2話 佐伯辰也の声

夜になって、私は最後の段ボールを寝室へ寄せた。

箱の側面には「衣類」と黒いマーカーで書いてある。中身は下着とシャツと、明日から着る予定のワイシャツだけだった。引っ越し業者が見れば、衣類というより、衣類を入れた箱と呼ぶだろう。けれど、分類は中身の量ではなく、あとで探せるかどうかで決まる。

私は箱の向きを壁と平行に直した。四隅のうち、手前の一角だけが二センチほど出ている。押し込むと、段ボールの底が床を擦った。乾いた音が、家具のない部屋の中で長く残った。

寝具を敷く場所も決めた。窓から離れすぎず、エアコンの風が直接当たらない位置。枕元にスマートフォン、手帳、黒いボールペン。明日の出勤時刻と、冷蔵庫の搬入予定を確認するためだった。

それだけで、今日の作業は終わりにしてよかった。

けれど、玄関脇のカレンダーが気になった。

赤丸の付いた日付を、私はまだ手帳から消していない。消す理由も残す理由もなかった。意味のないものは処分する。それがいつもの私なら、カレンダーごと外して管理人室へ持っていくべきだった。

私は壁を見た。

赤い丸は、こちらを見ているわけではない。紙に印刷された日付を囲んでいるだけだ。そう思いながら、私は玄関へ歩いた。

靴を履く必要はなかった。共用廊下に出るだけなので、私は靴下のまま扉を開けた。

冷房の効いた部屋にいたはずなのに、廊下の空気はそれより乾いていなかった。新しい建材の匂いに、誰かが夕食を作った油の匂いと、洗濯物の柔軟剤の甘さが薄く混じっている。窓のない通路に、各部屋の生活が少しずつ漏れ出していた。

私が扉を閉めると、金属のラッチが噛み合う音がした。

その音が壁に反射し、少し遅れて戻ってくる。

私は無意識に、郵便受けの位置を見た。玄関扉の外側に取り付けられた小さな蓋。昼間、点検カードを確認したとき、内側に細い擦り傷がいくつもあるのに気づいていた。鍵を差し込むときに付いたものかもしれない。前の住人が、何度も急いで開けたのかもしれない。

向かいの扉が静かに閉まった。

次いで、足音がひとつ、こちらへ寄ってくる。

一定の間隔だった。急いでいるわけでも、迷っているわけでもない。床を踏む音が三つ、間を置いて二つ。私は廊下の奥へ目を向けた。

「お引っ越しでしたか」

声の主は、同じフロアの男だった。

佐伯辰也と名乗った。五十代半ばに見える。手入れのいい髪を短く整え、薄い色のシャツの袖を肘までまくっている。手には、スーパーの小さな袋があった。袋の中で、ペットボトルが一度だけ触れ合った。

「はい。今日からです。相川といいます」

「佐伯です。三〇六号室ですから、お隣ですね」

佐伯は私の顔を見たあと、すぐに視線を室内へ移した。開いたままの寝室の扉、廊下に寄せた段ボール、そして玄関脇のカレンダー。順番が正確だった。

「荷物が少なくていいですね」

「必要なものだけにしました。冷蔵庫と洗濯機は、明日届く予定です」

「そうですか」

「単身ですし、仕事の異動で急に決まったので。家具は暮らしてから考えようと思っています」

「暮らしてから、ですか」

「動線を確認してから買った方が無駄がないので」

「なるほど。最初に揃えると、使わないものまで増えますからね」

佐伯は柔らかく笑った。笑ったというより、口元の形を一度だけ変えたように見えた。

「このあたりは、音が抜けますよ」

「音、ですか」

「壁が薄いという意味ではありません。新しい建物は、音が反響するんです。廊下と配管を通って、別の場所から聞こえることがある。隣の音だと思っていたら、五階だったり、下の駐車場だったりします」

「設備の問題でしょうか」

「設備だけではないですね。住んでいる人の暮らし方にもよります」

佐伯はそう言って、袋を持ち替えた。ペットボトルがまた触れ合う。乾いた音だった。

「ゴミ出しは、朝の八時までです。燃えるゴミは月曜と木曜。回収が来る前なら、袋が一つ増えていても誰も気にしませんが、時間を過ぎると見られます」

「見られる、というのは」

「誰かが見るんです。管理人さんか、たまたま通った住民か。分譲ですから、共有部分に出たものは、思っているより共有されます」

私は返事をせず、廊下の床を見た。

白い床材には、掃除用具を引きずったような薄い線があった。線は私の部屋の前で途切れ、三〇六号室の前からまた伸びている。誰かが毎朝、同じ道を掃除しているのだろう。だが線の間に、細い黒い跡が一つだけ残っていた。

