1話 段ボールの少ない部屋

夕凪レジデンスの外壁は、夕方の光を受けても新しかった。白い塗装の表面にはまだ雨筋もなく、窓ガラスには向かいの再開発区画のクレーンが細く映っている。けれど、建物の足元に植えられた低木のまわりだけは、舗装された街から取り残されたように土の匂いがした。水を含んだ黒い土と、根を切られた草の青臭さ。そこに新築特有の接着剤とコンクリートの粉っぽい匂いが重なっていた。

私はエントランスの脇に寄せた台車を押しながら、右手で鍵、左手で財布、そのあと胸ポケットの定期入れに触れた。

鍵。ある。

財布。ある。

定期。ある。

三つを確認すると、ようやく呼吸が一度、深く入った。

引っ越しのたびにやっていることだった。以前はもっと荷物が多く、台車も二台必要だった。今回は段ボールが八箱しかない。衣類が二箱、書類が二箱、日用品が三箱、残りの一箱には古い手帳と文具を入れた。冷蔵庫や洗濯機は後日届く。家具も、実際に暮らしてみて必要なものだけ買えばいい。余計なものを持たない方が、次に動くとき楽だった。

異動の辞令が出てから入居まで、三週間もなかった。会社は「急な話で申し訳ない」と言ったが、申し訳なさが段取りを遅らせることはない。私は通勤時間、家賃、駅からの距離、入居可能日を表にして、空いている部屋を上から順に潰していった。夕凪レジデンスは、駅から徒歩十一分、築浅、南向き、管理人常駐。条件だけなら、悪くなかった。

エレベーターの扉が開く。台車の車輪が床の継ぎ目に引っかかり、低い音を立てた。

三階で降りると、廊下は思ったより暗かった。照明は点いているのに、窓のない通路の奥には夕方が薄く溜まっている。私の靴音が壁に当たり、少し遅れて戻ってくる。誰かが遠くでドアを閉めた。金属のラッチが噛み合う音がして、それから、建物全体が何事もなかったように静かになった。

305号室の前で、私はもう一度、鍵に触れた。

扉を開けると、冷房の切れた空室の湿りが頬に貼りついた。外より涼しいわけではない。ただ、長く人のいなかった部屋の空気には、温度とは別の重さがある。壁紙と床材と、排水口に残った水の匂い。鼻の奥に薄い膜ができるようだった。

玄関に台車を入れ、靴を脱いだ。家具がないせいで、足の裏が床に触れる音までよく響く。廊下を一歩進むたび、床材の下で小さな軋みが返ってきた。

私はまず、荷物を置く場所を決めた。

衣類は寝室の壁際。書類はリビングの窓側。日用品は台所の手前。箱の向きを揃え、通路を塞がないように置く。収納が届くまでは仮置きだが、仮置きほど乱雑にしてはいけない。乱れたままにすると、あとで片づけるときに余計な判断が増える。

判断は少ない方がいい。

そう考えながら、私は玄関脇の壁に目をやった。

壁掛けカレンダーが残っていた。

前年のものだった。表紙はなく、十二か月分の紙が束になったまま、細い金具で壁に掛けられている。紙の端は湿気でわずかに波打ち、下の方には手が触れた跡のような灰色の汚れがあった。

外し忘れだろう、と私は思った。

退去の立ち会いで、前の住人が外すべきだったものを残した。管理会社も見落とした。よくあることだ。私はそういう小さな不備を、頭の中で処理するのが早い。

けれど、カレンダーを捨てるために手を伸ばしたところで、指が止まった。

日付のいくつかに、赤い丸が付いていた。

赤鉛筆で描かれた丸だった。どれも日付の数字を囲んでいる。丸の大きさはほとんど同じで、線の太さも揃っていた。乱暴に印をつけた感じがない。数字の中心を避けるように、細い赤線がきれいに閉じている。

五つ。

私は無意識に数えていた。

四月十四日、五月十六日、六月十三日、七月十八日、八月十五日。

月の半ばにだけ、赤い輪が浮かんでいた。

予定を書いたものなら、横に用件があるはずだった。歯科、点検、給料日、誰かの誕生日。だが丸以外の書き込みはない。余白は白いままで、数字の下にも何も記されていなかった。

