6話 管理人室の点検簿

翌日の朝、私は出勤前に管理人室の前で足を止めた。

扉の横に掛けられた小さな時計は、七時二十六分を示している。始業までにはまだ余裕があった。駅まで十一分、電車は八時二分。管理人室に入って話をする時間を含めても、遅刻はしない。

そう計算してから、私は自分がいつの間にか、管理人室へ入ることを予定の一部にしているのに気づいた。

扉の向こうから、紙をめくる音がした。

一枚めくる。間がある。もう一枚。

その間隔が、昨夜、壁の向こうで聞いた布の擦れる音に似ていた。何かを確かめ、戻し、また確かめる。私は右手の親指の腹を擦った。緊張すると無意識にやる癖だった。

ノックを二度した。

「入ります」

返事はなかった。だが、扉の内側で椅子がわずかに軋んだ。私は取っ手に触れた。金属は廊下の空気より冷たく、指の腹に薄く湿りついた。

管理人室の中は、外より乾いていた。

洗剤と紙、それから古い木材と金属の匂いが混じっている。窓がないため、朝なのに部屋の明るさは蛍光灯だけだった。白い光の下で、森下は机に向かい、点検簿を開いていた。鍵束、ボールペン、細い定規、作業用の軍手。すべてが机の右側に揃えられている。鍵の大きさまで順番に並んでいた。

森下は私を見ずに言った。

「出勤前ですか」

「その前に、少し確認したいことがあります」

「確認するなら、要点を」

私は鞄から手帳を出した。白紙は持ってこなかった。部屋に置いてきた。持ち出すと、あれを誰かに見せなければならない気がしたし、見せないまま持っていることにも、別の意味が生まれる気がした。

「洗濯機の音がした時刻、郵便受けに紙が入っていた時刻、掲示板の貼り替え、それとカレンダーの赤丸の日付です。全部、記録と一致しているように見えます」

「見えるだけなら、確認ではありません」

「だから記録を見せてください」

森下はようやく顔を上げた。目の下に薄い影があった。疲れているようにも見えたが、私には、眠らずに何かを待っていた人の顔に見えた。

「管理記録は、住民に見せるためのものではありません」

「共有部分の点検記録でしょう。私の部屋の設備も含まれている」

「設備の記録は、設備のためにあります」

「人の出入りや苦情も?」

森下の指が、点検簿の端で止まった。

「あなたは、設備の話をしていませんね」

「最初からしていません」

私がそう言うと、森下は机の引き出しを開けた。中には、輪ゴムで束ねた書類と、交換済みの掲示物の控えが入っている。紙の角がひどく揃っていて、逆に誰かが何度も整え直した跡のように見えた。

森下は一番下から、灰色の表紙の点検簿を出した。

「見せるだけです。撮影はしないでください」

「理由は?」

「記録の写しが別の場所で増えるからです」

「増えて困るんですか」

「同じ記録が二つあると、どちらが元か分からなくなる」

森下は点検簿を机の中央へ置いた。表紙は手垢で黒ずみ、角が丸くなっている。背表紙には、年度と建物名が油性ペンで記されていた。私は椅子を引き、机の前に座った。

椅子の脚が床を擦った。

その音は、管理人室の壁に吸い込まれず、低く返ってきた。私は反射的に壁の継ぎ目を見た。薄いクロスの下に、細い線が走っている。部屋の奥へ向かって伸び、点検口の近くで消えていた。

