第3話 去年のものです

翌朝、私は出勤前にエントランス脇の住民掲示板へ向かった。
確認する必要はなかった。昨日の夜、手帳に書き写した日付と、カレンダーの赤丸の位置はもう覚えている。四月十四日、五月十六日、六月十三日、七月十八日、八月十五日。掲示板に貼られた何かと一致しているかどうかを見たところで、赤丸の意味が分かるわけではない。
それでも、見ないまま会社へ行くことはできなかった。
エントランスは朝の光をうまく取り込めていなかった。自動扉が開くたび、外の白い空が一瞬だけ床に流れ込み、すぐに閉じ込められる。ガラス越しには、出勤する住民や保育園へ向かう親子が行き交っていた。誰もが自分の生活を抱えている。抱えたまま、他人の生活には触れずに通り過ぎていく。
掲示板の前には、昨夜見たときと同じように、何枚もの紙が端を揃えて並んでいた。
管理組合からの規約更新。
今月末の停電点検。
宅配ボックスの利用に関する注意。
自治会の回覧板を各戸で止めないように、というお願い。
その下に、白い紙が一枚だけ斜めに貼られていた。
――深夜の洗濯音について。
文面は丁寧だった。特定の部屋を責める言葉はなく、生活音はお互いさまだという前置きまである。そのうえで、午後十一時以降の洗濯機の使用は控えてほしい、と書かれていた。
私は日付を確認した。
貼付日は、八月十五日。
赤丸と同じだった。
紙の端に指を触れかけて、やめた。掲示板に触る理由がない。私はスマートフォンを取り出して全体を撮影し、続けて一枚ずつ撮った。画面の中で見ると、紙は紙に戻った。赤丸と苦情の間にある気味の悪い重なりも、単なる日付の一致として扱える。
しかし、ほかの丸にも対応するものがあった。
四月十四日には、全館停電点検のお知らせ。
五月十六日には、宅配ボックスの長期保管についての注意。
六月十三日には、自治会回覧の未返却に関する掲示。
七月十八日は、掲示板から一枚の紙が抜き取られた跡だけが残っていた。そこには透明なテープの切れ端が二本、古い皮膚のように貼りついている。
私は手帳を開き、日付の横に内容を書き足した。
四月十四日――停電点検。
五月十六日――宅配。
六月十三日――回覧。
七月十八日――不明。
八月十五日――洗濯音。
書き終えてから、私はペン先を紙から離せなかった。丸の意味を確かめるために記録しているはずなのに、数字が増えるほど、それは私自身の予定表に近づいてくる。
「朝から熱心ですね」
背後から声がした。
振り返ると、森下が清掃用のカートを押して立っていた。濃い灰色の作業着の袖を肘までまくり、片手には使い込まれた軍手を持っている。カートには洗剤のボトルと、交換用のゴミ袋が整然と並んでいた。どれもラベルの向きが揃っている。
「掲示板を見ていただけです」
「掲示は、見たら戻してください」
「戻していません。写真を撮っただけです」
「そうですか」
森下は掲示板へ近づき、私の肩越しに紙の並びを確認した。彼の視線は掲示物を読むというより、紙の重なりやテープの位置を検分しているようだった。
「貼り替えましたか」
「何をですか」
「この紙です。昨日、私はここを通ったとき、停電点検の紙が一番上にあったのを見ました。今は下から二枚目になっている」
「住民が見やすいように並べ替えたのでは」
「掲示物は、貼った順番に並べています」
「それなら、誰かが勝手に触った?」
「触る人はいます」
森下はそう言って、斜めになった洗濯音の苦情をまっすぐに直した。紙の角を指の腹で押さえ、テープの上からゆっくり撫でる。その動作に慣れた手つきがあった。
「住民が掲示板に触るのは、普通のことではありませんか」
「普通です。だから困ります」
「困る?」
「貼ったものが剥がれる。順番が変わる。日付が分からなくなる。そうすると、住民は内容ではなく、貼り方の話を始めるんです。どれが先だった、誰が動かした、いつ見た。用件から遠ざかって、紙の位置だけが残る」
