第9話 管理人室の帳面

交番を出てから、私はまっすぐ602号室へ戻らなかった。
駅前の通りを一度通り過ぎ、川沿いの遊歩道へ出た。冬の朝の水面は、空の色をそのまま映しているようで、流れているのか止まっているのか分からなかった。自転車が背後を通るたび、私は肩をすくめた。足音が近づき、追い越し、遠ざかる。その一連の動きが確かに続いていることを、何度も確認した。
手帳を開く。
二時十七分。呼ばれた。 呼んだのは、わたし。
その下に書かれた名前は、何度読んでも判別できなかった。読めないというより、読もうとすると、別の音に置き換わってしまう。なお、という音の少し手前に、知らない名前が横たわっている。最後の文字だけが、子、に見えた。
私はページを閉じた。
知りたいと思った。けれど、知りたいという気持ちは、いまや好奇心ではなかった。自分の中から抜け落ちたものを拾い直さなければ、誰かの手で勝手に並べられたままになる。黒丸も、佐伯修一の退去も、幼い字も、私の名前も。
川沿いの道を戻ると、ヴェルデ桜台の外壁が見えた。灰色の建物の窓に、朝の光が一枚ずつ貼りついている。どの窓にも、それぞれの生活がある。カーテンを開ける人、朝食の皿を洗う人、出勤前に靴を探す人。誰も、隣の部屋の空白までは見ない。
エントランスの自動ドアを抜けると、管理人室の窓が開いていた。
中から番茶の匂いがする。
私は足を止めた。村瀬トシ子は、もう私が来ることを知っているような気がした。けれど、そう考えた直後、私はその考えを記録から外した。根拠がない。予測と事実を混ぜると、あとで自分がどこに立っていたのか分からなくなる。
ガラス戸を二度叩いた。
「はい、どうぞ」
村瀬は、昨日と同じ卓上電気スタンドの下で帳面を開いていた。朝なのにスタンドは点いている。薄黄色の光が、古い紙の上に小さな島を作っていた。
「あら、三枝さん」
村瀬は一拍置いてから、私の名前を呼んだ。
その一拍が、今日は長く感じられた。
「おはようございます。少し、見せてほしいものがあります」
「何かしら。落とし物なら、まだ届け出はないわよ」
「帳面です」
村瀬の指が、紙の上で止まった。
「どの帳面かしら」
「602号室の入居者台帳です。昨日、石田さんから写しを見せてもらいました。村瀬さんが保管庫から出したものだと聞いています」
村瀬は湯呑みに手を伸ばした。茶は冷めているのか、湯気がほとんど立っていない。それでも彼女は、熱いものを扱うときと同じように、両手で器を包んだ。
「古い記録を見ても、今の暮らしには関係ないでしょう」
「関係あります」
「どうして、そう思うの」
「私の名前の下に、別の名前が残っているからです」
村瀬は視線を上げなかった。
「名前が残っているのは、珍しいことではないわ。住み替えれば、前の人の名前が消され、その上に次の人の名前が書かれる。台帳というのは、そういうものよ」
「消される前の名前は、誰のものでもいいんですか」
「誰のものでもよくはないでしょう。でも、時間が経てば、名前だけが残ることもある。暮らしのほうが先に失われてしまうから」
「佐伯さんも、そうですか」
湯呑みの縁が、彼女の唇に触れる前で止まった。
「佐伯さんの名前は、台帳に残っているんでしょう。退去済みという記録もある」
「名前だけが残っているのに、本人がどこへ行ったかは誰も知らない。退去届には署名があるのに、私物は残っている。相談記録では、夜のことだけが抜けている。村瀬さんは、それを全部、古い住人のことだからで済ませるつもりですか」
「済ませるつもりはないわ」
村瀬はゆっくり顔を上げた。
「ただ、あなたが思っているように、何でも話せば済むことでもないのよ」
「話さなければ、私は何も知らないまま、602号室に住み続けることになります」
「知らないまま住める人もいるでしょう」
「私は無理です」
言ったあと、声が震えていることに気づいた。怒っているのか、怖いのか、自分でも分からない。ペンのキャップを外し、戻す。外し、戻す。その小さな音が、管理人室の沈黙に入り込んだ。
「生活は、自分で整えられると思っていました。物を決まった場所に置いて、予定を書いて、鍵とガス栓を二度確認する。そうすれば、知らない場所でも自分のものにできると思っていたんです。でも、602号室では、私が整える前に何かが整っている。郵便物の順番も、予定の日付も、私が部屋へ戻る時間まで。知らないまま従うことを、暮らしているとは思えません」
村瀬は黙っていた。
その沈黙は、拒絶とは少し違った。長い時間をかけて、何度も同じ言葉を飲み込んできた人の沈黙だった。