「古い建物ではないですよね」

「竣工から三年です」

「この記録は、いつから?」

「入居開始の前からあります」

「建物ができる前の記録ですか」

「工事中の点検も記録します。配管、電気、排水、共用部。建物は住民が入る前から不具合を持ちます」

森下は点検簿を開いた。

最初の数ページは、設備の検査結果だった。配管の圧力、非常灯、排水の流れ、エレベーターの停止位置。数字と判定が並んでいる。どの項目にも「異常なし」と書かれていた。

その後ろから、住民が入居したあとの記録になる。

私は日付を追った。

最初に目についたのは、二〇五号室の郵便受けの不具合だった。蓋の戻りが遅い。部品交換。対応済み。

次に、五〇二号室の深夜騒音。洗濯機の振動。住民へ注意。解決。

七〇一号室、長期不在。点検カード投函。連絡なし。

四〇六号室、退去確認。残置物なし。

いずれも短い。問題が起き、誰かが対応し、最後に処理済みの印が押されている。文章の端が丸められていて、出来事の尖った部分だけが最初から存在しなかったようだった。

「同じ部屋で、何度も退去があるんですか」

私が尋ねると、森下は点検簿のページをめくった。

「入れ替わりはあります」

「二〇五号室、五〇二号室、七〇一号室。退去理由が全部、残っていない」

「退去理由は管理記録に必要ありません」

「では、何が必要なんですか」

「退去日、鍵の返却、残置物の有無。次の入居者が困らないための情報です」

「次の入居者が、前の住人に何があったか知る必要はない?」

「知っても、部屋は変わりません」

「知れば、住み方を変えられるかもしれない」

森下は少しだけ目を細めた。

「住み方を変えれば、何かを避けられると思いますか」

その質問には答えなかった。

森下はページの端を指で押さえ、私の部屋の記録を探した。紙の擦れる音が、狭い室内に続く。三〇五号室。入居時の設備確認、換気扇の作動、給湯器、排水、鍵の受け渡し。

そして、前年の欄。

五月十六日、宅配ボックス関連の投函。

六月十三日、自治会回覧未返却。

七月十八日、夜間騒音に関する苦情。

八月十五日、居住者不在。室内確認延期。

私は息を止めた。

カレンダーの赤丸と、記録の日付が重なっている。しかも、単なる予定ではない。何かが起きた日、何かが届かなかった日、誰かがいなかった日が、赤い輪の内側に並んでいた。

「八月十五日の室内確認延期というのは?」

「確認できなかった、ということです」

「なぜ」

「不在だったからです」

「その日に、橘千景さんは部屋にいなかった」

「記録上は」

「記録上ではなく、実際には?」

森下は私を見た。

「記録にないことを、実際という言葉で補うのは危険です」

「では、あなたは何を見たんですか」

「見ていません」

「見ていないのに、不在だと書いた?」

「点検カードが投函され、応答がなかった。だから不在です」

「人がいないことと、応答しないことは違う」

「違います」

「分かっているなら、なぜ同じ欄に入れるんです」

声が荒くなりそうだった。私は喉の奥で言葉を押し戻した。怒鳴れば、相手の言葉を引き出せるわけではない。感情を見せたら、私の話は「感情的な住民の苦情」という欄に入れられる。

森下は、私が黙るのを待っていた。

「記録は、事実を残すものではありません」

「違うんですか」

「事実を扱える形にして残すものです。人がいるかいないかは、管理人には確認できないことがある。応答があったか、鍵が開いたか、点検できたか。そういうものなら書ける」

「書けないことは、なかったことになる」

「なかったことにはなりません」

「でも、記録からは消える」

「消えるのではなく、記録の外に置かれる」

「それは同じです」

「違います。外に置かれたものは、誰かが拾えば戻せる」

森下の声は低かった。普段よりわずかに長く話している。そのことが、かえって不気味だった。

「ただし、拾った人間が自分のものにしなければ、です」

「自分のものにする?」

「前の住人の音を、自分の音だと思う。前の住人の紙を、自分への知らせだと思う。誰かの不在を、自分の未来だと思う。そうやって拾ったものを、自分の生活に組み込む人がいる」

私は手帳を閉じた。

「赤丸は、そういうものですか」

森下は答えなかった。

点検簿のページに、細い赤い線が付いている。誰かが赤鉛筆で引いたのだろう。日付の横に小さな印があり、その印の上から黒いインクで「確認済」と押されていた。赤を消すために、黒を重ねたように見える。