森下は軍手を片方ずつはめ直した。指先を引っ張り、皺を伸ばす。
「記録は、整っている方がいいんです」
「整っていれば、正しいんですか」
自分でも、少し刺のある声になったのが分かった。
森下はすぐには答えなかった。エントランスの自動扉が開き、外の風が流れ込む。植栽の土の匂いが、床に残った洗剤の匂いと混じった。遠くで子どもの笑い声がして、母親が「走らないで」と呼び止めている。
「正しいかどうかは、あとで決まります」
「あとで?」
「そのときに整っていれば、です」
「意味が分かりません」
「意味を分かろうとするより、日付を確認してください」
森下は掲示板から目を離さずに言った。
「日付と、貼られた場所と、剥がれた跡。それだけ見ていればいい。人が何を思っていたかまで拾おうとすると、記録が重くなります」
「赤丸も、そういう記録ですか」
私が尋ねると、森下の指が止まった。
止まったのは、ほんの一秒だった。けれど、カレンダーの赤線が閉じる瞬間のように、動作の中に小さな断絶があった。
「去年のものです」
「それは分かっています」
「前年のカレンダーです。今の掲示とは関係ありません」
「日付が一致しています」
「日付は毎年あります」
「点検日も、宅配の注意も、洗濯音の苦情も、全部偶然だと?」
森下は手元のカートを見た。洗剤のボトルが三本、同じ高さに並んでいる。そのうち一本の蓋だけが少し斜めになっていた。森下はそれを直さなかった。
「偶然かどうかを判断するのは、管理人の仕事ではありません」
「では、何が仕事なんですか」
「問題が起きたとき、問題として扱える形にすることです」
「扱えないものは?」
「扱えるものに変える」
「例えば?」
「洗濯音なら騒音苦情。郵便受けなら設備不具合。予定外の退去なら、退去届。記録の欄に入れば、建物は動きます」
「人間は?」
森下は初めて私を見た。
「人間は、動いたあとに書きます」
その言葉だけが、薄暗いエントランスの中で妙に鮮明だった。
私は手帳を閉じた。紙の束が小さく鳴る。
「前の住人は、なぜ退去したんですか」
「契約が終わったからです」
「急だったと聞きました」
「誰から聞きました」
「佐伯さんです」
「佐伯さんは、よく見ている人です」
「否定しないんですね」

「何をですか」
「急な退去だったことを」
森下は、カートの持ち手へ手を置いた。ゴムの表面が軋む。
「引っ越しは、いつも急です。出ていく人にとっては、前の日までが生活で、翌日には荷物です。外から見れば、どの退去も急に見える」
「でも、部屋にはカレンダーが残っていた」
「残す人もいます」
「点検カードも」
「返し忘れでしょう」
「白い紙も?」
森下の目が、今度ははっきりと動いた。
「白い紙?」
私は昨夜、郵便受けに入っていた紙を思い出した。机の上に置いたまま、出勤前に鞄へ入れている。何も書かれていない紙。折り目だけが残った紙。
「昨日、郵便受けに入っていました。宛名も何もない」
「管理会社のものですか」
「分かりません」
「紙を見せてください」
森下の声は低いままだったが、先ほどよりもわずかに早かった。
「持っています」
私は鞄を開こうとした。
そのとき、エントランスの奥で金属音がした。
郵便受けの蓋が、ひとつ閉じた音だった。
森下が顔を上げる。
私たちのいる場所から郵便受けまでは、数メートルしかない。けれど、そこには誰もいなかった。黒い郵便受けが壁一面に並び、差し込まれた広告の端が何本か覗いているだけだった。
もう一度、音がした。
今度は二つ。
少し間を置いて、三つ目。
金属の蓋が、順番に落ちていく。
森下はカートから手を離し、郵便受けの前へ歩いた。私は後を追った。床は朝の清掃で湿っており、靴底が薄く吸いつく。照明の白さが、濡れた床の上で細長く伸びていた。
郵便受けは誰にも触られていない。
