4話 深夜の洗濯機

翌週の木曜日、私は帰宅してすぐ、玄関の前で足を止めた。

郵便受けが鳴った。

薄い金属音だった。蓋が開き、何かが差し込まれ、手を離されたあとに戻る音。短く、乾いていて、途中にわずかな間がある。あの音は、以前から何度も聞いていた。けれど、実際に聞くたび、誰かが私の部屋の前で立ち止まった時間まで含んでいるように思えた。

私は鍵、財布、定期に触れた。

三つともある。

ドアノブへ手を伸ばしかけて、そのまま郵便受けを見た。玄関扉の外側にある小さな蓋は閉じている。廊下には誰もいない。向かいの三〇六号室の前にも、エレベーターの前にも人影はなかった。

私は息を一度だけ止めてから、蓋を開けた。

白い紙が一枚、底に落ちていた。

封筒ではない。広告でも、宅配業者の不在票でもない。何も書かれていない紙だった。中央に一度折った跡があり、その折り目は開かれたあとも、紙を二つに戻そうとするように深く残っている。

指でつまみ上げると、紙の端が皮膚に引っかかった。

ざらり、とした感触だった。

新しいコピー用紙のような滑らかさがない。湿気を吸って乾いた紙の、少し膨らんだ繊維。点検カード入れに差さっていた古いカードと同じ手触りだった。私は紙を鼻に近づけた。匂いはほとんどない。ただ、洗濯物を長く室内に干したときのような、乾ききらない布の気配がわずかに残っていた。

私は紙を裏返した。

何もない。

表も、裏も、白い。

名前がないものは扱いやすい。宛先がなければ配達物ではない。文字がなければ記録にもならない。そう考えれば、これはただのごみだった。私はその場で丸めて捨てようとした。

しかし、指が紙を折り目に沿ってなぞっていた。

折り方がきれいだった。紙の端と端がきちんと重なっている。急いで折ったものではない。角を合わせ、指の腹で線を押さえ、何度か開いて確かめた跡がある。誰かが、何も書かれていない紙を、何も書かれていないまま残すために、手間をかけて折った。

そのことが、私には理解できなかった。

理解できないものを放置するのが嫌だった。私は紙を持ったまま、エントランスへ降りた。

エレベーターの中は、誰かの傘の湿った匂いがした。鏡面の壁には、私の手にある白紙が映っている。自分のものではない紙を持っている姿だけが、実際よりもはっきり見えた。

一階に着くと、エントランスには管理人室の蛍光灯が点いていた。掲示板の前に森下が立ち、貼り紙の端を押さえていた。作業着の胸ポケットから細い定規を出し、紙の下辺と掲示板の枠の距離を測っている。

「森下さん」

呼ぶと、森下は振り返った。すぐにはこちらを見ず、手元の定規を掲示板の脇へ戻した。道具を所定の位置へしまってから、私の顔を見た。

「何ですか」

「郵便受けに、これが入っていました」

紙を差し出す。

森下は受け取らなかった。紙の中央にある折り目を見て、それから私の指先を見た。

「どの部屋ですか」

「三〇五です」

「入っていた時刻は」

「今です。十九時二十七分」

私は反射的にスマートフォンの画面を確認した。十九時二十八分になっている。郵便受けの音を聞いたのは、その一分前だった。

「音がして、すぐ開けました」

「誰かは見ましたか」

「見ていません。開けたときには、もう廊下に誰もいなかった」

「では、投函した人は確認できない」

「そうなります」

森下は紙を見ながら、低い声で言った。

「紙には触らない方がいい」

「もう触っています」

「そうですか」

「この紙は何ですか」

「分かりません」

「管理会社のものではない?」

「少なくとも、通常の投函物ではありません」

「通常ではないなら、なおさら確認する必要があるでしょう」

「確認するには、届け出が必要です。拾得物として扱うのか、郵便受けの不具合として扱うのか、他人の投函物として扱うのか。それぞれ記録が違います」

「紙一枚に、そんな区別が必要ですか」

「紙一枚だから必要なんです。名前も日付もないものは、どこに置いても記録から外れる。外れたものは、あとから誰のものにもできません」

森下の言葉に、私は紙を握る指へ力を込めた。紙がわずかに鳴った。

「誰のものでもないなら、捨てていいんじゃないですか」

「そう思うなら、部屋のゴミ箱へ」

「あなたは捨てろと言わない」

「私が決めることではありません」

「でも、あなたは何か知っている」

森下はしばらく黙った。掲示板の透明なカバーに、エントランスの照明が白く反射している。外では自動扉が開き、冷えた夜気と車の走行音が流れ込んだ。植栽の土は昼間の熱を失い、湿った匂いを強くしていた。

