8話 別の名を呼ぶ声

朝、目を覚ますと、カーテンの隙間から薄い光が差していた。

眠ったという感覚はなかった。目を閉じていた時間が、夜の途中で切り取られ、そのまま朝へ貼りつけられたようだった。枕元のスマートフォンには、午前六時四十二分と表示されている。画面を消そうとした指が、通知欄の一番下で止まった。

録音ファイルが一件、保存されていた。

昨夜、高見沢蓮から受け取ったデータだった。再生した覚えはない。けれどファイル名の末尾に、見覚えのない時刻が追加されている。

02:17

私は布団の中で、その数字を見つめた。

昨夜の二時十七分、私は何をしていたのだろう。手帳を開く。いつものように、前日の出来事を時刻順に並べたページがある。二十一時四十分、帰宅。二十二時〇五分、石田さんからの着信。二十三時一八分、壁紙の下の記録を撮影。午前零時四十六分、就寝。

その次の行だけ、空白だった。

空白の右端には、鉛筆の粉が細く溜まっている。書こうとして、途中でやめたような跡だった。

私は再生ボタンを押さなかった。

代わりに石田裕也へ電話をかけた。交番の窓口で向かい合うより、音だけのほうが話しやすい気がした。顔を見れば、彼の表情から余計なものを読み取ってしまう。聞き取れない沈黙を、声だけならまだ記録として扱えるように思えた。

呼び出し音が四回鳴った。

「はい、石田です」

「三枝です。朝からすみません」

「いえ。どうされました」

声は眠そうではなかった。受話器の向こうで、紙をめくる音がする。石田は電話に出る前から、何かの記録を手元に置いていたらしい。

「昨夜、部屋の壁紙を少し剥がしました。裏から、昔のカレンダーの切れ端が出てきて……日付と黒丸、それから、子どもの字に似た書き込みがありました」

「書き込みの内容を教えてください」

「六月三日、六月十日、六月十七日。黒丸の横に、たぶん、見た、聞いた、渡す、と書かれていました。最後の字は潰れていて、はっきりしません。それから、大人の字で、子どもが印を付けた、と」

電話の向こうで、紙の端を押さえる音が止まった。

「写真はありますか」

「あります。ただ、写真にすると、三つ目の言葉だけ黒く潰れます。何度撮っても同じでした」

「その記録、もう一度見せてもらえますか」

短い言葉だった。けれど、頼むというより、確認するための手順を決める声だった。

「交番へ持っていきます」

「今から来られますか」

「はい」

「一人で来られますか」

問いの意味を考える前に、胸の奥が冷えた。

「一人で来られます」

「分かりました。ただ、部屋を出る前に、カレンダーと玄関の内側を撮ってください。撮影した時刻も残しておいてください」

「また記録ですか」

「記録に頼りすぎないでください、と言ったのは私です」

石田の声に、わずかな疲れが混じった。

「ですが、今は、記録がなさすぎる。佐伯さんの件もそうでした。残っている書類は整っているのに、肝心の夜だけが抜けている。三枝さんの部屋で何が起きているか、私にはまだ断定できません。でも、断定できないことを理由に、確認をやめるつもりもありません」

「石田さんは、佐伯さんのことをどこまで知っているんですか」

尋ねてから、聞くべきではなかったと思った。電話の向こうで、長い沈黙があった。遠くで誰かが話す声と、車の走り去る音がする。交番はもう動き始めている。私の部屋だけが、時間の外側に置き去りにされていた。

「知っている、というほどではありません」

ようやく石田が言った。

「佐伯さんは、二年前に一度、相談に来ています。部屋の前に人の気配がある。郵便受けに、宛名のない不在票が入る。自分が予定を書き込む前に、予定が埋まっている。そういう話でした」

「私と同じです」

「似ています」

「同じだと言ってください」

「三枝さん」

「違うと言うなら、何が違うのか教えてください。佐伯さんが見た黒丸と、私が見た黒丸は、位置も間隔も同じです。蓮さんの録音には、佐伯さんが住んでいた頃の声まで入っている。壁紙の裏には、子どもが印を付けたという記録がある。これだけ揃っていて、まだ似ているだけなんですか」

自分の声が荒くなる。石田は私を遮らなかった。

「同じだと認めたら、次に何をすればいいのか、私にも分からなくなるからです」

その言葉は、予想していなかった。

「分からないんですか」

「分かりません。警察の記録には、起きたことを分類するための項目があります。不審者、騒音、侵入、失踪、器物損壊。三枝さんの話をそのまま入れられる欄はない。だから、無理にどれかへ当てはめれば、必ずこぼれるものが出ます」