それでも、三〇五号室の番号の下にある蓋だけが、わずかに開いていた。
森下は私より先に手を伸ばし、蓋を押し閉めた。金属が枠に噛み合い、乾いた音がする。
「不具合ですか」
「閉まりが悪いだけです」
「開く音もしました」
「ばねが戻ったんでしょう」
「三回、順番に?」
森下は私を見なかった。
「建物の音は、順番を持つことがあります」
「そんな説明で納得できると思いますか」
「納得してもらう必要はありません。出勤時間でしょう」
その言い方には、気遣いに似たものがあった。余計なことを考える前に、仕事へ行け。遅刻するな。生活を崩すな。そう言われている気がした。
私は鞄から白い紙を取り出した。
森下に渡す前に、紙の表面をもう一度見た。何もない。けれど、昨日より折り目が深くなっていた。中央の線が紙の繊維を割り、開いたはずの紙を二つに戻そうとしている。
森下は受け取らなかった。
「それは、部屋に置いておいてください」
「なぜですか」
「管理人室で預かると、預かり物になります」
「それの何が問題なんです」
「預かり物には、受け取った日付と返却日が必要です。誰から受け取ったかも書く。今の段階では、誰からのものか分からない」
「だから調べるんでしょう」
「調べるためには、まず名前が必要です」
「名前がないから困っているんです」
「名前のないものを、名前のある記録に入れると、あとで合わなくなります」
森下の言葉は、ひとつずつ蓋を閉めるようだった。
「では、部屋に置けばいいんですね」
「置く場所は、ご自分で決めてください」
「あなたは何か知っている」
「何も」
「何も知らない人間は、そんなふうに答えません」
私の声がエントランスに跳ね返った。少し遅れて、同じ言葉が天井近くから戻ってくる。
森下は怒らなかった。ただ、私の手の中の紙を見た。
「相川さん。暮らしを始めたばかりの人は、部屋の中にあるものを全部、自分のものにしようとします。家具も、音も、前の人の跡も。そうしないと落ち着かないからです」
「前の人のものを、自分のものにするつもりはありません」
「では、なぜ日付を書き写すんです」
返事が出なかった。
森下は続けた。
「捨てればいいものを残す。読まなくていい紙を読む。聞かなくていい音を確かめる。そうしているうちに、部屋のものが自分の生活の一部になります。そこまで行くと、外すのが難しい」
「脅しているんですか」
「助言です」
「助言にしては遅い」
「気づいた時点で、遅いことはあります」
森下はそう言って、カートへ戻った。私の手の中にある白紙には、最後まで触れなかった。
会社へ向かうため、私は自動扉を抜けた。
外は眩しかった。再開発地区の道路には、まだ車の少ない朝の空気が広がっている。新しい歩道のタイルは乾いていて、靴音が硬く返る。駅までの十一分を歩くあいだ、私は何度も鞄の中を確かめた。白い紙はある。手帳もある。黒いボールペンもある。
鍵、財布、定期。
三つを確認するたび、胸の内側の冷たさは少し薄れた。
しかし会社に着いてから、手帳を開くと、日付の横に見覚えのない書き込みが増えていた。
七月十八日――不在。
私はその文字を見つめた。
自分の字だった。
黒いボールペンで書かれている。筆圧も、文字の傾きも、いつもの私のものだ。けれど、七月十八日に何があったのか、私は知らない。少なくとも、手帳へ書いた覚えはなかった。
ページの端に、赤い粉が付いていた。
指で擦ると、粉は紙の繊維に沿って広がった。消えるどころか、日付の下に薄い線を引いた。
その日の夜、帰宅した私は玄関の前で立ち止まった。
郵便受けの蓋は閉じている。
カレンダーも、昨日と同じ位置に掛かっている。
ただ、九月十六日の赤丸の内側に、細い黒い点が一つだけあった。
誰かが、そこへ印をつける場所を決めていた。 私が見つけるより前に。 私が書き込むより前に。
← 横にスクロールして読み進められます