私はカレンダーから視線を外し、段ボールを一つ持ち上げた。

持ち上げて、また見た。

見ないようにすると、かえってそこにあるものの形がはっきりする。赤い丸は壁紙の白さから浮き、私の視界の端で、まるで小さな傷口のように残った。

部屋の中には、前の住人の痕跡がいくつかあった。リビングの壁に残った釘跡。窓際の床に、家具の脚が長く置かれていたらしい浅い擦れ。洗面台の収納扉の内側に貼られた、剥がしきれない透明なラベル。どれも生活の範囲に収まるものだった。

カレンダーだけが、生活の外にあるように見えた。

私は箱を開け、古い手帳と黒いボールペンを取り出した。手帳は表紙の角が擦れている。仕事用に使っているものだが、予定のほかに、買った洗剤の銘柄や電気料金の引き落とし日まで書き込んである。曖昧なものが嫌いだった。記憶も予定も、紙にしてしまえば扱いやすくなる。

私は赤丸の日付を手帳に写そうとした。

四月十四日。

そこまで書いて、ペン先を止めた。

赤丸を写す理由がない。気になったからといって、前の住人の予定まで記録する必要はない。そう思ったが、すでに一つ書いてしまった。消すために黒く塗りつぶす方が、かえって不自然に見えた。

私はそのまま五つの日付を書き写した。

書き終えると、少し落ち着いた。数字は数字になった。壁にあった赤い印は、手帳の白い紙の上で、単なる情報へ変わった。

そのはずだった。

台所へ行き、蛇口をひねる。水が細く流れ、ステンレスの底で跳ねた。空っぽの部屋では、水音が長く続く。配管を通って壁の中へ入り、どこか別の場所から戻ってくるようだった。

私は水を止め、濡れた手をタオルで拭いた。タオルはまだ新しく、洗剤の匂いが強い。洗濯機がないので、今日のところは使った食器も出ない。紙コップとコンビニの弁当だけで夜を過ごすつもりだった。

冷蔵庫の置き場を確認し、コンセントの位置を測る。洗濯機置き場の防水パンには、黒い線が一本だけ残っていた。水垢か、ゴム脚の跡か。私はしゃがみ込み、指で触れた。乾いている。けれど、指先にはわずかにざらついた感触が残った。

立ち上がったとき、玄関の方で紙が擦れる音がした。

振り返ると、カレンダーの下にある点検カード入れが斜めになっていた。壁に細い釘で掛けられた透明なポケットで、何枚かの紙が差し込まれている。私は台車を押し入れたときにぶつけたのだろうと思い、玄関まで戻った。

カード入れを持ち上げる。

プラスチックの表面は曇っていた。新品の部屋にあるものとは思えないほど細かな傷があり、同じ場所を何度も指で押さえたように白く磨かれている。中には、ガス設備の点検カードらしいものが三枚入っていた。日付はどれも前年のものだった。

一枚を抜こうとして、紙の端に触れた。

ざらり、とした。

紙の繊維が指の腹に引っかかる。長く湿気を吸った紙の感触だった。私は一枚ずつ取り出して、日付を確認した。カレンダーに赤丸が付いた月と同じ月のカードがある。

四月十四日。

私は手を止めた。

点検カードの日付には、赤丸のある日と同じ数字が印刷されていた。もちろん、点検の予定とカレンダーの印が一致すること自体は不思議ではない。前の住人が点検日を覚えておくために丸を付けた。それで説明できる。

ただ、カードの欄には「不在」と記されていた。

細い黒字で、斜めに一行。

不在のため投函。

私はカードを裏返した。管理会社の連絡先と、再訪問の案内がある。もう一枚も同じだった。五月十六日。こちらにも「不在のため投函」。三枚目は六月十三日で、やはり不在だった。

赤丸の日付と、点検カードの日付。

同じ日に、住人は部屋にいなかった。

私は立ったまま、手帳に写した数字を思い出していた。四月十四日、五月十六日、六月十三日。赤い丸は予定ではなく、不在の日を囲んでいるのかもしれない。

それなら、なぜ何も書かないのだろう。

不在、と書けばいい。外出、と書けばいい。丸だけを付ける理由が分からない。

あるいは、書けなかったのかもしれない。

その考えが浮かんだとき、私は自分で少し笑った。前の住人が何を考えていたかなど、私には関係ない。カレンダーも点検カードも、管理会社に返せば済む。明日、電話をして処分してもらう。そう決めた。

決めたのに、赤丸の日付を手帳から消すことはしなかった。

私はカードを元の位置に戻し、点検カード入れを掛け直した。透明なポケットは壁に対して少しだけ傾いている。私はそれを直そうとしたが、釘が緩んでいるらしく、手を離すとまた同じ角度に戻った。