「あなたは、昔からそうだったのねえ」
「何がですか」
「自分で順番を決めたがるところ。物を並べて、紙の角を揃えて、違うところを見つける。小さい頃も、冷蔵庫の脇に座って、カレンダーを何度も貼り直していたわ」
空気が止まった。
私は、椅子の背から身体を離した。
「私を知っているんですか」
「知っている、というほどではないわ」
「でも、今、子どもの頃の私の話をしましたよね」
「あなたは、覚えていないのね」
「覚えていないから聞いているんです」
村瀬は目を伏せ、合鍵の束へ手を伸ばした。鍵の金属を指の腹でなぞる音が、ひとつ、またひとつと続いた。
「昔、このマンションがまだ別の名前で呼ばれていた頃、602号室には親子が住んでいたの。長くはなかった。お母さんは荷物をまとめるのが早い人で、部屋を出る前には何でも捨てていった。でも、子どもの書いた紙だけは捨てなかった」
「その子どもが、私ですか」
「そうだとは言っていないわ」
「村瀬さん」
「断定できないことを、簡単に言ってはいけないのよ。あなたも、石田さんも、記録を大事にする人でしょう」
「なら、断定できるものを見せてください」
私は手帳を開いた。最後の一文字だけが残る名前を、村瀬の前へ向ける。
「この字を見てください。壁紙の裏にも、同じ字がありました。黒丸の付け方も、私の手が知っている。高見沢さんの録音には、私の名前を呼ぶ声が入っている。佐伯さんは、私が今感じているのと同じことを相談していた。これでも、まだ私には関係がないと言えますか」
「関係がないとは言っていないわ」
「では、何なんですか」
村瀬は湯呑みを机へ置いた。
「部屋というのは、住む人の記憶を保存する場所ではないの。壁に染みが残るように、生活の癖や恐怖が残るだけ。次に来た人が、それを自分のものだと思ってしまうことがある。前の人の書いた字を見て、自分もそう書いた気になる。前の人が聞いた音を聞いて、自分も昔から知っていたと思う。そうやって、暮らしが混ざっていくのよ」
「それは、部屋のせいですか。それとも、住む人が弱いからですか」
「どちらでもないわ。人は、空白を見つけると埋めたくなるものだから」
「私の空白を、佐伯さんの記録で埋めろと言うんですか」
「違う。佐伯さんの記録を、あなたの空白にしてはいけないと言っているの」
思いがけない言葉だった。
村瀬は引き出しから、古い黒いボールペンを取り出した。昨日見たものと同じだった。軸には細かな傷があり、握る部分だけが白く擦れている。
「これは、佐伯さんが置いていったものですか」
「ええ」
「なぜ捨てないんですか」
「書いた人が、まだ戻るかもしれないから」
「戻ってきたら、返すつもりだったんですか」
「戻ってきた人に、何を返せばいいのか分からないこともあるでしょう。名前なのか、部屋なのか、それとも、忘れた時間なのか」
村瀬はボールペンを机の中央へ置いた。
「佐伯さんは、最初はよく記録する人だったわ。配達の時間、点検の予定、廊下の足音。紙の束を分類して、日付ごとに揃えていた。何か分からないことがあると、必ず書いた。書けば、物事は自分の外側に置けると思っていたのね」
「でも、書いたものに追いつかれた」
「そう。予定が先に埋まるようになって、記録したはずのことを思い出せなくなった。最後の頃には、自分の名前まで何度も書き直していたわ。佐伯修一。佐伯修一。そう書いて、字が自分のものに見えるか確かめていた」
私は手帳の上の名前を見た。
三枝奈緒。
その名前もまた、書き続けなければ自分のものではなくなるのだろうか。
「佐伯さんは、何をしようとしていたんですか」
「止めようとしていたのよ」
「黒丸を?」
「黒丸だけではないわ。部屋に起きることを、次の人へ渡さないように」
村瀬の声は小さかった。だが、曖昧さはなかった。
「最初の住人たちは、黒丸を付けていた。何が起きた日か、何を見たか、何を聞いたか。けれど、印を付けるだけでは何も終わらない。次に住む人が、その印を見つける。見つけた人は、自分の生活の中へ印を組み込み始める。毎月の日付を確認し、郵便物の順番を待ち、部屋の物を整え直す。そうしているうちに、前の住人が残した手順を、自分の手で続けるようになるの」
「手順を続けると、何が起きるんですか」
「次の人が選ばれる」
その言葉が、管理人室の低い天井に触れた。
「選ばれるって、誰に」
「それを聞かないほうがいい」
「また、それですか」
私は立ち上がりかけた。椅子の脚が床を擦り、乾いた音を立てた。
