5話 郵便受けの中の紙

その日、会社を出たのは午後八時を過ぎてからだった。

駅からの帰り道、再開発地区の街路灯はどれも同じ間隔で並び、同じ角度で影を落としている。私はその等間隔さに、いつも少しだけ安堵していた。乱れのないものは、扱いやすい。夕凪レジデンスのエントランスに着き、自動扉が開いたとき、白い光の中に伸びる自分の影を見て、私はようやく一日の終わりを実感した。

三階へ上がり、305号室の前に立つ。

鍵、財布、定期。指先で順に確かめる。三つともある。それだけで、肩の力がわずかに抜けた。鍵穴に差し込もうとした、そのときだった。

薄い金属音がした。

乾いていて、短く、爪先で弾いたような音。郵便受けの蓋が、外側から一度だけ持ち上がり、また戻る音だった。私は覗き穴から廊下を見た。誰もいない。向かいの三〇六号室の扉も閉まったままで、エレベーターの表示灯は消えている。

私は郵便受けの蓋に手をかけた。

金属は夜気を吸って冷たく、指の腹に張りつくようだった。開けると、中には白い紙が一枚、折り畳まれて落ちていた。封筒でも、宅配業者の不在票でもない。宛名もなければ、社名の印字もない。ただ紙が一枚、几帳面に一度だけ折られて、そこにあった。

つまみ上げると、端がわずかに波打っている。指先に伝わったのは、新しいコピー用紙の滑らかさではなく、湿気を含んで乾いた紙特有の、ざらついた繊維の感触だった。誰かの指の脂が、そこに染み込んでいるような気がした。私は反射的に鼻先へ近づけた。匂いはほとんどない。ただ、洗濯物を室内に長く干したときのような、乾ききらない布の気配が奥にかすかにあった。

部屋へ入り、玄関脇のカレンダーを見上げる。

九月十六日。赤丸の内側にある黒い点は、昨日よりわずかに濃くなっているように見えた。私は手帳を開き、時刻を確認した。紙が届いた時刻と、私がその日に感じていた胸騒ぎを書きつけた時刻とが、ほとんど重なっている。偶然だと片づけるには、あまりにも符牒が合いすぎていた。

翌朝、私はエントランス脇の掲示板に立ち寄った。

規約更新、停電点検、宅配ボックスの案内、自治会回覧――紙の並びは、前日に見たものと微妙に違っていた。停電点検の紙が一枚、別の紙の背後に滑り込むようにずれている。自治会回覧の端には、見覚えのない貼り直しの跡があった。それだけで、胸の内側が冷たくなった。掲示板に貼られた紙は、この建物に住む人々の生活の順番そのものだ。順番が変わるということは、誰かの生活が、少しだけ別のものに置き換わったということではないのか。

「紙、見ましたか」

背後から声がした。森下だった。清掃用の手袋をつけたまま、いつのまにか私の後ろに立っていた。私は思わず、手にした白い紙を握りしめた。

「これですか」

森下は一拍置いた。視線は紙ではなく、私の右手の方に落ちていた。

「郵便受けに入っていました。宛名も、文字も、何もありません」

「拾得物として扱うか、設備の不具合として扱うか、他人の投函物として扱うか――どれで届け出るかによって、記録の形が変わります」

「紙一枚に、そこまでの区別が必要なんですか」

「必要です。名前のないものを、名前のある記録に押し込むと、あとで必ず合わなくなる。だから、名前のないものは、名前のないまま扱わなければならない」

「では、これは誰のものでもないと?」

「今の段階では、そうとしか言えません」

私は森下の顔を見た。愛想のない、皺の深い顔だった。だがその奥に、何かを守るための緊張があるのを、私は初めて見て取った気がした。

「森下さんは、この部屋で以前何が起きたか、知っているんですか」

森下はすぐには答えなかった。掲示板のガラスに、朝の光が白く反射していた。

「相川さん。私はこの建物で、何度も同じようなことを見てきました。急な退去、深夜の物音、届いた覚えのない紙。そのたびに、住んでいる人は同じことを言うんです。これは前の住人の跡だ、自分には関係ない、と」

「違うんですか」

「跡というのは、残そうとして残るものと、残るべくして残るものがあります。前の方――橘千景さんは、後者でした」

初めて、森下の口から千景の名が出た。

「あの人は、何かに気づいていたんですか」

「気づいていた、というより、気づかされていた、と言うべきかもしれません。あの人は毎晩、部屋の中で起きることを記録していました。物の位置、音の時刻、天気まで。まるで、自分の生活が自分のものでなくなっていくのを、せめて紙の上だけでも繋ぎ止めようとするように」

「その記録は、今どこに」

「知りません。少なくとも、管理人室にはありません」

森下はそこで言葉を切り、私の手にある白紙へ視線を戻した。

「相川さん。その紙は、部屋に置いておいてください。捨てるなら今夜のうちに。もし残すなら、いつどこで見つけたかを、紙の裏には書かないことです」

「なぜ書いてはいけないんですか」

「書けば、それは次の記録になる。次の記録は、次に住む誰かが読むものになります」

その言葉は、私の中で静かに沈んでいった。次に住む誰か、という言葉が、まるで私自身がすでにこの部屋を出たあとの誰かであるかのように響いたからだ。

その夜、私は紙を机に置いたまま、赤丸の日付を一つずつ指でなぞった。四月、五月、六月、七月、八月――どの日にも、配達、点検、不在、苦情のいずれかが連なっている。この紙は、そのどれとも違う。文字のない、受け取りだけの痕跡だった。誰かがここへ来て、何も残さずに帰っていった。その事実だけが、指先の記憶のように、いつまでも消えずに残っていた。

窓の外で、電車の音が遠くを通り過ぎていく。私は紙の折り目にもう一度指を這わせ、そこに何かが書かれていないかを、無意味だと知りながら確かめ続けていた。

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郵便受けの中の紙 - 赤丸の継ぎ目 - 誰でも作家life