まっすぐにならない。

そのことが妙に気に障り、私は何度も掛け直した。右へ少し、左へ少し。水平器は持ってきていないので、目で確認するしかない。壁紙の継ぎ目を基準にして、今度は合っていると思ったところで手を離す。

やはり、わずかに傾いた。

私はそのままにした。

日が落ちると、窓の外に再開発地区の明かりが増えた。まだ入居していない棟も多く、点々とした照明が、暗い建物の中に浮いている。遠くでトラックがバックする音を立て、続いて短い電子音が三度鳴った。

私はコンビニで買った弁当を食べ、空になった容器を袋へ入れた。食べ終わったあと、袋の口を結び、玄関脇に置いた。明朝、ゴミ置き場へ出す。指定は午前八時まで。管理規約の冊子に書いてあった。

冊子を閉じると、またカレンダーが目に入った。

夜の照明の下では、赤丸が昼間より濃く見えた。紙の黄ばみが影をつくり、丸の内側だけが薄く沈んでいる。私は椅子をまだ買っていないので、段ボール箱に腰を下ろして、その五つを見上げた。

五つの印は、同じように見えて少しずつ違った。

四月十四日の丸は細い。五月十六日は線が二重になっている。六月十三日は右下だけ筆圧が強く、七月十八日は数字の一部に赤がかかっていた。八月十五日は、丸の外側に小さな擦れが残っている。

誰かが、何度も同じ日付を確かめたようだった。

私は手帳を開き、赤い印の横に自分の入居日を書いた。八月二十七日。今日の日付だ。

そこまで書いたところで、ページの端に折り畳んだ紙が挟まっているのに気づいた。財布の奥に入れていた旧住所の控え紙だった。私は一度取り出して机の上に置いたはずなのに、いつの間にか手帳へ移していたらしい。

紙を開くと、以前住んでいた部屋の住所が出てくる。

番地を見ても、特別な感情は起きなかった。駅から遠く、狭く、壁の薄い部屋だった。仕事が忙しくなって、ある朝、私は荷物をまとめて出た。そのとき何かあったような気もするが、思い出すほどのことではない。少なくとも、私はそう処理していた。

旧住所の下には、黒いボールペンで小さく日付が書かれていた。

八月二十七日。

私は息を止めた。

入居日と同じだった。

記憶違いだと思った。契約書を確認すれば分かる。引越し業者の伝票にも日付は残っている。私は立ち上がり、リビングに置いた書類箱を開けた。封筒を取り出し、紙を一枚ずつめくる。契約開始日、荷物の搬入日、鍵の受け渡し日。

どれも、今日の日付だった。

古い控え紙に書かれた日付だけが、別の部屋の記憶をこちらへ引き寄せている。

私は紙を裏返した。

何も書かれていない。

そう思った直後、玄関の方から、軽い音がした。

紙ではなく、金属の音だった。

郵便受けの蓋が閉じる音。

私は立ったまま、しばらく動けなかった。部屋には私しかいない。玄関の内側に郵便受けはない。音がしたのは、扉の向こうだ。

誰かが、外から郵便受けを開けたのだろうか。

私は鍵を確認した。財布、定期、鍵。三つともある。チェーンも掛かっている。扉の前まで歩くと、床が一度だけ軋んだ。

覗き穴から廊下を見る。

照明は白く、誰もいない。向かいの扉も閉じている。廊下の奥でエレベーターの表示灯が点き、三階の数字が赤く浮かんでいた。扉が開く気配はない。しばらくして、表示は二階へ下がった。

私は郵便受けの蓋に手をかけた。

金属は夜気を含んで冷たかった。指先を掛けると、かすかに油のような匂いがした。蓋を開く。

中には、薄い白紙が一枚入っていた。

封筒でも、広告でもない。名も、宛名も、文字もない。紙は中央で一度だけ折られ、その折り目が開いたままになっている。触れると、点検カードと同じざらつきが指に移った。

私は紙を取り出した。

裏返す。

何もない。

玄関脇のカレンダーに目をやると、赤丸のついた八月のページの下に、次の月の紙が少しだけ覗いていた。私はそれをめくるつもりはなかった。けれど、指に紙を挟んだまま一歩下がった拍子に、ページの端が揺れた。

九月の中央、十六日。

そこに、赤鉛筆の丸が一つだけあった。

私は手帳を開いた。今日の日付の横に、九月十六日を書き込む。

書き終えたあと、なぜそうしたのかを考えた。

答えは出なかった。  ただ、壁に残った印を見なかったことにするには、もう遅いような気がした。

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