10話 帰る名前

六階へ着くまで、私は手帳を開かなかった。

エレベーターの中では、機械の唸りだけがしていた。壁の向こうを昇っていく音。扉の継ぎ目に沿って、薄い風が足元を撫でている。いつもなら階数表示を確認する。六になったら、鏡を見ないまま降りる。今日は、その手順を途中で忘れた。

扉が開く。

廊下には誰もいなかった。

それなのに、603号室の前に高見沢蓮が立っていた。片手に小型レコーダーを持ち、もう片方の手でイヤホンのコードを巻いている。私の姿を見ると、彼は一度だけ廊下の奥を見た。

「村瀬さんのところへ行ってたんですね」

「聞いていたんですか」

「音で分かります。エレベーターが一階から上がってくる途中、五階で一度、止まった」

「止まっていません」

「そうです。だから、分かった」

蓮はレコーダーの画面を私へ向けた。録音時刻が並んでいる。十一時十二分、十一時十三分、十一時十三分。ほとんど同じ時刻に三つのファイルが重なっていた。

「何を録ったんですか」

「あなたが管理人室で名前を聞いた音」

喉の奥が乾いた。

「私を録音していたんですか」

「廊下に置いていた。意図的に会話を盗んだわけじゃない」

「でも、聞いた」

「聞こえたので、保存しました」

蓮は私の表情を見たあと、レコーダーを下げた。

「怒っていいです。音を残すことが、いつも正しいとは限らない」

「怒っているんじゃありません」

「では、何ですか」

「自分の名前を、誰かに保存されるのが嫌なんです」

言葉にしてから、胸の内側にあった硬いものの形が分かった。名前は呼ばれるためにあると思っていた。けれど、この部屋では名前が紙に置かれ、台帳に写され、音声ファイルの末尾に保存される。残るほど、自分から離れていく。

蓮はしばらく黙っていた。

「再生しますか」

「いいえ」

「聞かないと、何が入っているか分かりません」

「分からないままにしておきたいものもあります」

「それで、602号室へ戻るんですか」

「戻ります」

「今の状態で?」

「戻る場所が、あそこしかないので」

蓮は小さく息を吐いた。

「あなたは、戻るという言葉を簡単に使わないほうがいい」

「どういう意味ですか」

「音声に、あなたの声は二つあります」

廊下の換気扇が回り始めた。どこかの部屋で水を流す音がして、それが壁の奥へ沈んでいく。

「一つは、管理人室で名前を呼ばれたときの声。もう一つは、その少し前です。あなたが何も話していない時間に、同じ名前を呼んでいる」

「菜緒、と?」

「違います」

蓮はレコーダーの画面を見たまま言った。

「もっと幼い声です。発音が少し曖昧で、最後が上がっている。自分を呼んでいるようにも聞こえるし、誰かに返事をしているようにも聞こえる」

「再生しないでください」

「はい」

返事が早かった。

「でも、これだけは言います。二つ目の声の直後に、紙を押さえる音が入っている。何かを書いている。黒丸を付けた音に似ています」

「黒丸を付ける音なんて、分かるんですか」

「分かります。今まで何度も聞いてきたので」

彼はレコーダーを握り直した。

「あなたが部屋へ戻るなら、俺も一緒に行きます」

「観測のためですか」

「最初は、そうでした」

「今は?」

蓮は答えなかった。

その沈黙が、他人のために使う言葉を探しているように見えた。やがて彼は、私の手元へ視線を落とした。

「一人で戻る音を、もう聞きたくない」

私は鍵を取り出した。

602号室の前に立つ。ドアノブは、触れる前から少し下がっていた。

鍵を差し込む。

回す必要はなかった。

扉は、閉まっているだけだった。

蓮が背後で息を止めた。私はドアの隙間へ指を入れ、ゆっくり押した。部屋の中から、冷えた空気が流れてくる。冷蔵庫のモーター音も、換気扇の唸りも聞こえない。

靴を脱いだ。

玄関の床に、黒い点が三つ並んでいる。汚れではない。ペン先を軽く押しつけたような、丸い跡だった。そこから部屋の奥へ、等間隔に続いている。

「踏まないで」

蓮が言った。

「分かっています」

私は壁際を歩いた。点は冷蔵庫の前で途切れていた。

カレンダーがない。

昨日まで冷蔵庫の脇に貼ってあった紙が、壁から外されている。マグネットは床へ落ちていた。紙だけが、部屋の中央に伏せられている。

私は立ち止まった。

「触らないほうがいい」

「分かっています」

「それでも、触るつもりでしょう」

「はい」

私はしゃがみ、カレンダーを裏返した。

裏面には、何本もの線が重なっていた。黒い丸を消そうとした跡。紙を破らないよう、何度も弱く擦った跡。その中央に、子どもの字で名前が書かれている。

菜緒。

その下に、大人の字があった。

帰るときは、今の名を捨てる。

私は文字をなぞらなかった。指を浮かせたまま、読む。

「何て書いてあるんですか」

蓮の声が背後からする。

「名前についてです」

「あなたの名前?」

「たぶん」

「たぶん、というのは」

「ここに書かれた名前が、私のものか分からないからです」

蓮はしばらく何も言わなかった。

部屋の隅で、何かが擦れた。

紙ではない。床の上を、硬いものがゆっくり動く音だった。

私は顔を上げた。

玄関の脇に置いたはずの黒いボールペンが、廊下へ向かって転がっている。村瀬の机に置かれていたものだ。持ち帰っていない。そう思ったのに、ペンは私の靴の先で止まった。

蓮が一歩下がった。

「触らないでください」

「触りません」

ペンの軸に、細い傷がいくつもある。その傷の間に、白い文字が浮いていた。

菜緒。

黒い軸へ、爪で削ったように刻まれている。

「名前は、書かれていませんでした」

私は言った。

「管理人室では、見えなかった」

「見えなかっただけかもしれません」

「違います」

自分でも驚くほど、はっきり声が出た。

「これは、今、ここで書かれたんです」

蓮がレコーダーを見た。画面の赤い録音ランプが点いている。

次の瞬間、部屋の奥から声がした。

菜緒。

幼い声だった。

私の声に似ている。似ているのに、私が今まで一度も使ったことのない高さで、名前を呼んでいる。

蓮が再生ボタンに指をかけた。

「止めてください」

「まだ押していません」

私はカレンダーを持ち上げた。紙の裏に、もう一行増えている。

帰るときは、今の名を捨てる。  帰らないときは、次の名を書く。

黒丸は、まだ一つも増えていない。

私はボールペンを拾わなかった。代わりに、自分の細字ペンを鞄から出した。キャップを外し、紙の余白へ置く。

蓮が低い声で言った。

「何を書くつもりですか」

「名前ではありません」

「では、何を」

私はペン先を紙へ当てた。

黒丸の隣に、日付を書いた。

今日見たことを、今日の私の字で。

線は少し震えた。それでも、丸は付けなかった。

書き終えた瞬間、部屋のすべての音が戻った。冷蔵庫が唸り、換気扇が回り、遠くで誰かが水を流す。生活の音が一斉に押し寄せ、私たちはその中へ立っていた。

カレンダーの裏で、幼い字が一つだけ薄くなった。

菜緒。

完全には消えない。

私はその名前を見つめたまま、今の名前を手帳へ書いた。

三枝奈緒。

書いた文字の下に、蓮のレコーダーから小さな音が漏れた。

紙をめくる音。

ぱさり。

次のページには、まだ何も書かれていなかった。

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