「相川さんは、部屋の中にあるものを全部、原因のあるものとして見ようとしています」

「原因はあるでしょう」

「あります。投函された紙には、投函した人がいる。洗濯機の音には、回した人がいる。カレンダーの丸には、付けた人がいる。そこまではいい」

「その先は?」

「原因を追ううちに、自分がしたことまで他人のせいにしたくなる人がいます」

「私はそんなことはしません」

「まだ、そうでしょう」

「今の話と、白い紙に何の関係があるんですか」

「分かりません。分からないから、触らない方がいいと言いました」

「分からないものを、触らずにどうやって確かめるんです」

「確かめないという選択もあります」

「気にしないで暮らせということですか」

声が少し大きくなった。掲示板のガラスが、遅れて私の声を返した。

森下は怒らなかった。作業用手袋の指先を一本ずつ伸ばし、皺を直している。

「暮らすためには、気にしないことも必要です。全部を確認して、全部を記録して、全部に意味を与えると、部屋の中に空白がなくなる。空白がなくなると、人は休めません」

「空白がある方が、私は休めない」

「そういう人もいます」

「森下さんは、空白を残す方ですか」

「残すのではありません。残ったものを、残ったままにしておく」

「それは同じです」

「違います。自分で残したのか、残されたのかで、責任が変わる」

森下の手が止まった。

「前の住人も、紙を見つけるたびに意味を探していました」

初めて、前の住人という言葉が森下の口から出た。

「橘千景さんのことですか」

森下は返事をしなかった。だが沈黙の長さが、否定ではないことを示していた。

「名前を知っているんですね」

「退去届に書いてあります」

「急にいなくなったと聞きました」

「退去の手続きは済んでいます」

「姿を消したという意味では?」

「契約上は、退去です」

「それは質問への答えになっていない」

「質問が二つあるからです。退去したかどうかと、姿を消したかどうかは違います」

「あなたは、その違いを知っている」

「管理人は、知っていても言わないことがあります」

「なぜですか」

「言葉にしたものは、誰かの生活へ入ってしまうからです。記録に残せば、次の人が読む。読んだ人は、自分の部屋で同じものを探す。見つからなくても、探し続ける。そうして、何もなかった場所にまで跡ができる」

森下は私の手の中の紙を見た。

「その紙を持って部屋へ戻ってください。捨てるなら、今夜のうちに。残すなら、いつ、どこで見つけたかを紙の裏に書かないことです」

「書いてはいけない理由は?」

「書けば、次の記録になります」

「次の記録になると、何が起きるんですか」

「次の人が、それを読む」

森下はそれだけ言うと、掲示板の方へ向き直った。

会話を終わらせるための姿勢だった。私はまだ聞きたいことがあったが、これ以上ここに立っていても、森下は同じ言葉を別の順番で返すだけだと分かった。

エントランスの掲示板には、自治会の回覧に関する注意書きが貼られていた。

回覧板は、各戸で三日以上止めないこと。

確認後は、次の住戸へ速やかに回すこと。

暮らしの中で何かを受け取ったら、抱え込まず、次へ渡す。そういう規則だった。私は白紙を見下ろした。これも、誰かから誰かへ渡るために作られたものなのかもしれない。

部屋へ戻ると、カレンダーの九月十六日が目に入った。

赤丸の内側にあった黒い点が、少し濃くなっている。

私は紙を机へ置いた。四隅を揃え、手帳の横に並べる。手帳と紙の端は、ぴたりとは合わなかった。紙の方が一ミリほど大きい。私は何度か位置を直したが、どこへ置いても、その一ミリが残った。

気になって、紙の折り目を開いた。

内側にも文字はない。

ただ、中央の線に沿って、赤い粉が細く付着していた。

私は指先でこすった。粉は消えず、白紙の上で薄い筋になった。その筋は、赤丸の線とよく似ていた。私は手を洗い、タオルで拭いた。爪の脇に残った赤は、昨日より落ちにくかった。

