引くたび、紙の繊維が裂ける音がした。
私は途中で手を止めた。
紙を破ってはいけない気がした。壊してしまえば、読めないものが読めなくなる。そう考えたことに、自分で気づいた。
私は何を読もうとしているのか。
文字のない紙を。
何も書かれていない折り目を。
他人の生活の中に残された、空白を。
それらを読むことが、いまの私の生活になっていた。
私は紙片をさらに引いた。
ようやく抜けた。
長さは十センチほどだった。表面には文字がない。だが中央に、爪で強く押したような凹みがいくつも残っている。指でなぞると、かすかに数字の形が分かった。
七。
一。
八。
十六。
私は息を吐いた。
七月十八日と、九月十六日。
どちらも、私の手帳にある。
前者には「不在」と書かれている。後者には「扉を開ける」と書かれている。
私は紙片を床へ置いた。
その瞬間、部屋の外で郵便受けが鳴った。
一度。

間を置いて、もう一度。
私は寝室の中で動かなかった。
玄関までの距離は六歩。いつもなら、歩数を確認しながら進めば落ち着く。机から玄関まで六歩。玄関から洗濯機置き場まで四歩。寝室からカレンダーまでは三歩。
数字にすれば、部屋は扱える。
けれど今は、足を動かす前から、六歩先にあるものが分かってしまう気がした。
郵便受けの蓋が、三度目に鳴った。
私は部屋を出た。
廊下を歩くたび、床が小さく軋む。玄関に着くと、チェーンが掛かっていることを確認した。鍵も、財布も、定期もある。いつもの確認をした。三つともある。
その確認が終わったとき、チェーンの金具がわずかに揺れた。
誰かが外側から扉を押したように見えた。
私は息を止め、覗き穴へ目を近づけた。
廊下には誰もいなかった。
ただ、遠くのエレベーター前で影が横切った。人の胴体ほどの高さに、黒い帯が一つ流れ、壁の角へ吸い込まれていく。足音は聞こえなかった。
私は扉を開けなかった。
影を追えば、何か分かるかもしれない。廊下へ出て、エレベーターの中を確認し、階段を下り、掲示板を見ればいい。そうすれば、原因と結果を順番に並べられる。
だが、足は動かなかった。
追いかけることが、以前にもあったような気がした。
薄暗い廊下。
閉じた扉。
誰かの生活音。
その音が止まったあと、私は何も言わずに荷物をまとめた。
記憶の表面に、別の部屋の白い壁が浮かんだ。壁紙の継ぎ目。床に落ちた水滴。洗濯機の低い振動。玄関に置かれた、誰かの靴。
私は目を閉じた。
思い出せない。
思い出してはいけない。
そう考えたところで、逆に、何かを思い出した。
誰かが玄関の内側に立っていた。
私は扉の外側にいた。
中から、何度もノックが返ってきた。
私は鍵を持っていた。財布も、定期もあった。三つともあることを確かめて、私は扉を開けなかった。
そのあと、仕事へ行った。
帰宅したとき、部屋は静かだった。
私は何もなかったことにした。
胸の奥に浮かんだ映像は、すぐに消えた。代わりに、現在の廊下の白さが戻ってくる。
郵便受けの音は、もう止まっていた。
私は扉を開けた。
外には誰もいない。
郵便受けの蓋だけが、少し開いている。私は手を伸ばし、白紙を取り出した。紙の上には何もない。けれど、手のひらに触れた瞬間、誰かの体温が残っているように感じた。
その紙を、私は捨てなかった。
机へ戻り、手帳の横へ置く。二枚の紙の隣に、三枚目を並べた。
端は揃わない。
私は揃えなかった。
玄関脇のカレンダーを見る。
九月十六日の赤丸が、昨夜より濃くなっていた。輪郭の一部が数字からはみ出し、紙の余白へ伸びている。赤鉛筆の線は、日付を囲むためではなく、そこから何かを引き出すために描かれているようだった。
私はカレンダーへ近づいた。
最後のページをめくる。
十月の紙が現れた。まだ何も書かれていない。赤丸もない。私は安堵しかけた。
そのとき、背後で寝室の扉が閉まった。
ゆっくりと、金属のラッチが噛み合う音がした。
私は振り返った。
寝室の扉は閉じている。さっきまで開いていたはずなのに、風はない。部屋の中に誰かいる気配もない。
私はカレンダーから手を離した。
十月の紙に、赤い線が一本だけ浮かんでいた。
日付を囲んではいない。
名前を書くための、横線に見えた。
私は手帳を開いた。ページの下に、見覚えのない文字があった。
相川冬馬。
赤鉛筆で、私の名前が書かれている。
私はしばらく、それを読めなかった。
文字は細く、痩せていて、橘千景の筆跡に似ていた。けれど最後の「馬」の払いだけは、私が書くときの癖に近かった。
寝室の扉の向こうで、布が擦れる音がした。
誰かが、畳んだ衣類を一枚ずつ積み重ねている。
私は玄関の鍵へ手を伸ばした。
出ることはできる。
鍵、財布、定期。三つともある。
扉を開ければ、廊下があり、エレベーターがあり、外へ続く道路がある。駅まで十一分。交番までは歩いて七分。管理人室には森下がいる。佐伯の部屋には、薄い茶色の灯りが点いているかもしれない。
それでも私は、すぐには鍵を回せなかった。
出てしまえば、部屋の中に残されたものを、また誰かのせいにできる。
前の住人のせいに。
建物のせいに。
音と配管と、整いすぎた記録のせいに。
私は扉の前で、右手の親指の腹を擦った。皮膚の溝に残った赤い粉が、少しだけ濃くなる。
寝室の中から、もう一度、布の擦れる音がした。
私は鍵を回さなかった。
代わりに、閉じた寝室の扉へ歩いていった。
今度は、ノックをしなかった。
扉の前に立ち、ドアノブへ手を置く。
冷たい金属が、指の腹に貼りついた。
その感触を、私は以前にも知っていた。 ただ、思い出すことを、ずっと後回しにしていただけだった。
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