「この赤い線は、誰が付けたんですか」

「私ではありません」

「橘さんですか」

「分かりません」

「カレンダーと同じ筆跡に見えます」

「筆跡を鑑定したわけではないでしょう」

「見れば分かることがあります」

「見たものを、分かったことにしないでください」

「あなたは、見たものを分からないままにするんですか」

「管理人は、分からないものを分からないまま記録します。分かったふりをして書いた記録は、あとで建物を壊します」

森下は、私の部屋の欄を指先で叩いた。

軽い音だった。

一度、二度。

その音の間隔に、私はどこかで聞いたものを重ねてしまった。郵便受けの蓋が閉じる音。佐伯の足音。洗濯機の停止後に残る振動。

「三〇五号室は、以前にも同じような記録があるんですか」

「同じような、というのは」

「不在。騒音。紙。急な退去」

森下は点検簿を閉じた。

表紙が机に触れ、乾いた音がした。外の廊下で、清掃用カートの車輪が通り過ぎる。誰かが歩いている気配はあるのに、扉の向こうに影は見えなかった。

「三〇五号室は、三〇五号室です」

「答えになっていません」

「部屋番号は、答えではありません。場所です」

「場所に何が起きたのかを聞いている」

「場所には、住んでいる人のことが起きます」

「それなら、住人が変われば終わるはずです」

「そう思って、皆さん出ていかれます」

皆さん。

その言葉が、ひどく重く落ちた。

「何人ですか」

「何がですか」

「この部屋から出ていった人は」

「契約書を見れば分かります」

「人数を聞いているんです」

「それは個人情報です」

「あなたは、私の部屋に残ったカレンダーの日付を知っている。前の住人の名前も知っている。なのに、人数だけは言えない?」

「名前を知っているのは、退去届に書いてあるからです。人数は、契約の履歴を辿らなければ分からない。調べれば分かることと、今ここで言えることは別です」

事務的な言葉だった。けれど、その線引きは、私を守るためではなく、建物の形を守るために引かれているように感じた。

私は立ち上がった。

「点検簿の写しをください」

「できません」

「さっきは見せるだけと言った」

「見せることと、持ち出させることは違います」

「では、ここで書き写していいですか」

森下はしばらく私を見た。やがて、机の上の黒いボールペンを私の側へ押し出した。

「必要なものだけにしてください」

私は自分のペンを出した。森下のものには触れなかった。

日付と内容を、手帳へ書き写す。

五月十六日――宅配ボックス投函。

六月十三日――回覧未返却。

七月十八日――夜間騒音。

八月十五日――居住者不在、室内確認延期。

その下に、次の行があった。

八月二十七日――入居者変更、三〇五号室。

今日の日付だった。

私はペン先を止めた。

「この記録は、いつ書かれたんですか」

森下は答えなかった。

「今日の日付が、もう入っている」

「入居者変更の予定は、前もって記録します」

「私が入る前から?」

「鍵の引き渡し日が決まっていれば」

「この点検簿には、予定を書いているんですか。起きたことを書くんじゃなくて?」

「管理記録は、予定と結果の両方を扱います」

「では、この赤い線は予定ですか」

私は点検簿の端を指した。

森下の指が、机の下でわずかに動いた。

「赤い線は、私の記録ではありません」

「誰のものかは分からない」

「分かりません」

「でも、日付は合っている」

「日付が合うことは、意味があるとは限りません」

「意味がないのに、残っている?」

森下は、ゆっくりと点検簿を閉じた。

「残るものに、意味があるとは限りません。意味を与えられたものが、残ることもあります」

「誰が与えるんですか」

「見つけた人です」

私は返事をしなかった。

机の隅に、古い掲示物の束があった。クリップで留められた紙の間から、赤い線が何本も覗いている。私は手を伸ばしかけた。

「それは」

森下の声が、初めて私を制した。

短い声だった。強くはない。それでも、私は手を止めた。

「交換済みの掲示物です」

「見せてください」

「必要ありません」

「赤い線がある」

「見間違いです」

「見間違いではありません」

「相川さん」

森下は私の名前を呼んだ。最後まで言い切るまでに、わずかな間があった。

「部屋の中にあるものを、全部つなげようとしないでください。つながったように見えるものの中には、ただ重なっているだけのものもあります。日付、音、紙、退去。それぞれ別の出来事です」

「それを別々にしているのは、あなたでしょう」

「別々にしないと、建物は管理できません」

「人間は?」

「人間も、ある程度は同じです」

「ある程度?」

「全部を一つのこととして抱え込んだら、暮らせなくなります」

森下の言葉は、私が自分に言い聞かせてきたものと似ていた。

仕事と私生活を分ける。過去と現在を分ける。見たものと感じたものを分ける。そうしておけば、どれも壊れずに済むと思っていた。

けれど、私の手帳には、見覚えのない「不在」が書かれている。

白い紙は、机の上にある。

九月十六日の赤丸は、まだ先の日付なのに、夜ごと濃くなっている。

「前の住人は、点検簿を見ましたか」

「見せていません」

「では、どうして赤丸の日付が記録と一致するんです」

「点検カードや掲示板を見れば、分かることです」

「彼女は、何を知っていたんですか」

「知っていたかどうかは分かりません」

「あなたは何も分からないと言いながら、彼女の記録のことは知っている」

「記録が残っていたからです」

「その記録を、見たんですね」

森下は沈黙した。

蛍光灯が低く唸った。管理人室の壁の向こうで、水が配管を通る音がした。細い水音が上から下へ落ちていき、床の下で一度だけ膨らんだ。

「橘さんは、赤丸を付けていました」

森下が言った。

声は先ほどよりも乾いていた。

「毎朝、出勤前にカレンダーを見ていた。夜、帰宅すると、同じ場所を見ていた。何か起きた日だけではありません。何も起きなかった日にも、丸を付けることがあった」

「何も起きなかった日にも?」

「起きなかったことを確認するためです」

「それは、記録としておかしくないですか」

「おかしくありません。人は、何も起きなかった日をいちばん忘れますから」

私は森下を見た。

「彼女は何を待っていたんですか」

「待っていたのではないと思います」

「では、何をしていた」

「確かめていた」

「何を」

森下は、机の上の点検簿に手を置いた。

「自分が、自分の生活を続けているかどうかを」

その言葉が、胸の中へ冷たい水のように入ってきた。

自分で起き、仕事へ行き、帰宅し、洗濯をし、郵便受けを開ける。その一つ一つが自分の意思で行われているのか、それとも部屋に残った手順をなぞっているだけなのか。私はここ数日、何度も同じ順番で鍵を確かめ、紙を数え、カレンダーを見上げていた。