「聞かないほうがいい、見ないほうがいい、戻ったほうがいい。あなたたちは、私が何も知らないまま従うことを望んでいる。でも、私はもう従っています。毎日カレンダーを見て、郵便受けを確認して、物の位置を測って、増えた印を記録している。私はすでに手順の中にいる。なのに、知らないふりをしろと言うんですか」
村瀬は私を見上げた。
「知らないふりをしてほしいのではないわ。自分の意思で、ここから出てほしいの」
「出れば終わるんですか」
「終わる人もいる」
「佐伯さんは?」
村瀬の顔から、柔らかな表情が消えた。
「佐伯さんは、終わらせようとして、最後に自分で印を付けた」
「次の人へ渡すために?」
「違う。渡さないために、最後の印を付けたの」
「では、なぜ私は選ばれたんですか」
「あなたが、見つけたからよ」
「見つけただけで?」
「見つけたあと、捨てなかったでしょう」
言葉が、胸の内側へ刺さった。
黒丸を見つけたとき、私はカレンダーを捨てなかった。紙片も、不在票も、壁紙の下の書き込みも、捨てずに残した。証拠が必要だったからだ。忘れたくなかったからだ。けれど、残すという行為が、部屋にとっては「引き受ける」と同じ意味だったのかもしれない。
「捨てればよかったんですか」
「捨てても、燃やしても、剥がしても、見たことは消えないわ」
「なら、どうすればいいんですか」
村瀬は答えず、管理台帳をこちらへ引き寄せた。
帳面の表紙は黒ずみ、角が丸くなっている。何度も開かれ、閉じられ、誰かの手の脂が紙へ染み込んでいた。村瀬は留め具を外し、古いページをめくった。紙が乾いた音を立てる。けれどページの中央だけは湿っていて、指に吸いついた。
602号室の欄には、何人もの名前が並んでいた。
名前。入居日。退去日。
その間に、黒い丸が押されている。
私はページを覗き込んだ。
「これは、入居者の名前ですか」
「そう」
「退去日のない人がいます」

「記録から消えた人よ」
「失踪した人?」
「そう処理された人もいる。別の場所へ移ったことになった人もいる。家族が名前を消してほしいと言った人もいた。けれど、部屋に残ったものまで、誰かの都合で消えるわけではないの」
ページの端に、小さな紙片が挟まっていた。私は目を凝らした。
黒丸の下に、幼い字で二文字。
なお。
指先が勝手に伸びた。
「触らないで」
村瀬の声が鋭くなった。
私は手を止めた。
「なぜですか」
「その紙は、まだ誰のものか決まっていないから」
「私の字です」
「そう思うのね」
「見れば分かります。私が子どもの頃に書いた字です」
「字が似ていることと、あなたが書いたことは別でしょう」
「でも、私はこの部屋を知っている。冷蔵庫の位置も、換気扇の音も、壁紙の湿り方も。子どもの頃の記憶として、ずっと持っていた」
「記憶を取り戻したいの?」
私は答えられなかった。
村瀬の目が、初めて私の顔をまっすぐ捉えた。穏やかな管理人の顔ではない。長いあいだ、誰かが戻るのを待っていた人の顔だった。
「戻った記憶が、あなたを助けるとは限らないわ。昔のあなたが何をしたか知れば、今のあなたは自分を責めるでしょう。あの子が印を付けた。あの子が次の人へ渡した。そう思って、自分を部屋の中へ縛るでしょう」
「私が、誰かへ渡したんですか」
「子どもは、意味を知らずに手伝うことがあるのよ」
「誰と」
村瀬は、帳面のページを指で押さえた。
黒丸の隣に、古い筆跡で一行だけ書かれている。
保護者不在。佐伯氏、引き受け。
私は息を止めた。
「佐伯さんが、私を知っていた?」
「佐伯さんがあなたを知っていたのか、あなたが佐伯さんを知っていたのか、それは私には分からない」
「でも、この記録は」
「佐伯さんは、あなたの名前を何度も尋ねていた。三枝奈緒という今の名前ではない。もっと古い名前を。私は答えなかった」
「なぜですか」
「答えれば、あなたが戻ってしまうと思ったから」
「戻るって、どこへ」
村瀬は長い間、黙っていた。
管理人室の外で、宅配便の台車が床を擦った。エントランスの自動ドアが開き、冷たい風が流れ込む。都市の朝は、何も知らない顔をして動き続けている。
「602号室へ」
村瀬が言った。
「あなたが住んでいた部屋へ。あなたが名前を失った場所へ。そこへ戻れば、今の名前だけではいられなくなる」
私は帳面から目を離せなかった。
ページの隅に、黒丸がひとつある。今のカレンダーに並ぶ印と同じ形。中心に浅い窪みがあり、何度も押しつけた跡がある。
私は気づいた。
この丸は、予定の日を示しているのではない。
その日、誰かが部屋を見た。誰かが音を聞いた。誰かが、次の人のために印を残した。