「では、こぼれたものは、なかったことになりますか」

「なりません」

石田の声が、今度ははっきりと硬くなった。

「少なくとも、私の記録からは消しません。だから、来てください。今あるものを、今ある形のまま確認します」

通話を終えたあと、私はしばらくスマートフォンを手にしたまま座っていた。

部屋の中には、朝の生活音が戻っていた。上の階で椅子を引く音。道路を走るトラックの振動。浴室の配管を水が落ちていく音。どれも日常のものだった。けれど、日常は音が多いほど安心できるわけではない。すべての音の中から、聞くべきものを選ばなければならない。その選び方を、私はもう自分で決められなくなっていた。

玄関を出る前に、カレンダーを撮影した。

黒丸は五つ。増えていない。

写真の撮影時刻は、七時十八分。

その数字を書き終えたとき、手帳の空白だった行に、細い文字が浮かんでいるのに気づいた。

二時十七分。呼ばれた。

私は息を止めた。

書いた覚えはない。だが、文字の形は私の筆跡に似ている。数字の二は少し潰れ、七の払いは短い。私なら、七をもっと右へ流す。子どもの頃からそうだった。そうだった、と考えたところで、幼い自分の字を実際に見た記憶があるのか、急に分からなくなった。

私はその行を写真に撮った。

撮影した画面では、「呼ばれた」の最後の一文字だけが黒い染みになっていた。

玄関の外で、金属が擦れた。

口金の音だった。

私は振り返らなかった。

部屋を出て、鍵を閉める。鍵とガス栓を二度確認する。靴の向きを揃える。いつもなら自分を落ち着かせるための手順が、その朝は、部屋へ戻るための順番に見えた。

エレベーターが一階へ降りていく。

鏡は見なかった。階数表示だけを追った。六、五、四、三、二、一。数字が減るたび、身体から自分の部屋が剥がれていくように感じた。けれど一階へ着いた瞬間、背後の空気だけが、まだ六階に残っている気がした。

交番のガラス戸を開けると、石田がすぐに顔を上げた。机の上には、古い相談記録、オートロック履歴、そして薄いファイルが並んでいる。彼は私の顔を一度見てから、視線を手帳へ落とした。

「おはようございます」

「おはようございます。朝からすみません」

「座ってください。まず、写真を見せてもらえますか」

私はスマートフォンを机の上へ置いた。黒丸、壁紙の裏の書き込み、手帳の空白だった行。石田は写真を順番に確認した。指先で画面を拡大し、撮影時刻を一つずつ読み上げる。

「七時十八分。こちらは昨日の二十三時十八分。これは……午前二時十七分に更新された録音ファイル」

「録音は再生していません」

「音を聞かずに、保存時刻だけが変わった?」

「はい」

「高見沢さんから受け取ったものですか」

「そうです」

石田はメモを取り、紙の角を押さえた。

「佐伯さんの記録を、もう少し見せます」

ファイルから取り出された一枚には、佐伯修一の名前と602号室の番号があった。相談内容の欄には、短い文章がいくつも並んでいる。

自分が書く前に、予定が埋まる。  丸印を消すと、別の紙に移る。  夜、部屋の中で紙をめくる音がする。  名前を呼ばれた気がするが、誰に呼ばれたか思い出せない。

最後の行を読んだ瞬間、指先が冷たくなった。

「これ、いつの記録ですか」

「二年前の九月です」

「佐伯さんは、そのあとどうなったんですか」

「相談の翌日に、取り下げの電話がありました」

「本人が?」

「記録上は、本人です」

石田は別の紙を重ねた。

「ただ、この電話のあとに、オートロックの履歴があります。深夜二十三時五十一分。602号室の住人用キーが使われたことになっている。その三分後、管理用の搬入口が開いています」