その夜、私は洗濯機の記録を手帳に整理した。

二十三時四十八分、回転開始。

〇時十二分、停止。

一時三十七分、再開。

いずれも、音の出どころは特定できない。五階の住戸から聞こえたという佐伯の言葉も、実際に確認したものではない。配管の振動かもしれないし、別の階の機械音が廊下を通っているだけかもしれない。

私はそう書いた。

書いたあと、日付の欄を見た。

音が最も長く続いた夜は、九月十六日だった。

カレンダーの赤丸と同じ日だった。

まだその日は来ていない。

私はペンを置いた。部屋の中は静かだった。冷蔵庫のコンプレッサーが低く唸り、窓の外を車が一台通り過ぎる。タイヤが濡れた路面を擦る音が、遠くで薄くほどけていく。

その静けさの中で、郵便受けが鳴った。

一度。

私は立ち上がらなかった。

続けて、もう一度鳴った。

紙を置いた机から玄関までは、六歩しかない。私は歩数を知っている。部屋の動線を決めるときに測った。机から玄関まで六歩。玄関から洗濯機置き場まで四歩。寝室のベッドからカレンダーまでは、振り返って三歩。

数字にすると、部屋は扱える。

私は三度目の音を待った。

来なかった。

代わりに、廊下の向こうで誰かの足音がした。三つ、間を置いて二つ。以前、佐伯が近づいてきたときと同じ間隔だった。

私は玄関の覗き穴を見た。

白い廊下に、影が横切った。

人の肩ほどの高さに、暗い帯が一つ流れた。足音はしない。影だけが、三〇五号室の前を通り過ぎ、エレベーターの方へ消えた。

私は扉を開けなかった。

そのまま数分、覗き穴から廊下を見ていた。やがてエレベーターの表示灯が点き、三階の数字が赤く浮かぶ。扉が開いた気配はない。表示は一階へ下がり、また三階に戻った。

誰も乗っていないエレベーターが、階を往復していた。

机の上の白紙が、風もないのにわずかに動いた。

私は玄関から離れ、紙の前へ戻った。折り目の内側に、今度は薄い凹みが見えた。文字ではない。けれど、何かを強く書いたあとに残る筆圧の跡だった。紙を裏返しても、表面には何も現れない。指でなぞると、四つの数字の形が分かった。

七。

一。

八。

十六。

私は手帳を開いた。

七月十八日。自分の字で「不在」と書かれていた日付。

そして九月十六日。まだ来ていない赤丸の日。

白紙の凹みは、その二つを同時に示しているように見えた。

私は紙を捨てるため、ゴミ袋を開いた。袋の中には、コンビニの弁当の容器と、洗ったペットボトルが入っている。生活を終えたものが、種類ごとに分けられている。私は紙を丸めかけた。

そのとき、紙の折り目の端から、細い黒い繊維が一本出ているのに気づいた。

赤ではない。

黒いボールペンのインクが、紙の中へ染み込んだ跡だった。

私はその線を見つめた。私が使っている細い黒いボールペンと、同じ幅の線だった。

ゴミ袋の口を閉じた。

紙は捨てなかった。

机へ戻り、手帳の横に置く。今度は端を揃えようとしなかった。揃わないものを揃えようとすると、紙の方へ自分の形を合わせてしまう気がした。

午前二時を過ぎても、洗濯機の音は鳴らなかった。

その代わり、壁の向こうから、衣類を一枚ずつ畳むような小さな擦れが続いていた。布が触れ、離れ、また触れる。規則正しい音だった。

私はベッドへ戻り、目を閉じた。

眠る前に、玄関の鍵を確認する。

財布、定期、鍵。

三つともある。

手帳もある。白い紙もある。

その確認を終えたとき、私は初めて気づいた。

いつからか、私は毎晩、白紙の枚数まで数えていた。机の上に一枚。鞄の中に一枚。郵便受けの奥に残っているかもしれない一枚。

誰かの習慣を記録しているつもりで、私は自分の習慣を増やしていた。

壁の向こうで、洗濯機が回り始めた。

低く、長く、同じ円を描く音だった。

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深夜の洗濯機 - 赤丸の継ぎ目 - 誰でも作家life