「洗濯機は、夜に回す予定ですか」

佐伯が尋ねた。

「必要なら。帰宅が遅いので、夜になることもあると思います」

「何時くらいですか」

聞かれて、私は一瞬だけ言葉を失った。

「……日によります」

「そうですか」

「どうしてですか」

「いえ。前の方も、同じ時間に洗濯されていましたよ」

その一言が、背中を冷たくなぞった。

前の方。

佐伯は何気なく言ったのだろう。部屋の前の住人を指しているだけだ。けれど、部屋を空けたあとも、その人の生活が継続しているように聞こえた。

「前の住人は、いつまで住んでいたんですか」

私が聞くと、佐伯はすぐには答えなかった。袋の持ち手を指で直し、ビニールのねじれを伸ばしている。

「長くはなかったと思います」

「どれくらいですか」

「相川さんは、そういうことが気になる方ですか」

「カレンダーが残っていたので。赤い丸がいくつか付いていて、点検カードの日付とも合っていました」

言ってから、余計なことを話したと思った。佐伯の目が、再び玄関脇へ向いたからだ。

「見ましたか」

「はい」

「丸の数まで?」

「五つです」

「よく見ていますね」

褒められたようには聞こえなかった。

廊下の照明が一度、わずかに明滅した。蛍光灯の内部で何かが切り替わる音がして、白い光が戻る。佐伯は天井を見上げなかった。代わりに、私の足元へ視線を落とした。

「生活の跡は、残りますから」

「それは、分かります。釘跡や床の擦れもありますし」

「そういう跡だけなら、まだ扱いやすいんです」

「扱いにくい跡というのは?」

「人がいなくなったあとも、そこにいる人の時間が残っていることがあります」

私は佐伯の顔を見た。

彼は落ち着いたままだった。声の調子にも変化がない。冗談を言っているようには見えないが、深刻な話をしているようにも見えなかった。

「時間が残る、というのは少し抽象的ですね」

「そうでしょうか。洗濯機が回る時間、郵便受けを開ける時間、ゴミを出す時間。人がいなくなっても、しばらくは建物の中に残る。次に誰かが同じ場所で暮らし始めると、前の時間と今の時間が重なることがある」

「音の反響や、配管の振動でそう聞こえるだけでは?」

「そうかもしれません」

佐伯はあっさり認めた。

「集合住宅では、説明のつかないことの多くが、設備か、生活習慣か、そのどちらかです。どちらにも当てはまらないものを気にすると、住みづらくなります」

「では、気にしない方がいいんですね」

「気にしない方が楽なことはあります」

「でも、見逃すと困ることもある」

私がそう言うと、佐伯は初めて、少し長く私の顔を見た。

「ええ。見逃したことは、あとから音になりますから」

その言葉の意味を考えているあいだ、廊下の奥でエレベーターが到着した。表示灯が赤く点き、扉が開く。中には誰もいない。鏡面の壁に、私と佐伯の姿だけが映った。

私の背後、三〇五号室の扉の上に、玄関脇のカレンダーが反射している。

赤い丸が、五つ並んでいた。

佐伯はエレベーターへ歩き出したが、乗り込む前に振り返った。

「夜は意外と音が抜けますから」

「洗濯機の音ですか」

「それもあります。水の音も、足音も、郵便受けの蓋が閉まる音も」

「郵便受けの音まで聞き分けるんですか」

「聞き分けるというより、覚えてしまうんです。毎日同じ音を聞いていると、違う音がしたときに気づく。音は嘘をつきませんから」

「人は嘘をつく、と?」

「人は、嘘をつくというより、言わないことを増やします。言わないことが増えると、暮らしの方に出てくるんです。物の置き場所とか、洗濯の時間とか、玄関を閉める回数とか」

佐伯の声は静かだった。廊下の壁に吸い込まれず、私の耳の奥に直接残った。

「前の住人も、そうだったんですか」

聞くつもりはなかった。

佐伯は答えず、エレベーターの中の壁面を見た。鏡に映った自分の肩、その隣に立つ私の姿、さらにその後ろの廊下。誰もいないはずの奥で、照明の影が一度だけ横へ滑った。

私は振り返った。

廊下には誰もいない。

エレベーターの扉が閉じ始める。佐伯の顔が細く切り取られていく。

「前の方は、同じ時間に洗濯されていましたよ」

「何時ですか」

「相川さんが今日、洗濯機を置く予定の時間と同じです」

扉が閉じた。

残された廊下に、機械の低い駆動音が響く。エレベーターが下降していく音だった。私はしばらくその場に立ち、床から伝わるわずかな振動を足の裏で感じていた。

やがて音が消えた。

私は305号室へ戻り、鍵を回した。入る前に、鍵、財布、定期を順番に触る。三つともある。いつもと同じ確認だった。

それなのに、扉を開けた瞬間、部屋の中から洗濯物の乾いた匂いがした。

洗濯機はまだ届いていない。

私は玄関脇のカレンダーを見上げた。

赤丸の付いた五つの日付の下で、紙がわずかに揺れている。窓は閉まっていた。エアコンもまだ動かしていない。風の入る場所はない。

カレンダーの端を押さえようとして、私は手を伸ばした。

指先が赤い線の上に触れる。

鉛筆の粉が、皮膚の細い溝へ入り込んだ。赤い粉はすぐには落ちなかった。私は親指の腹で擦り、何度も手を洗った。それでも爪の脇に、薄い色が残った。

寝室へ戻ると、段ボールの位置が少しずれていた。

手前の一角が、さっきより二センチだけ出ている。

私は箱を押し戻した。床を擦る音がして、今度は部屋の奥から同じ音が返ってきた。誰かが別の場所で、同じ箱を動かしたような響きだった。

私は動きを止めた。

音はもう一度、返ってきた。

遅れて、廊下のどこかで洗濯機の蓋が閉まる音がした。短い金属音だった。続いて、床の下から低い振動が立ち上がる。

まだ洗濯機はない。

私は手帳を開いた。

今日の日付の横に、佐伯が言った時間を書き込もうとした。しかしペン先は紙に触れたまま、動かなかった。

記録すれば、ただの事実になる。

数字にすれば、扱えるものになる。

そう思っているのに、書き始めた瞬間から、それが私の生活の一部になる気がした。

私は手帳を閉じた。

廊下の向こうで、誰かの扉が静かに閉まった。追いかけるように、もう一つ、さらに遠くで閉まる音がした。

建物が、住人のいない部屋まで含めて、ひとつずつ眠りにつこうとしているようだった。

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