「搬入口?」

「昨日お話しした裏手の出入口です。古い台帳には、そこを使った記録が残っていました」

石田は紙面を私のほうへ向けた。日付と時刻の欄だけがあり、利用者の名前は空白だった。空白の横に、黒丸が一つ打たれている。

「これは誰が付けたんですか」

「分かりません。管理会社の記録にはありませんでした。村瀬さんが保管庫から出してきた写しにだけ、あとから足されたようです」

「佐伯さんは、搬入口から出たんですか」

「分かりません。オートロックの履歴と搬入口の鍵の記録が、同じ時間帯にある。それだけです」

「でも、そのあと佐伯さんの荷物が部屋に残っている。退去届だけが整っている」

「はい」

石田は一枚のコピーを裏返した。裏側には、細い筆跡で短い文章が書かれていた。

次の人が来るまで、部屋は閉じておく。

字は佐伯のものに見えた。だが署名はない。

「これは佐伯さんが書いたんですか」

「本人の筆跡と断定できる資料はありません。ただ、当時の担当者は、佐伯さんが自分のメモを残す習慣のある人だったと話しています」

「担当者に会ったんですか」

「今朝、管理会社へ照会しました。担当者は退職していて、直接の連絡はついていません。ただ、当時の報告書は残っていた」

「そこに、何と書いてあったんですか」

石田はすぐには答えなかった。書類をめくり、何度も同じ欄を見返している。

「設備異常なし。住人不在。私物なし。通常退去」

「実際と全部違う」

「そうです」

「どうして、そんな記録が残るんですか」

「間違いかもしれません。書き写しの誤り、担当者の確認不足、あるいは別の部屋の報告書が混じった可能性もあります」

「可能性を並べて、また終わらせるんですか」

「終わらせるつもりはありません」

石田は私の目を見た。

「ですが、何かが説明できないとき、可能性を一つに決めることも危険です。佐伯さんが失踪したのか、意図的に退去したのか、別の場所へ移ったのか。それを確認しないまま、602号室に何かがいると決めれば、あなた自身の記憶や恐怖まで、ひとつの筋書きに押し込めてしまう」

「私の記憶が間違っていると言いたいんですか」

「違います。あなたが見たものを、あなたのものとして守りたいだけです。誰かが作った説明を、そのまま渡したくない」

石田の言葉は穏やかだった。だが、そこには職務上の慎重さだけでなく、個人的な怯えがあった。彼自身も、記録の外側に落ちた人間を見たことがあるのだろう。見つからないまま終わった失踪。酔客の錯覚として処理した深夜の通報。紙の上で整えられた事件が、現実では誰かの帰りを待つ部屋として残る。

「石田さん」

私は手帳を閉じた。

「私が子どもの頃、この部屋にいた可能性はありますか」

石田の指が紙の端で止まった。

「どうしてそう思うんですか」

「壁紙の裏の字が、私の子どもの頃の字に似ています。黒丸の付け方も、手が覚えている。カレンダーの余白を見ていると、次にどこへ印を付ければいいか分かる。考えているのではなく、先に手が知っているんです」

「ご家族には確認しましたか」

「まだです。母には、昔のことを聞いても、いつも話を濁されるので」

「三枝さんの現在の姓は、いつからですか」

質問が、思っていたより深い場所へ入ってきた。

「生まれたときから……だと思います」

「思います、というのは」

「母子手帳も戸籍もあります。戸籍上は、ずっと三枝です。でも、記憶の中に、別の呼ばれ方がある。誰かが私を、奈緒ではない名前で呼んでいた気がするんです」

「その名前は」

「分かりません。最後が、子、だったような気がします」

石田は目を伏せ、ファイルの中から別の紙を取り出した。

「これは、管理人の村瀬さんが保管庫から出したものです。昔の入居者台帳の写しだそうです。正式な原本ではありません」

紙の上には、部屋番号と入居年月日が並んでいた。602号室の欄だけ、何度も削られたように薄い。佐伯修一の名前の下に、さらに古い名前の跡がある。文字はほとんど消えている。

ただ、最後の一文字だけが残っていた。

子。

「この名前を、村瀬さんは何と言っていましたか」

「何も。『古い記録だから』とだけ」

「見せることをためらっていたでしょう」

「はい」

「私も、ためらいました」

石田は紙を私へ差し出した。

「これを見れば、あなたの記憶が戻るとは限りません。むしろ、戻らないものを無理に繋げてしまうかもしれない。それでも確認しますか」

私は紙を受け取った。

端が冷たかった。古い紙の乾いた感触ではなく、冷蔵庫の側面に貼ったカレンダーへ触れたときと同じ湿り気がある。指の腹に、薄い黒が移った。

私は名前の跡を見た。

読めない。読めないのに、音だけが先に胸の中へ浮かんだ。

なお。

誰かが呼んでいる。

交番の外で、車がブレーキを踏んだ。窓ガラスが低く震える。その振動に重なって、紙をめくる音が聞こえた。

ぱさり。

私は顔を上げた。

交番の中には、石田と私しかいない。彼の手元の書類は閉じられている。窓も閉まっている。なのに、机の上のファイルの奥から、もう一度、紙を押さえる音がした。

石田も聞いたのか、視線を落とした。

「今の音、聞こえましたか」

「はい」

彼の声が、初めて震えた。

紙の上に、黒い丸があった。

さっきまでなかったはずの位置に、私が持っている台帳の写しの端へ、濃い丸が一つ沈んでいる。

その下に、小さな文字が浮かび上がった。

――なおは、まだ帰っていない。

交番を出た私は、冬へ向かう朝の空気の中で、急に足元の感覚を失った。

道路の白線も、エントランスのガラスも、ヴェルデ桜台の金属扉も、見慣れた場所にある。けれど視界の端だけが、私より一拍遅れて動いていた。

私は手帳を開いた。

空白だった二時十七分の欄に、今度は別の文字が増えている。

呼んだのは、わたし。

その下に、知らない名前が続いていた。

――奈緒ではない、昔の私の名前。

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