記録ではなく、受け渡しの合図だった。
「村瀬さん」
私は顔を上げた。
「あなたは、ずっとこの部屋を管理してきたんですね」
「管理人ですもの」
「人が消えても、記録を整えて、次の人を入れてきた」
「そうしなければ、部屋は空いたままにならないわ」
「空いたままにしておけばよかったんじゃないですか」
「できないのよ。空室が続けば、管理会社が調べる。所有者が来る。部屋を剥がし、壁を替え、古いものを捨てる。そうなれば、残っているものが誰のものか分からなくなる。私は、捨てられる前に、せめて名前だけでも残したかった」
「それで、次の人へ渡した」
「渡したくて渡したのではないわ」
「でも、結果は同じです」
「ええ」
村瀬は、初めて逃げなかった。
「結果は同じだった。だから、私はあなたに来てほしくなかった。名前を聞いたとき、昔の子どもの声を思い出した。けれど、あなたが本当にあの子なのか、私には確かめられない。確かめてしまえば、また部屋の手順が動き出すから」
「もう動いています」
「そうね」
「なら、私が自分で決めます」
声にした瞬間、胸の奥のどこかで、細い糸が切れた気がした。
村瀬は私の顔を見つめ、それから帳面の最後のページを開いた。そこには、まだ誰の名前も書かれていない。白い余白の中央に、黒丸だけがひとつあった。
「これは何ですか」
「次の印」
「誰のための」
「まだ、決まっていないわ」
村瀬は机の引き出しから、あの黒いボールペンを取り出した。私の前へ差し出す。
「持っていきなさい」
「いりません」
「佐伯さんも、最初はそう言った」
「佐伯さんは、何をしたんですか」
「最後まで記録しようとした。けれど、記録するほど、自分が薄くなっていった。最後には、誰かが次の人になる前に、自分で印を付けるしかないと思ったのね」
「それが正しい選択だったんですか」
「分からないわ」
「村瀬さんでも?」
「管理人は、正しいことを知っている人間ではないのよ。残ったものを、壊さないように抱えているだけ。抱えているうちに、手放せなくなっただけなの」
私はボールペンを見た。
軸の傷が、指の記憶を呼び起こす。冷蔵庫の白い扉。床に座る小さな身体。隣にいる男の手。紙の余白へ、黒丸を押しつける感触。
次の人にも分かるように。
その言葉が戻ってきた。
「私は、このペンを持って帰りません」
「そう」
「帳面の名前も、書きません」
「それでいいの?」
「分かりません。でも、分からないまま、誰かが決めた手順を続けるのは嫌です」
村瀬は、ほんの少しだけ笑った。安堵なのか、諦めなのか分からない笑みだった。
「あなたは、昔から頑固だったわねえ」
「昔の私を知っているなら、名前を教えてください」
村瀬の指が、帳面の上で止まった。
「知りたいのね」
「はい」
「聞いたら、今の名前へ戻れなくなるかもしれないわ」
「それでも、自分で聞きたい」
村瀬は一度、目を閉じた。
「……菜緒」
音が、管理人室の中へ落ちた。
奈緒ではない。けれど、遠くない。幼い頃、誰かがそう呼んでいた。冷たい床の上で、黒いペンを握った私へ。紙を押さえる男の隣で、次の丸を待っていた私へ。
菜緒。
その名前を聞いた瞬間、管理人室の外で口金が開いた。
カチ。
村瀬の顔が強張る。
私は立ち上がり、ガラス戸の向こうを見た。エントランスの集合ポストから、白い紙が一枚だけ床へ滑り落ちている。誰も近くにいない。自動ドアは閉じたまま。空調の風もない。
紙の中央には、黒い丸。
その下に、今の私の名前が書かれていた。
三枝奈緒。
私は拾わなかった。
村瀬が低い声で言う。
「持ち帰らないの?」
「いいえ」
「見たのに?」
「見たことは、もう戻せません。でも、引き受けるかどうかは、私が決めます」
私は管理人室の帳面を閉じた。
紙と紙が触れ合う音が、部屋の奥で小さく響いた。誰かがページをめくったようにも、長く閉じていた扉がようやく戻ったようにも聞こえた。
廊下へ出る。
背後で村瀬が呼んだ。
「奈緒さん」
私は振り返らなかった。
それでも、次の言葉を聞いた。
「あなたの名前を、忘れないで」
エレベーターの扉が開く。鏡を見ずに乗り込む。六階のボタンを押すと、赤い数字がひとつ灯った。
上昇する機械音の中で、私は手帳を開いた。
最後のページに、黒丸がひとつ増えている。
その下には、私の字で、こう書かれていた。
菜緒は、まだ帰っていない。
私はペンのキャップを外した。
そして、初めて、書かずに戻した。
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