それを生活と呼んでいた。

「それで、彼女はどうなったんですか」

「退去しました」

「今どこにいるんですか」

「分かりません」

「失踪届は」

森下の目が、点検簿から離れた。

「それは警察へ聞いてください」

「届は出ている?」

「管理人の仕事ではありません」

「でも、あなたは退去届を見た」

「退去届は管理記録です」

「失踪届は?」

「公的な記録です」

「違いは何ですか」

「書いた人間と、書かれた場所が違う」

「それだけですか」

「それだけで、扱いは変わります」

森下は点検簿を引き出しへ戻した。鍵を掛ける音がした。小さな金属音だったが、管理人室の中ではひどく大きく響いた。

「今日のところは、これで終わりです」

「まだ書き写しが終わっていません」

「十分です」

「あなたが決めることではない」

「ここは管理人室です」

初めて、森下の言葉に硬さが混じった。

「ここで見せられるものには、範囲があります。範囲を越えると、見たものを持ち帰ることになる。持ち帰ったものは、部屋で育ちます」

「何を言っているんですか」

「生活の話です」

「脅しではなく?」

「脅しなら、もっと簡単に言います」

森下は鍵束を取り上げ、いつもの順番に並べ直した。大きい鍵から小さい鍵へ。最後に、識別札の付いた一本を指で押さえる。

私は手帳のページを閉じた。

そこには日付が並んでいた。赤丸と重なる日付。苦情、不在、投函、予定。最後に今日の日付。その横に、私は何も書いていない。

書けなかった。

管理人室を出ると、廊下の空気が湿っていた。朝の清掃が終わったばかりなのか、床の表面に薄い水分が残っている。靴底が一歩ごとに吸いつき、離れる。廊下の奥では、エレベーターが上昇していた。機械音が壁の中を伝い、手すりに触れた私の指先へ細かな振動が届く。

三階へ戻るつもりで、私は途中の踊り場に出た。

窓から、再開発地区の街が見えた。まだ空き地の多い道路を、作業車が一台、ゆっくり走っている。白い防音壁の向こうに、建設中の建物が並び、どれも同じ高さ、同じ窓、同じ外壁を持っていた。

同じ形の建物が増えていく。

同じ間取りの部屋が増えていく。

同じ設備、同じ掲示、同じ生活の手順が、別々の人間に繰り返される。

私は手帳を開き、森下から写した日付をもう一度見た。

四月十四日。

五月十六日。

六月十三日。

七月十八日。

八月十五日。

九月十六日。

そして八月二十七日――入居者変更。

日付の列は、赤丸のついたカレンダーよりも整っていた。整いすぎていて、誰かが私の手帳を見ながら書いたようだった。

そのとき、背後で足音がした。

三つ。

間を置いて、二つ。

私は振り返った。

踊り場には誰もいなかった。

ただ、階段の手すりに細い赤い粉が付いていた。指で触れると、乾いた粉が皮膚の溝へ入り込む。赤鉛筆の芯を削ったときに出る粉に似ていた。

私は手を離した。

エレベーターの扉が開く音が、下の階から響いた。続いて、誰も乗っていない箱が上がってくる。表示灯が三階で止まり、扉が開く。

中は空だった。

鏡面の壁に、私の姿だけが映っている。

その肩越しに、廊下を横切る影が見えた。

振り返るより先に、影は消えた。

私はエレベーターに乗らず、階段を上った。手すりの冷たさが掌に貼りつき、赤い粉が指の付け根へ移る。三階までの階段は、いつもなら十七段だった。けれどその日は、途中で一段多くなったように感じた。

十七段目を踏んだはずなのに、踊り場へ着かない。

もう一段、同じ高さの段が残っている。

私は足を止めた。

目の前にあるのは、確かに階段だった。白い壁、金属の手すり、非常灯。どこにも異常はない。私は数え直した。

一、二、三、四。

段差は、いつもの数に戻っていた。

管理人室で書き写した日付が、手帳の中で紙を擦る。

私は三〇五号室の前に立ち、鍵を出した。鍵、財布、定期。三つを確認する。三つともある。

鍵を回す前に、郵便受けを見た。

蓋は閉まっていた。

その内側から、紙を押しつけるような音がした。

かすかに、ざらり、と。

私はすぐには開けなかった。

カレンダーの赤丸は、扉の向こうにある。白紙も、机の上にある。点検簿の写しは、手帳の中にある。

誰かの記録を持ち帰ったつもりだった。

けれど実際には、記録の方が私の生活へ戻ってきていた。

← 横にスクロールして読み進められます

管理人室の点検簿 - 赤丸の継ぎ目 - 誰でも作家life